下田原城 波照間島の二人 | 落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

「…島に来てまずそれを聞かれたのは、お客さんが初めてですよ」

日本最南端の有人島・波照間島で、港まで迎えに来てくれた民宿のオーナーは、虚を突かれたのか、少し間をおいてそう言われました。

私が聞いたのは、この島の城跡である「ぶりぶち公園」の場所。
ビーチの場所を聞かれることはよくありますけど…と、呆れるような感心するような風情のオーナーに、「ぶりぶち」ってどういう意味なんでしょう、と踏み込んでみると、実に興味深い話をしてくれました。

「ぶりぶち」は「ぶり」と「ぶち」という二つの単語で成立していて、オーナーがむかし親戚筋の古老から聞いた話によると、本来は順番が逆で「ぶちぶり」が正しいとか。
当地の方言で「ぶち」は武士、「ぶり」は居所。
つまりそこは、「武士の居た所」という意味になります。

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関西空港から石垣島行きの飛行機に乗り、そこから高速船で約1時間半。
沖縄本島から400km以上も南西に散らばる、先島諸島を構成する離島のひとつ、波照間島を目指すなら、多少の覚悟と余裕が必要です。

石垣島と波照間島をつなぐ高速船は波次第でたびたび欠航するうえ、乗れたとしてもよく揺れることで有名なのです。ついたあだ名が「ゲロ船」と言えばお察し頂けましょうか(*_*;

私の場合は行き帰りとも天候に恵まれ、多少の揺れはあったものの概ねスムーズでしたが、これはかなりラッキーなほう。
興味のある方はYouTubeなどで検索いただけたらと思いますが、外海をゆくこの高速船、場合によってはジェットコースターに例えられる揺れが1時間半ほど続くわけで、この点は渡航希望者にとってハードルではあるでしょう。船に弱い方は酔い止め薬とビニール袋が必須です。


 
波照間島という、いかにも南海の絶島を思わせる魅惑的な名称の由来はいくつかありますが、有力なのは「果てのうるま(珊瑚)」。
その言葉通り、有人島としては南の果てになるこの島の、珊瑚をはぐくむ海の青さには感動するほかありません。

上の写真は島のビーチ、ニシ浜にて。
「ニシ」は現地の方言では北を指すので、紛らわしいですがニシ浜は島の北側にあります。
民宿のオーナーが観光客に場所を聞かれることが多いのも、このビーチだそうです。
あまりの美しさに惹かれて私も超久しぶりに泳いでみたんですが、それはまたの機会でご報告するとして。

やはり城跡紀行家(自称)として、まずは第一目標たる件の「ぶりぶち公園」を目指します。


  
「ぶりぶち公園」に残る城跡は、下田原城跡。
戦災被害を免れたこの城跡は、琉球地方の城(グスク)の様相をそのまま残す貴重な史跡とされ、国史跡にも指定されています。

右上の写真はその入口。おそらく城門があったのでしょう。石垣の切れ目は高低差のある虎口のようになっていて、足元には石段の跡もみえます。


  
ジャングルを思わせる亜熱帯の林を奥に分け入ってみると、思ったより懐が深い。石垣の向こうにまた石垣が見え、3~4つほどの間仕切り(曲輪)があった様子が確認できます。
間仕切りの間には二重の石垣と、堀らしき凹みが確認できる場所もありました。

さらに最奥部に入ってゆくと御嶽(うたき)と呼ばれる拝所の跡も見えたのですが、これは地元の方々が大切にしている信仰の場でもあり、それ以上踏み込んでの探索は控えさせていただきました。


 
石垣を接写。
本土に見られる石垣と一見して異なるのは、石質の違いです。これは「琉球石灰岩」と呼ばれる、珊瑚礁のはたらきによって造られた石。「果てのうるま」の島らしい情景のひとつかも知れません。
多数の気孔を含む石は水はけがよく、加工もしやすいので、琉球地方では昔から住居などに用いられたようです。


