赤木城 紀州方言と北山一揆 | 落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

―面白いことに、紀州の方言には敬語がありません

と、司馬遼太郎はその著書『歴史と風土』で語っています。

紀州は長いあいだ強力な統一勢力がなく、一種の部族国家の態をなしていて、みんなで熊野の神様を崇めつつ、部族の連合体でデモクラティックにやるんだという気分が強かった。
そんな紀州の、特に熊野地方が反骨の土地柄であったことについて、上記のような言語学上の特徴も交えつつ説明を試みています。

今でも「きつい」「エラそう」と定評(?)のある熊野・新宮地方の方言ですが、やはり連想したくなるのは鯨漁
勇ましくも命がけの漁を生業としていたこの地の人々にとって、危なっかしい小さな舟の上で掛け合う言葉は短く明確なことこそ大事なのであり、そこでは余計な階級性や言い回しは無用の長物だったのかも知れません。

戦国末期の紀州で一揆が頻発した背景には、そんな風土もあったように思えます。

**********

紀州熊野の山奥に、赤木城という城跡があります。

兵庫県の竹田城が近年、「天空の城」といわれて観光客が殺到していますが、この赤木城の「天空」ぶりもまんざら引けをとっていません。

  

大阪からクルマで4時間ほどかかったでしょうか。
本当に山奥です。陸の孤島、という言葉が思わず頭をよぎるくらいに。

そんな場所に、突如、といっても過言ではない印象で、総石垣の見事な城跡が現れます。

築城年は天正17年(1589)ごろ。
縄張りは、あの藤堂高虎です。
「7度主君を変えねば武士とはいえぬ」の名言で知られる高虎は当時、豊臣秀長の家臣でした。後に「築城の名人」といわれる彼の、初期の作品といえるでしょう。

しかし、いったい何のために…
誰しもはじめは思うのではないでしょうか。

   

主郭虎口跡です。
平成4年から16年にわたって整備復元されたそうで、実に堅牢な構えとなっています。
が、その内側に入って眼下を眺めてみても、そこから見えるのはささやかな集落と、あとは稜々たる山なみ。

何を治め、何から守るのか。周囲の環境とあまりにもアンバランスなこの城の由来は、のどかな風景に似合わぬ凄惨なものでした。

**********

のちに北山一揆といわれる騒乱は、天正年間と慶長年間の2度にわたって起こっています。

天正13年(1585)。
紀州征伐で紀伊国を支配下に置いた豊臣秀吉は、弟・秀長に100万石の大封を与え、紀伊・大和・和泉3ヵ国の領主としました。
紀州国においては、おそらく歴史上はじめてあらわれた強力な統一領主です。

大和郡山に本拠をおいた豊臣秀長は、まず支配地の実収を確認すべく検地を開始しました。
世に言う太閤検地です。
しかし、古くから奥熊野に割拠していた地侍たちは、これが気に入りませんでした。

歴史的には、この時代は乱世が徐々に収束し天下統一にむかう過程にあります。
しかし時代は変わっても、人の心はなかなか変わりにくいのもまた人の常。「部族連合」的な気分を残していたであろう彼らには、領主による検地など既得権の侵害と映ったのかも知れません。

天正14年(1586)8月。奥熊野の一揆衆が蜂起しました。
一揆といっても、戦国期の一揆は江戸期のそれとは大きく性質が異なります。この場合も、ありようは村や湊ごとに存在する有力者=地侍たちの反乱というべきでしょう。

羽柴秀長は討伐軍を派遣しますが、9月9日の合戦で多くの被害を出すなど手を焼き、折悪しく始まった九州征伐に兵を割かれたこともあって十分に制圧できなかったようです。

天正17年。九州征伐から帰還した秀長は、藤堂高虎を討伐軍の大将に任命。奥熊野に入った高虎はまず赤木城を築き、拠点としました。
その不自然なまでの堅固さは、補給線の確保も難しい山奥で、地理に慣れた一揆勢のゲリラ的襲撃から自軍を守るための装置だったようにも思えます。

前回の苦戦を考慮した高虎は、いったん一揆勢の降参を受け入れた上で赤木城の落成祝いに来るよう促し、登城した363人もの一揆勢を田平子峠で斬首したという、なかなか陰惨な話が伝わっています。

さらに慶長19年(1614)。この時、紀州の領主は浅野長晟に変わっていました。
時まさに大坂の陣
徳川方についた浅野家をけん制したい大坂方の要請にこたえ、一揆勢がまたも蜂起。
「戦勝のあかつきには紀州を進呈…」という条件があったとされ、浅野家の主力が大坂に出ている隙をついて大いに暴れまわりましたが、大坂の戦が終わって帰還した浅野勢によって、今度は徹底的に討伐されました。
この時も赤木城は浅野勢の拠点となり、田平子峠は一揆勢の処刑場と化したそうです。

のどかな風景のなかに現れる赤木城は、戦国の昔、この地でしぶとく反抗を繰り返した一揆勢を威圧し、鎮圧するための要塞でした。
城内に連行された彼らは、やはり敬語のない紀州方言で話を交わしていたでしょうか。

古い紀州弁では、「あいつ」とか「彼」のことを「テキ」と言ったそうです。

―テキゃ、おじくそたれがえ
  (あいつは臆病だなあ)

例えばそんな仲間内の他愛ない会話が、他国者の藤堂や浅野の兵に「なにっ!」とあらぬ誤解を与え、この一連の事件の結末に影響を及ぼさなかったか…
方言贔屓の私には、すでに歴史となった物語のなかについそんな情景が思い浮かんでしまい、身も蓋もない心配をしていました。



赤木城からほど近い田平子峠には、すぐにそれとわかる大きな石碑が建てられています。

―行けば帰らぬ赤木の城へ、身棄て所は田平子じゃ

そんな唄とともに、赤木城と田平子峠の名は地元民に長く語り伝えられることになります。


**********

 

赤木城のある赤木地区から南へ山ひとつ越えると、ゆるやかな山の斜面に素晴らしい風景を見ることができます。
日本の棚田百選にも選ばれている、丸山の千枚田です。

この風景がいつごろから存在するのか定かではありません。が、慶長6年の検地ではすでに2000枚を超える棚田があったとされていますから、戦国期にもこれに近い規模のものがあったでしょう。

コメが貨幣と限りなく近い価値をもっていた中世。外界から隔絶された山中にひらけるこの風景は、ある時期までは地元の民しか知らない広大な“隠し田”だったかも知れません。

そして、これこそ北山一揆の人々が守りたかった風景、だったのかも知れません。


 
訪れたところ
【赤木城】【田平子峠】三重県熊野市紀和町赤木
【丸山の千枚田】三重県熊野市紀和町丸山