軍配山 滝川一益の見た光景 | 落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

信長の野望』という、もう20年以上前から存在する超ロングセラーな戦国シミュレーションゲームがありますが、私も学生のころは結構ハマッたものです。

最盛期の織田家を選択してプレイすると最初から豊富な人材に恵まれていて楽なものですから、あるとき“織田の五大将”といわれた5人の軍団長、柴田勝家明智光秀羽柴秀吉・丹羽長秀滝川一益
と並べてみて思ったのが、柴田・明智・羽柴と、丹羽・滝川の間にある扱いの差。
能力値の設定も特色ある前者3人に比べ、後者2人はあきらかに格下、とりわけ滝川一益もっとも地味になっていました。
それは当時の私には、例えば同じ正義超人なのにいつもキン肉マンやテリーマンの引き立て役をやらされているジェロニモのような扱いに映ったのです。

 滝川一益(Wikipediaより)

史実に即して考えれば当時の織田家という、ベンチャー企業の効率性と大手ゼネコンの資金力とブラック企業の非常識を足して、その上に信長という絶対カリスマが乗っかったような難しい家風のなかで軍団長にまでのぼりつめた人材が半端な能力であるはずがなく、織田家がまだ尾張の地方領主だったころから功名を重ねてきた滝川一益からすれば、後世のこの扱いは不服そのものかも知れません。

ただ、彼がなんとなくそんな扱いを受けるようようになった要因としては、やはり本能寺の変後の対応があげられるでしょう。
特に「関東地方最大の野戦」といわれた神流川の合戦での敗戦は、彼の没落を強く印象付けるものとして例に出されるものになります。

老練の滝川一益が痛恨の不覚をとったその場所に、かねて私は立ってみたいと思っていました。

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天正10年6月7日(または9日)、と伝えられています。
滝川一益の居城・厩橋城(前橋市)に、上方からの使者が駆け込みました。
本能寺の変を知らせる使者です。

事変が起こったのが6月2日未明。
摂津にいた丹羽長秀は当日午後、備中高松で毛利と対峙していた羽柴秀吉が6月3日深夜、越中にいた柴田勝家が6月4日にはそれぞれその報を得ていますから、この時点で同僚たちに大きく遅れをとっていたことになります。

―年罷り寄り遠国へ遣はされ候事、痛みおぼしめされ候と雖も、関八州の御警護申しつけ…(信長公記)

「年老いてから遠国へ遣わすのは気の毒だが、老後の覚えに関東の取次役をぜひこなしてほしい」
甲州征伐(武田攻め)の功績により信長から親しくねぎらいの言葉をかけられ、上野国(群馬県)および信濃の二郡(佐久・小県)という広大な領地を与えられて厩橋に赴任してきたのが、わずか3ヶ月前。
58歳。当時の感覚としては高齢ながら、織田家の“関東方面軍司令官”ともいうべき地位にあった滝川一益にとって、その使者は、いわば「終わりの始まり」を告げるものだったかも知れません。

服属して日の浅い配下の国人領主たちにはひとまず凶報を伏せておくよう進言する家臣たちに、一益は言います。
「諫言もっともなり。しかし悪事千里を行くという。国人どもが信長公の死去を他の者から聞けば、我らに隔意をもつであろう」(滝川一益事書)
彼はさっそく国人領主たちを集めて事の次第を知らせた上で、近く上洛する決意を述べたと伝わります。
しかし、かつて関東の覇者として君臨していた小田原の北条家は、それほど甘い相手ではありませんでした。


信長が存命のころ、北条氏政・氏直父子率いる北条氏は織田家に帰順する姿勢をとっていましたが、本能寺の変を知ってからは態度を変え、領国に動員をかけます。上野国はかつて北条家が領していたこともあり、この機会に取り戻すつもりもあったでしょう。
召集した軍勢は、なんと5万

戦国期の北条家は「動きが鈍重」といった評価も見受けますが、統治システムに基づいた召集能力の高さは目をみはるものがあります。当時の東日本で5万を超える軍勢を召集できる勢力は、おそらく北条家以外になかったでしょう。
北条家といえば武田信玄や上杉謙信をも退けた籠城戦術のイメージが強いのですが、例えば後の天正壬午の乱(天正10年)や沼尻の合戦(天正12年)でみられるように、“数の力”で寄り切るような戦い方も得意としています。
神流川の合戦は、そんな北条家のドツボにはまった戦いだったように思えます。

