羽川新館 「強盗大将」羽川義稙① | 落人の夜話

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秋田市の南端に近い下浜は、日本海に面した長い海岸線をもつ旧由利郡の一地域で、荒波の向こうに夕陽の沈む光景にはちょっと恐いような迫力がある、そんな場所です。

 

天正(1573~1593)の頃、この辺りを支配していたのは由利十二頭の一角・羽川義稙で、羽川氏はかの新田義貞の末裔を称していますから、それなりに名流かも知れません。

しかしこの人の名はそんな武門の矜持とは無縁で、曰く「強盗ノ大将」(『奥羽永慶軍記』)と史書に記されています。

 

―由利ノ羽川小太郎義植(稙)領地ハ僅ニシテ人數大勢ナリ故ニ扶持ヲナサンニ詮方ナク…(中略)…他領ヘ出富ル郷民共ヲ夜討シテ、往還ノ旅人ヲ討テ貨ヲ奪ヒ取、山賊海賊ヲ事トシテ年月ヲ送リヌ…(『奥羽永慶軍記』より)

 

由利郡の羽川小太郎義稙は、少ない領地に多数の家来をかかえていたので、これを養うために他領の金持ちや旅人を襲って財貨を奪い、山賊海賊を稼業に日々を送っていた…

 

なにぶん戦国時代ですから、合戦や略奪など全国的に日常茶飯事だったでしょう。

そんな時代にあってなおこの羽川が忌み嫌われたのは、いやしくも一領の主でありながら大義も名分もなく、その場その場の欲求を満たすために、敵でもない非戦闘員への襲撃を繰り返す所業の浅ましさでありました。

 

―時ニ天正十三年羽川ノ浦ニ男女大勢乗タル舟数艘着タリ…(同上)

 

天正13年(1585)。

その羽川領の海岸に、大勢の男女が乗った数艘の舟が漂着しました。

土地の者が尋ねたところ、彼らは能登畠山家の家来とその家族らで、旧重臣の温井景隆らに与して前田利家佐久間盛政らと争ったものの、打ち負けて海へ逃れ出たと答えたそうです。

 

―宮ノ腰浦ヨリ舟ニ乗何處ニ落着ン頼モナク乗出シ此頃ノ亂風ニ舟ヲ寄ヘキ方モナク…(同上)

 

能登は宮の腰という浦より当てもなく乗り出し、乱風に吹かれて寄るべき所もなく…

わずかの食も水も尽き果てて、ここに漂着した次第。何卒助けたまえと、そう懇願したそうです。

 

先に細かいところに突っ込んでおきますと、温井景隆らと前田利家・佐久間盛政が能登で争ったのは天正10年(1582)ですから、「天正十三年」というのは誤差がありそうです。

ただ、よりによって「強盗大将」のもとへ漂着してしまったのは彼らの不運で、さっそく「強盗」の子分たちが寄ってたかって舟内をあさり、「皆殺しにして武具や衣類を奪おう」とはしゃぐ者あり、「窮鳥懐に入れば何とやら、命は助けてやれ」と言う者あり、落人たちを足元に置いてがやがやと議論を始めました。

 

舟の者も元は畠山の武士でしたが、何日も飲まず食わずで体弱り、また多数の女子供をかかえて手も足も出ず、ただ歯噛みして推移を見守るのみ。

最終的には大将たる羽川義稙の判断で落人たちの命は助けられ、羽川の配下に加えられました。が、これによって羽川はさらに勢いを増し、いよいよ手のつけられない「夜討強盗」ぶりを発揮したと云います。  

 

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羽川氏の菩提寺である珠林寺の南側、少し離れた小山に羽川新館と呼ばれる史跡があります。

 

「館」といってもしっかり城跡で、ここが羽川義稙の根城だった場所。

新館というからには古館の跡もあるようですが、羽川氏がここへ居を移した時期は不明。少なくとも上記の義稙の時代にはこの新館が本拠地だったようです。

 

 

 

登城口の案内板と、少し登ったところに立つ標柱。

概略図を見ると堀切や曲輪跡のほか、おっと、畝状竪堀まで残っているようです。

 

