フルスト原遺跡 オヤケアカハチの乱 | 落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

石垣島の新石垣空港から石垣市街に向かう途中に、白保という小さな集落があって、前面に広がる海はアオサンゴやハマサンゴの生息する貴重な珊瑚礁で知られています。


 
白保海岸は干潮になると、ワタンジ(渡道)と呼ばれる陸地が顔を出し、沖にみえるリーフ(珊瑚礁)まで歩けることがあります。
私が訪れたとき、海岸にちょうどこのワタンジが現れていて、あちこちにできた水溜まりには小さな魚が取り残されているのもみえました。

古来、この地には「魚垣」という漁法があったそうです。
「魚垣」とは海岸に石垣で囲んだスペースを組んでおくもので、満潮のときその中を泳いでいた魚は、潮が引くと取り残される。これを狙う漁法です。

古人もこのワタンジを見てヒントを得たのでしょうか。
現代社会のスピード感からすれば実にのどかな漁法ですが、「魚沸く海」といわれた白保の海の恩恵を、自然に逆らわずにいただくやり方だったでしょう。



こちらは船着き場。
石を積んで囲んだだけの素朴なものですが、「魚垣」に通じる面影もあります。


白保の海をひらいた人々は、昔、波照間島からやってきたそうです。

明和8年(1771)。
先島諸島を襲った大津波(明和の大津波)は、ここ白保村にも押し寄せました。
各村の被害状況をまとめた『大波之時各村之形行書』という史料によると、白保村の被害は「男女千五百四十六人」。
一村の被害としてこの数字は先島諸島全体の中でもトップクラスで、津波前の白保村の人口が1574人だったそうですから、壊滅というほかない惨禍です。

が、時の支配者たる琉球王朝は税の減収を恐れ、比較的被害の小さかった波照間島の住民を強制移住させて白保村を再開拓させます。これを「寄百姓」といいます。

白保村に移った波照間島の寄百姓たちは、荒れ果てた土地で疫病と飢饉に遭い、辛苦を重ねながら今に残る白保の礎を築く訳ですが、それはここでは措くとして。

波照間島から石垣島へやってくる人々の存在自体は、ずいぶん前から確認できます。
たとえば明和の大津波から約300年も前、波照間島から海を渡ってきた男が、白保村のすぐ隣、大浜村に居を定めていました。
のちに八重山の英雄と云われる、オヤケアカハチです。

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白保から車で15分ほど。
国道390号線沿いにある大浜公民館を海側に入ったところに、オヤケアカハチの像があります。
ざんばらの髪と筋骨隆々の肉体をもつ豪傑が、海を指して号令する風情に再現されていて、なかなか躍動感があります。

今は当地の英雄とされるアカハチですが、首里に琉球王朝が存在した頃は“逆賊”として扱われていました。
波照間島に生まれた彼の生年は不詳ですが、のちの事跡から逆算して推定するなら、おそらくは1460年ごろの生まれでしょうか。
伝承によれば、17歳ごろ石垣島に渡って大浜村に住んだ彼は武勇に秀で、次第に付近のリーダー的存在となったようです。

一方その頃、同じ波照間島出身の長田大主(なーたふーしゅ)が石垣村、今の石垣市街あたりに勢力を築いていました。
長田大主が妹のクイツバをアカハチに嫁がせたのも、単に同郷というばかりでなく、その存在感を見込んだのかも知れません。

彼が活躍した時代は、本土では“魔法半将軍”こと細川政元が専権をふるっていた室町後期。沖縄本島では首里の琉球王朝(第二尚氏)が尚真王のもとで最盛期を迎えていた頃。
先島諸島には島ごとの実力者が存在し、それぞれ琉球王朝と関係を取り結んで割拠していました。

事件は宮古島の実力者、仲宗根豊見親(なかそねとぅみゃ)が八重山に渡り、琉球王朝への貢納を催促したことに始まります。
仲宗根豊見親のこの行動は、琉球王朝を背景にして八重山での勢力拡大を狙ったか、又は圧迫を受けたのでしょうが、琉球王朝の正史である『中山世譜』ではこう説明しています。

―先是、宮古島、八重山、自洪武年間以来、毎歳入貢往来不絶、奈八重山酋長有掘川原赤蜂者、心變謀叛、両三年間、絶貢不朝…(『蔡鐸本中山世譜』より)

宮古島や八重山は洪武年間(1368~98)より毎年朝貢してきていたのに、八重山の「堀川原赤蜂」という酋長が謀叛を起こし、両3年にわたってこれを絶った…
更にこの「赤蜂」が宮古島まで攻める気配を見せたので先手を打った…というような記述もみえますが、なにぶん勝者側の史料ですから差し引いて読まなければなりません。

ただ、ともかくこの時点でアカハチは琉球王朝への「入貢」を3年にわたって拒否。
首里や宮古島との対決を覚悟した彼は、まず義兄たる長田大主に協力を依頼します。
が、宮古島の仲宗根豊見親とも姻戚関係にあった長田大主はこれに同意せず、かえって二人の弟をアカハチのもとへ派遣し、首里に従うよう説得にあたらせました。大主はアカハチの意図を無謀と見たのでしょう。

