楢岡城 「強盗大将」羽川義稙② | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

由利郡羽川の土豪・羽川義稙は、小なりといえども由利十二頭のひとりに数えられる領主の身でありながら、近郷の富家や旅人らを襲っては財貨を奪い、山賊海賊を稼業として月日を過ごしていました。
近隣の領主領民は彼を「強盗ノ大将」と呼んで憎んだと、『奥羽永慶軍記』は伝えます。
 
彼らのやり口は大胆かつ巧妙でした。
例えば羽川が隣領の楢岡領、大友(小友)という在所の豪農を襲った折のこと。 
 
―究竟ノ強盗三十餘人其外荷持五十餘人ニテ山路ヲ越…(『奥羽永慶軍記』より)
 
羽川勢は屈強な強盗衆30人ほどの他、荷物持ち50人ほどを従えて夜道ひそかに越境。
目星をつけた豪農の家は険しい山道を抜けた先にあり、堀や土居を引き回した広大な敷地の四方には矢倉を立てていたと云います。
が、肝心の見張りは偶々いなかったか、または居眠りでもしていたか。
 
羽川勢はまず大森という名の身軽な若者が三間鑓を抱え、ひらりと棒高跳びの要領で堀を飛び越えて土居の内に侵入。中から木戸を開くと、待ち構えた羽川勢がどっと押し入りました。
 
豪農の屋敷にも男衆が30人ほど詰めていたそうなので一応用心していたのでしょうが、ほとんどが具足の用意もなく素肌だったと云いますから、完全に不意を打たれたのでしょう。
そこかしこで始まった乱闘で豪農方の男衆は次々討たれ、阿鼻叫喚のなか、残った4~5人の男が20人ほどの女子供を守って裏口から逃れ出たそうです。
 
羽川勢がそれを追いかけ、討ちもせず逃しもせずまとわりついたのは、領主への通報を遅らせ、荷物持ち達が屋敷内のものを運びだす時間稼ぎのためでした。
また、頃合いをみて屋敷に火かけ退却したのは、里の者に消火の手間を強いるためで、つまりは追い討ちを防ぐ手段でした。
 
それでも変事を知った楢岡の武士が駆けつけて追ってくると、略奪した荷物を先に急がせ、強盗衆が防戦すると見せかけて散開。
決して固まることなく散り散りに山へ入って逃げ、昼は隠れて夜動き、予め仲間同士で集まる場所を決めておいてさらに逃げたから、この時も首尾よく「強盗」の成果を得ました。
が、当然ながら楢岡の衆には強く憎まれたと云います。
 
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楢岡城は別名・揚土(あげつち)城とも言われ、雄物川と楢岡川の合流地点を望む古舘山がその城跡です。

 
創建は鎌倉時代にさかのぼり、相模三浦氏の一族・佐原時連が築いたと云われます。
長禄2年(1458)には横手増田の城主だった小笠原光冬が攻略して取って代わり、以後は小笠原氏が在城。この小笠原氏が地名をとって、「楢岡」姓を称するようになりました。
 
 
登城口より。
樹木が刈られて馬蹄型(U字型)の輪郭が見えています。
 
 
尾根に挟まれた真ん中の谷を登ったあたりに案内板があり、その隣に柱穴跡がありました。
平成3年(1991)9月の台風で倒れた木の下から現れたそうで、今も倒れた樹木ごと保存されています。
戦国期に存在した掘立小屋跡の可能性もあり、位置からして番小屋とも仮定できそうです。
 
 
二の丸と三の丸を仕切る堀切。
この城跡は全体的に保存状態が良好で驚かされます。
元は鬱蒼とした樹林だったそうですが、刈り取ってくれるだけでこれほどの遺構群を目にすることができます。
 
 
 
本丸跡に到着しました。
北側に土塁が巡っていて、その外側に切られている深い堀切は圧巻です。
高さは8mほどもあるでしょうか、傍らに転落注意の案内がありました。
 
 
楢岡城に拠点を移した楢岡氏はその後、角館の戸沢家と姻戚関係を結び、次第に重臣化してゆきます。
天正15年(1587)、戸沢盛安安東愛季と戦った唐松野の戦いでは、楢岡家8代・楢岡光清が戸沢方として活躍。
その後も戸沢家と密接な関係は続き、慶長7年(1602)、戸沢盛安の子・政盛関ヶ原合戦の論功行賞で常陸松岡4万石に封じられたのに従って常陸へ転出。
楢岡城もその際、廃城になったと思われます。
 
