波照間島 パイパティローマの伝承 | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

 
波照間島で初めて「波照間ブルー」を目にしたとき、私はもうわざわざ海外まで海を見に行くことはないんじゃないか、これで十分だと、本気でそう思いました。

思えば北に流氷を、南に珊瑚礁をはぐくむ海があるこの国の環境は、世界でも稀有のものでしょう。そこに生まれた幸運に感謝しつつ、グラデーションに彩られたニシ浜の波照間ブルーをしばらく眺めておりました。


 
時節はまだ3月。でも気温は20℃ちょっとあって、すでに泳いでいる人もいました。
なので、私も超久しぶりに海水に入ってみました。

実は私、水泳は得意なんです。立ち泳ぎから平泳ぎ、そして日本古来の「のし」…
おっと、なぜか古式ゆかしい省エネ泳法ばかりですが、これが気持ちいいこと。
珊瑚の外礁(バリアリーフ)に守られた海は波も穏やかで、ライトブルーの水面に顔をつけてみると、ゴーグルなしでもかなり見通せます。


 
生を終えた珊瑚は石化して波打ち際に上がり、やがて白い砂となって浜にうずもれます。
ここはまさに、「果てのうるま(珊瑚)」の島でありました。

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波照間島を訪れた私は、まっさきに島の史跡・下田原城跡を訪ねたわけですが、しかしこの島の魅力はそれだけでは…というか、普通はそれ以外の方面に絶大な支持があるわけでして(^^;
前回の「下田原城」記事のつづきをちょっとお休みしまして、今回は島を歩いてみますね。


 
島の主産業はサトウキビの栽培。
毎年11月から4月ごろまでかけて刈り入れられたサトウキビは、島内にある工場で順次精製されています。


  
島産のその黒糖は、ご当地の商品にも生かされています。

左上の写真は星降る島の黒糖ジンジャーエール
これ、私の中では一番のお勧めです。ジンジャーエール本来の爽やかさに、黒糖のコクがうまく乗せられてて最高でした。

右上は黒蜜かけ放題のソフトクリーム
こちらは黒糖本来の濃厚なコクと甘さがそのまま味わえます。
ニシ浜近くのカフェ「パーラーブーブー」にて。


  
小さな島の集落にはスーパーもコンビニもなくて、かわりに共同売店があります。
左上はそのうちのひとつ、名石共同売店

住民の出資によって運営されている共同売店は、サトウキビ刈り作業に従事する人々の便宜を図るためもあって、おおむね朝7時ごろから夜10時ごろまで頑張って開けてくれています。
24時間営業でなくても別に不自由はありません。共同売店は、島の助け合い精神で成り立っているのです。
手作り弁当も充実していて、私のように素泊まりの宿を選んだ観光客は、滞在中きっと何度かお世話になるでしょう。

島にはいくつかカフェがあって食事もできます。右上はそのうちの一店「kukuru cafe」でいただいたタコライス。地産の野菜を使っているそうで、おいしくいただきました。
カフェには主に観光客が集まりますが、みんなまったり過ごしていて、島時間を楽しんでいるようでした。

もう少し歩いてみましょう。


  
左上の写真をご覧ください。
波照間島といえばコレ…と、酒飲みは言うらしい、幻の泡盛、「泡波」の波照間酒造所でございます。

足元をご覧いただきますと右上の写真。
日本最南端・波照間島の夜空に浮かぶ南十字星をあしらった、ご当地マンホールでございます。


 
おっと。ご注意下さい。

島にはあちこちで放し飼いにされた山羊がいるんですがね、これがけっこう個性がありまして。臆病なのや人懐っこいのもいれば、中には攻撃的なやつもいたりします。

例えば上の山羊。
リードでつながれ道端の野草を食べてる横を歩てたら、わざわざ草むらから出てきたんで、おーよしよし\(^_^)…と思ったら、

…ズコッやぎ座!!Σ(゜ロ゜ノ)ノ

頭突きをかましてきました。
ハブのいない波照間島に危険生物はいないと思ってましたが、これは意外な伏兵です。

でも、ご存知でしたでしょうか。山羊の角ってあったかいんですよ。
それにこの子たちはふだん雑草を食べ、必要となれば「山羊汁」の肉となって島民の生活を助ける、貴重な家畜でもあります。
どうぞ愛情をもって接してあげて下さいますよう。


 
日本最南端の碑より、南の彼方を望んでみました。

港やビーチのある北側と違って、南側は大半が断崖地形です。
私が旅した日の夜はあいにく雲が多かったのですが、晴れた夜は、あの水平線のすぐ上あたりに南十字星が浮かぶのです。

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この島に「パイパティローマ」という伝承があります。
当地の言葉で「パイ」は「南」、「パティローマ」は「波照間」、すなわち「南波照間」。

むかし、島に「ヤグ村」という村があったそうです。
厳しく取り立てられる重税と現地役人の横暴に耐えかねたヤグ村の人々は、ある夜、アカマリという男に率いられ、税の徴収のために寄港した公用船を盗んで島抜けを図ったそうです。

首里の記録『八重山島年来記』のうち、順治五戌子(慶安元年:1648年)の段にこんな記述があります。

―波照間之内平田村百姓男女四五十人程、大波照間与申南之嶋江、欠落仕候…(『八重山島年来記』より)

波照間島の「平田村」の百姓、男女あわせて40~50人程が、「大波照間」という南の島を目指して欠け落ち(脱走)した…
1648年といえば琉球王朝では第二尚氏の尚質王、本土では徳川家光が将軍の頃。
首里の琉球王朝が先島諸島にのみ課した過酷な「人頭税」が、この島の人々にも苦難をもたらしていた時代です。
「ヤグ村」と「平田村」、「南波照間」と「大波照間」、伝承と史料では多少名詞の違いはありますが、時代背景や出来事はほぼ一致します。

いま地図を見ても、波照間島の南には太平洋の大海原がひろがっていて、現実には「南波照間島」も「大波照間島」も見つけることはできません。
ただ、昭和のはじめに先島諸島を旅した柳田國男は、

―遍く洋中を漕ぎ求めて終に其島を見出し、我島に因んで之を南波照間と名づけたと傳へて居る…(『海南小記』より)

という伝承も記録しています。
ヤグ村の人々をのせた船は途中で航路を西に変え、今の台湾やフィリピンあたりの一島に到達することができたのでしょうか。それとも…


 
島の夕景より。

「パイパティローマ」はひとつの「ニライカナイ」、つまり別世界の理想郷を目指し、海の向こうへ旅立った人々のお話です。
ロマンあふれるこのお話の裏側には、いまは平和なこの島に、かつて「人頭税」をはじめとした筆舌に尽くしがたい重圧の歴史があったことを物語ります。島に残った人々は、ヤグ村の人々が追い求めた希望に託し、南波照間に楽園をみたのでしょう。
彼らがどこへ行ったのか、それ以上のことはわかりません。

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ザパーン!

うおっ…
そんな旅先の物思いは、高速船の窓にぶつかる波の衝撃に打ち消されました。
写真は波照間島から石垣島へむかう高速船にて。
いやあ、この日はこれでも穏やかな方だそうですが、そこそこ来ますね、波と揺れが(・・;)

という訳で、今回は波照間島のリポートでした。
次回はオヤケアカハチの関連史跡に戻りますね^^



 訪れたところ
【ニシ浜】沖縄県竹富町波照間
【パーラーブーブー】竹富町波照間886-1
【名石共同売店】竹富町波照間89
【波照間酒造所】竹富町波照間156(http://awanami.net/
【kukuru cafe】竹富町波照間3146
【日本最南端の碑】竹富町波照間