ところが。
何とアカハチは、義兄弟にあたる二人の使者を殺害。
この非情な措置は、すでに情勢が緊迫していたことを思わせます。もはや後戻りできないアカハチは、ここに至って島内で味方しない勢力の存在を許す訳にはいかなかったのでしょう。

驚いた長田大主は舟で西表島に逃亡し、仲宗根豊見親を通じて首里にアカハチの蜂起を急報。
武勇とカリスマ性が伝わるアカハチと、婚姻政策を背景とした政治力で力を蓄えてきた長田大主。親戚であり、同郷人でもあった二人は、ここに決別しました。
オヤケアカハチの乱(1500年)です。

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アカハチの居城だったと伝えられるフルスト原遺跡は現在、車のナビに表示されるその場所を目指すと、この碑のある場所に誘導されます。

が、紛らわしいことに、ここにあるのは石碑と古い案内板ばかりで遺構は見えません。
もっと言えば、実際の遺構は石碑の背後にそびえ立つ台地上にあります。
史跡整備の途中らしき工事もされていましたが、現時点ではここから直登もできず、北側に回り込んで道沿いにある入口を探す必要があります。


 
その入口を入ったところ。
ご覧の通り車の出入りはあるようですが、とにかく分かりにくい(--;)
いちおう国史跡ですし、整備が進んでほしいものです。


  
しかし、その道を抜けると別天地のような素晴らしい遺構が広がっています。
アクセスの悪さとの落差が大きすぎて驚きますが、ここは行き届いた整備がなされ、案内板も設けられています。


  
宮良湾を望む台地上にあるこの遺跡は、立地的には要害といえ、城としての機能も十分推測できます。

ただ、沖縄地方の他の城(グスク)にみられるようなエリアを囲む城壁はなく、石垣で区切られた区画がいくつも立ち並ぶ光景は、純軍事的な意味での城跡とは一線を画します。
一通り見て回った感想から言えば、城というより街、または高貴な墓地群のイメージです。


西暦1500年。
ここ大浜で兵を挙げたアカハチは島内外に檄を飛ばし、蜂起に同意しなかった川平村の仲間満慶山(なかまみつけーま)や、故郷・波照間島の有力者だった明宇底獅子嘉殿(みうしくししかどぅん)を殺害。
そのやり口はなかなか陰惨です。
仲間満慶山はアカハチとの会談が物別れに終わった帰り途、ケーラ岬で闇討ち同然に討たれたといいますし、明宇底獅子嘉殿はアカハチの配下に拉致され、船上で殺されたうえ遺体は海に投げ捨てられたと伝わります。

後味の悪いこれらの話は、アカハチが単なる正義の英雄ではなく、戦乱の時代に生きた苛烈な梟雄でもあったことを物語ります。
名のある戦国武将がしばしばそうであったように、戦いを前にした彼は感傷に縛られることなく、容赦ない粛清を図ったとみるべきでしょう。


 
遺跡のある台地上から宮良湾を望んでみました。

敗者として滅んだアカハチには、彼のために語る文献は残されていません。なのでここが本当に彼の居城であったかも、実のところ不明です。
ただ、その可能性があると考えられるのは、遺跡の時代考証がアカハチの生きた時代と合致すること、彼の本拠とした大浜には他にこれほどの遺跡が見られないこと、さらに王府の鎮圧軍が上陸したとき、

―只見赤蜂領衆兵、背嶮岨、面大海、布擺陣勢…(『蔡鐸本中山世譜』より)

アカハチは衆を率い、険しい地形を背にして、海に面した場所に布陣していた…
という王府側の記述に、フルスト原遺跡の地形が合致するという、状況証拠の羅列があるからです。


旧暦2月19日。
王府の軍勢は、宮古島の仲宗根豊見親を先陣として上陸を開始。
上記の地形に陣取ったアカハチ勢には多くの婦女子がおり、手に手に草木の枝をもって激しく敵を「呪罵」したといいます。

やがてアカハチ自身が先頭に立って出陣すると、その勢いをみた王府勢は無理攻めを避け、翌20日、ひそかに兵を二手に分けて挟撃。
その結果アカハチ勢は崩れ、豪勇を謳われたオヤケアカハチもついに討ち取られました。

乱軍の中で捕らえられたアカハチの妻・クイツバは降参せず夫に殉じ、彼女の兄である長田大主は王府に忠誠を誓って石垣島の「頭職」に任命されます。

王府に反抗したオヤケアカハチの乱は、先島諸島を戦乱に陥れました。が、王府の支配は先島諸島に長い抑圧と重税の時代を呼び込むことにもなります。
オヤケアカハチと長田大主が目指した道はいずれも生易しいものではありませんが、先島諸島にとって大きな歴史の分岐点だったように思えてなりません。



 訪れたところ
【白保海岸】沖縄県石垣市白保
【オヤケアカハチの像】石垣市大浜182
【フルスト原遺跡】石垣市大浜773