 
展望のよい三の丸から、楢岡家が支配したかつての楢岡領を望んでみました。
目の前に流れる楢岡川はやがて雄物川に合流し、雄物川は羽川義稙の所領だった由利の下浜の脇を流れて秋田市街へ至ります。
 
戦国期の楢岡領は戸沢家の勢力圏にあって、南に小野寺、西に由利十二頭の諸氏と境を接する要所。
羽川の「強盗」ぶりを憎んだ楢岡衆も、羽川退治に割く兵の余裕もなく、忍耐の中で機会を待ったのかも知れません。
 
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さて。
勢いに乗る「強盗大将」羽川は、いつしか仙北の要衝・大曲城を手に入れたいと思うまでになっていたと云います。
 
しかし大曲城は戸沢家直属の支城で、戸沢の当主は「夜叉九郎」の渾名をもつ勇将・戸沢盛安。
今までのように富豪の家に押し入るのとは訳が違うため、虎視眈々と隙を窺っていたその折。
おそらくは天正16年(1588)か同17年(1589)ごろ。
 
ここに赤尾津九郎という者が登場します。
彼は羽川と同じ由利十二頭の一角、赤尾津家の次男。どうやら羽川の心情を察していたようで、使者を送って口上しました。
 
―御邊兼テ御望ノ地大曲七郷、此度御手ニ入ヘキ時節到来セリ、其故ハ…(同上)
 
貴殿がかねてお望みの大曲を手に入れる好機ですぞ。
角館はいま西の稗貫勢に攻められ、戸沢は配下を総動員して防戦している。大曲も楢岡も非常に手薄であるから、貴殿は大友口からそれらを攻め取られるがよかろう。我らは神宮寺口から攻めるので、成功の暁には神宮寺周辺は我らに…
 
キター!!(゚∀゚*)
と喜んだかどうか知りませんが、日ごろ狡猾な羽川がころりとこれに騙されたのは、よほど大曲に執着していたか、もはや武人ではなく「強盗」に成り果てた者の限界だったか。
 
羽川はさっそく領内の者をかき集めて500ほどの軍勢を仕立て、大曲を目指して進攻開始。
最初の敵地はかつて「強盗」に押し入った楢岡領でしたが、なに無人の野を行くようなもの…と、この時の羽川は思ったでしょうか。
 
 
羽川勢来る…
急報が入った楢岡城はこのとき手薄でも何でもなく、逆に角館から戸沢盛安自身が出張してきていました。
まさに“飛んで火に入る夏の虫”的タイミングで、城主・楢岡光清は驚くと同時に勇奮。
 
―一人残サス討取ラン、幸今日ハ角館殿ノ来リ給フコソ能キ御遊覧ニ候ラヘ…(同上)
 
羽川め一人残さず討ち取ってくれる。幸い今日は角館殿(戸沢盛安)が来ておられるから合戦をご覧いただこう…
 
楢岡方は近郷にも激を発し、またたく間に2千の軍勢を集めて羽川勢を迎撃。
思わぬ大障害に羽川は焦りますが、作戦もなく意地になって攻めかかったため再起不能の大敗を喫し、500の手勢はわずか40~50人になったと云います。
文字通りほうほうの体で自領に逃げ戻った羽川が遭遇したのは、帰るべき本拠・羽川新館から落ちてきた十数人の家来たち。ここで羽川は、自分が出陣したあとガラ空きの本拠を攻め落とされたことを知ります。
襲ったのは他でもない、赤尾津の軍勢でした。
 
城も所領も家来も失った羽川義稙は、その後、仙北方面に逃れて帰農したとも、放浪のなかで窮死したとも伝わります。
 
 
 
クローバー訪れたところ
【楢岡城跡】秋田県大仙市南外古館山