 
城跡から北側を望んでみました。
南の島の天気は変わりやすく、この日も晴れたり曇ったり。でも、水平線のむこうにはうっすら二つの島影が見えました。左が与那国島、右が西表島です。

島の北岸に面する断崖上に築かれたこの城の沿革は不明ですが、発掘の際に15世紀ごろのものと思われる青磁器が出土しているほか、石垣遺構の状況などからみて、やはり15~16世紀ごろにはすでに機能していたとされます。
とすれば、オヤケアカハチ長田大主(なーたふーしゅ)とのかかわりを感じるべきでしょう。

これには当時の先島諸島における歴史背景を知る必要があります。
『球陽』によると、1390年に宮古島や八重山の勢力が首里(沖縄本島)の王府に朝貢したとされています。ただ、『球陽』は1700年代中頃になって編纂された首里(琉球王朝)側の史料。
実際には交易があったことを、いわゆる「朝貢貿易」の認識で琉球王朝が記録したのでしょう。

15世紀ごろの先島諸島は群雄割拠の時代。まだ首里王府による支配も十分及んでおらず、宮古島の仲宗根豊見親、西表島の慶来慶田用緒、与那国島の女傑・サンアイイソバなど、島ごとの実力者が鎬を削った時代です。
そしてこの波照間島は、先島諸島の歴史に特筆されるオヤケアカハチ長田大主という、二人の風雲児を輩出したことでも知られています。


  
島の集落には、二人を生んだ家の跡にそれぞれ碑が建てられていました。
小さな集落ですから、ふたつの碑の間は歩いて5分ほどの近さです。

この島で生まれた二人はそれぞれ石垣島に渡り、そこで頭角をあらわします。のちにアカハチは長田大主の妹を妻としたそうですから、二人は親戚でもありました。
が、時代の荒波にのまれた同郷の二人は、その後、袂をわかつことになります。

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オヤケアカハチという、この不思議な名前の由来も確たる説はありません。
ただ、いくつかの資料を読み込んでみた個人的な感想でいえば、「オヤケ」=「大きな宅(やけ:屋敷)」、「アカ」=当地の方言で「髪」または「赤い髪」、「ハチ」=「按司(あじ:琉球地方の用語で、地域の支配者を指す)」、つまり、「大きな屋敷に住む赤髪の按司」という意に説得力を感じます。

また、八重山各地に残された倭寇遺跡の状況から考察して、アカハチの父は倭寇の男ではなかったかという説(『八重山の社会と文化』古川純編:南山舎刊)もあり、海風にもまれた赤茶色の髪と精悍な肉体をもつ人物像を想像させます。
生年は不明ですが、17歳ごろ石垣島に渡った彼は大浜という村を足がかりとして島の東部に大きな勢力を築き、のちに先島諸島を震撼させたオヤケアカハチの乱(1500年)の主導者として記憶されることになります。

一方、長田大主は1456年の生まれ。8歳で石垣島に渡り、島の南部を勢力圏としてアカハチを妹婿に迎えました。

ちなみに同時代の朝鮮半島に洪吉童という義賊(?)がいて、韓国では小説上のヒーローでもあるそうです。ある韓国人学者は「アカハチは洪吉童と同一」説を主張していましたが、例によってまともな根拠も価値もない珍説でした。


1500年。
アカハチが首里王府への貢物を拒否して反旗を翻したとき、長田大主は45歳。年齢的にも貫録を備えていたであろう義兄に、当初アカハチは協力を懇望しました。
が、周囲を取り巻く状況は単純ではなく、結局、二人は別の道を選んで対立することになります。



フルスト原遺跡」に続く


 訪れたところ
【下田原城跡(ぶりぶち公園)】沖縄県竹富町波照間
【ニシ浜】同上
【長田御嶽(長田大主生誕地)】沖縄県竹富町波照間85
【アカハチ誕生の碑】沖縄県竹富町波照間2996