6月18日、北条方の先鋒・北条氏邦率いる鉢形衆が上野国に進入しますが、一益は緒戦で二度までこれを撃破し、さすが“織田の五大将”たる実力を見せます。
当時、一益のもとには約1万8千の軍勢がありましたが、その構成は大半が服属して日の浅い上野国の国人たちの寄せ集めで、滝川家の直属はわずか3800ほど。
劣勢の一益とすれば、大北条家を相手にしては、味方にも「優勢」の印象を与え続ける必要があると考えたのかも知れません。

が、翌19日。北条氏直率いる本軍が到着したのをみた国人たちは、その圧倒的な数に動揺しはじめます。一益は、関東における北条家の力をあらためて痛感したかも知れません。
次々と戦線から逃げはじめる味方に取り残される形となった一益は、ほぼ直属軍のみで戦うことを余儀なくされ、最後は大軍に押し包まれるようになって壊滅。多くの家臣を失いつつ辛くも戦場を脱出しました。

その後、一益は苦難の末に本国の伊勢へたどり着きますが、清須会議に参加することができず没落してゆくことになるのは周知のとおりです。
最期は出家して越前大野で死んだといわれますが、一説には失明して一揆に襲われ殺されたとの話まであり、いずれにせよ恵まれたものではなかったようです。

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群馬県玉村町。
利根川と烏川に挟まれたひろい水田地帯のなかに、島のようにぽつんと盛り上がった丘があります。
通称「軍配山」と呼ばれているその丘は、正式には御弊山古墳という古代の円墳ですが、神流川合戦の際、滝川一益が本陣を構えて軍配をふるった場所と伝わっています。

  
 
7月。ラジオから台風情報がちらほら流れるなかを押してそこを訪れた私は、友人の願舟坊とともに雑草が繁りまくるその丘の道なき道を漕いで登ってみました。

 
 
広い…
第一印象は、その一言です。

山と海が間近に見える神戸で暮らしている身なので尚更かも知れませんが、山とか川とか、とにかく境目になりそうな地形がみえない関東平野の広さに、軽い不安感さえ覚えてしまうような光景です。

上の写真は、北条勢が攻め上ってきた神流川方面(南側)を望んだもの。
こんなだだっ広いところで5万もの大軍と…
 
 

思い巡らすのもつかの間。
ふと周囲を見回してみると、雨雲があんなにすぐ近くまで( ̄□ ̄;)!!
まるで白い壁のように、スコールみたいな雨が迫っているのが見えますでしょうか。

こりゃいかん…
私たちは北条の大軍を前にした国人のように動揺しつつ、あわただしく戦場を離脱したのでありました。

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高崎市内の宿で一休みの後、雨が小降りになったのを幸い、願舟坊がみつけてくれた温泉に行ってみることにしました。
市街から20分ほど車を走らせていると「倉賀野」さらに「金井」といった地名が見えたとき、私は思わず「おお、ここが!」と声を上げていました。

金井秀景、という人がいます。のち改姓して倉賀野淡路守
滝川一益がもっとも信頼した上野国の国人ですが、小田井原の戦(天文16年:1547)において武田信玄と戦ったこともあるようですから、当時は相当な高齢だったと思われます。

神流川で大敗した一益は、上方へ旅立つにあたって戦線離脱した配下の国人たちに文句も言わず、人質を返して別れの宴を開いたそうです。
神流川で息子が戦死するほどの損害をこうむった金井秀景も、そんな一益の人柄に惹かれた一人だったのでしょう。長野県の木曽まで同行して警固にあたり、遂には一益に促されて泣く泣く別れたという人物です。

―ああ、このあたりの人だったのか。
「地名は言葉の化石」とはよく言ったもの。物語でしか知らない遠い昔の人々が懐かしく身近に感じられるこの瞬間は、旅の醍醐味でもあります。
古い地名は残してほしいものです。本当に。


さて、着いた温泉は、その名も『金井の湯』でした。

 

ここはちょっとわかりにくい場所にある上、小雨の降る夜。施設名を示した看板をほかに見つけられなかったので、これをば。
余談ながら、入れ墨禁止の入浴施設に対したまに「差別だ」などと騒いでいる勘違い有名人もいるようですが、こんな看板をでかでかと掲げざるを得ないオーナーさんの苦労をお察しいたします。

それはさておき、こちらの温泉は塩化物強塩泉で、いわゆる「化石海水の温泉」。
はるか昔の海水が、現代に湧き出してまた私たちの心と身体を温めてくれる。
歴史の恩恵、かくのごとし…
川沿いの露天風呂に身を沈め、思わず「くはー」とか言いながら、そんなことを考えたりしていました。



 訪れたところ
【軍配山古墳】 群馬県玉村町大字角淵
【鮎川温泉・金井の湯】 群馬県藤岡市金井627(http://www.kanainoyu.jp/index.html