道端に駐車できるスペースがあったので、暫く車を停めさせてもらって登りはじめます。

 

 

 

登り道の途中より。

周囲は水田が多く、向こう側に見える丸い丘に珠林寺があります。

 

 

日本海から強い風が吹き寄せる秋田県の沿岸部では、風力発電の風車をよく見かけます。

あの稜線の向こうは日本海。

旋回する巨大なプロペラ。ウゥゥ…と低く唸るような重低音が耳に届いてきます。

 

おっと。時刻は17:40。

GWの時期とはいえここは秋田県。関東や関西に比べると格段に日が短く、夕陽になればつるべ落としです。

サクサクと回るとしましょう。

 

 

 

本丸跡に到着。

西側に土塁を備えていて、かつその土塁が本丸への出入口を押さえています。

また削り残した尾根道は、城の内側斜面に削平された曲輪群の頭上を守る天然の大土塁になっています。

 

縄張りの考え方としては福島県の久川城が思い起こされます。羽川義稙が活躍した天正10年代とも考え合わせて、やはり戦国末期の雰囲気を強く感じます。

 

 

こちらは畝状竪堀跡。

下草が刈られて見やすく、ぱっと見ただけでも7~8本の畝が確認できます。

 

す、素晴らしい…(°▽°)

畝状竪堀って何故かテンション上がりますよねえ。まあ、お城ファン限定の話ですけども。

 

 

石高にすればせいぜい数千石程度だったであろう羽川氏の身上を考えたとき、この城は比較的規模も大きく入念な印象です。

合戦や小競り合いが日常だった戦国の由利地方にあって、いざ籠城の時、ここには武士ばかりでなく、多くの領民を含めた人数が入ったのかも知れません。

 

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戦国時代の由利郡は北に秋田の安東氏、南に庄内の大宝寺氏、東に横手の小野寺氏といった大名勢力に囲まれていましたが、由利郡自体には大名と呼べる程の勢力はなく、数百から数千石クラスの国人たちが一揆のような連合体を形成していました。

これを「由利十二頭」と呼び、今回の主役である羽川義稙もその一人に数えられる訳ですが、彼らの連合は必ずしも一枚岩ではなかったようです。厳密には12という数も正確ではなく、多くの土着勢力が時の都合で離合集散を繰り返していたのが実態でしょう。

 

羽川は近隣にスパイを放ち、富家や豪農があれば不意打ちをかけて金銀米穀を強奪したと云います。

同じ「由利十二頭」でもたびたび「強盗」被害に晒されていた周辺領主たちは、羽川を憎んだものの互いに警戒しあってうまく対処できず、その間にも羽川は着々と力を増したようです。

天正16年(1588)、安東(秋田)家に勃発したお家騒動において、羽川は安東家の当主・安東実季に請われて実季方として参戦。5月3日の合戦では反乱軍側に味方した小野寺義道に得意の夜討ちを仕掛け、一泡吹かせるほど存在感を増しています。

 

さらに『奥羽永慶軍記』は、小野寺義道が帰国の途中で自領内の神宮寺八幡宮に参詣したところ、いつの間にか羽川が願文を奉納していたというエピソードを紹介しています。

その願文の内容がまたふるっています。

 

―諍自他所領故政事不得其正、民間日日窮困、惡賊満州縣…(同上)

 

みな自分の領土を広げようと争い、政治をおざなりにするので民衆が困り、悪い奴が天下に満ちている。そこで私は悪い領主を滅ぼし、自分が領主となって善政を敷こうと思う…

 

「さても羽川の不心得なる願文かな。己が強盗を職としておきながら…」

自領の寺社に残されたふてぶてしい願文に、小野寺は怒るよりつくづく呆れたと云います。

むろん嫌がらせでしょうが、現代なら他人に厳しく自分に甘い某野党議員みたいな面の皮の厚さで、この頃の羽川はずいぶん調子に乗っていたのかも知れません。

 

とはいえ、そんな羽川にも破滅のときがやってきます。

が、ちょっと長くなってしまいましたので、続きは次回といたします。

 

 

楢岡城」につづく

 

 

 

クローバー訪れたところ

【羽川新館跡】秋田県秋田市下浜羽川字滝ノ鼻