(前回からの続き)
●世の中に存在する「たくさんの標準」。
●私の勝手な解釈では、「標準」とは「行為動作+時間」
で組み立てられているもの。
そして「標準」は人間が創りだしたもの。
●この標準に照らし合わせて「ある行為動作」が「標準と
した時間内にできない人」と「できる人」に人間を勝手に
二分してしまっていることが本来の「優しい人間の心の
動き」を阻害してしまっているんだ、と私は思い続けてお
ります。
★そして世の中では上記区分の「できない人たち」に対し
て「できる人たち」が「助けてあげる」とか「手を貸してあげ
る」・・・・「助けてあげなさい」「手を貸してあげなさい」・・
みんな、そんな風に子供のころから教えられて大人になっ
てきている。
○○○しないとダメ。○○○しなさい。
MUSTの教えなんです。
★入り口から『対等』になってはいないのです。
★みんな同じ人間。
★「誰でもみんな弱いところを持っているのが
人間なんだから、誰に対してでも、自分のできること」で
サポートして、同時に自分も自分以外の人たちにサポート
してもらうことで初めて一人一人の「生きる」が可能になっ
ている、こんな「あたりまえ」の想いから考え、敢えて私の
嫌いな「障害者」「障がい者」の文字を使えば、 「人間は
みんな障がい者」、こう想えばいいんだと思うのです。
★「健常者括り」に入っている私もそしてあなたも実のところ
「障がい者」(=弱いところを持っている人)なんです。
障がい者=弱いところありの人
★そしたらたぶん、「○○しなくてはいけない」から「○○し
てあげたいな」に心が変わり、その結果として行動の仕方
自体が変わってくるのでは、とも思います。
MUSTからWISHへの心の変化
心(=想い)と動きが一体となってくる、のです。
自然な動きになってくると思うのです。
★そして・・・・
そうなれば、肉体的・精神的に弱いところを持たれている
人たちを区分する言い方である(と私は思っている)「障がい
者」とか「高齢者」とかの「一人一人違うんだの根本を無視
して「一括り」として言わなくなるのでは、と感じ続けていま
す。
●人間の心の中にある「バリアー」こそ、なくして
いかないといけない、と思います。
●そう考えていきますと「最大のバリアー」は人間
の個々の中にあるバリアー」と思うのです。
★人間(他人)こそが最大のバリアー。
★このバリアーに適応できない時に人は「ストレ
ス」を感じることになるのだと思います。
●「ストレッサー」と「ストレスサイン」。
●ストレッサーはストレスの原因、ストレスサイン
はストレスの表し方(現れ)。
●いきなり「ストレスサイン」とはなりません。
●その間に「ストレッサーに対する『適応』」が存
在しています。
●単純に言えば「自分が反応できない・適応でき
ないストレッサー」に対した時に人は「ストレスを
感ずる」のだと思います。
●ですから、ことは簡単。
●一人一人をよく見て、「その人が反応でき、適
応できる」刺激(ストレッサー)を投げかけていけ
ば、いいんだと思います。
(あいつができたんだからお前もできなくてどうす
る、絶対にやれ、はダメなんです)
●「反応」は「その人が『どう感ずるのか』」に置
き換えてもいいかな、と思います。
★ストレスは誰にでもあるもの、でもあります。
★ストレスは「ちょっとガンバらなければできな
いこと・刺激」なのかも知れません。
★この「ちょっとガンバらなければ」のものさしが
人間一人一人異なるもの、なんです。
★逆に
「ちょっと頑張ればできること」でストレスを構成
していってあげれば、やがてその人に「ストレス
耐性力」が育っていくものなのではないでしょうか。
★繰り返します。障がい者、高齢者だけでなく
「人間はみんな誰でも弱いもの、弱点をみんな
持っているのが人間」。この「あたりまえ」に戻る
こと、いつもこのことを心に留めておくこと、だと
思います。特に「上位者」と言われる人たちは。
★人が人に与えるストレスは「その人にとって
明日への変化の活力」となる程度にしませんで
しょうか。
★なぜなら・・・
私たちは「ビジネスマン」「組織人」である前に
ずっと「人間」なんです。
★ビジネスの場でも組織の場でも「いつも人間」
でいたいと思います。
★そのためには「肩書き」なんかいらないし、
「肩書きのない人間と人間の関係」で居続けたい
と感じます。
●「肩書き」は会社名とか役職名だけではありま
せん、この項の最初のころに書かせていただい
た「男だから」「女だから」「長男だから」「課長だ
から」「3年生だから」・・・「障がい者だから」「高
齢者だから」の「・・・だから」も私は肩書きだと
思っています。
★会社にいるとき、仕事をしているときとそれ
以外の時とで動き方を変えるのはおかしい、と
思いませんでしょうか。
★『私たちは24時間、人間なんですから』。
★だから持つものさしは「いつも人間として」、
これだけでいい、と私は思うのです。
●一日の「目を覚ましている時間」のほとんどが
「肩書き社会での生活」になっています。
●この「眼を覚ましている時間」を生きていくに
望ましい人物像」が「社会」に「標準」としてでき
てしまっている、のです。
(アフター5の飲み会の付き合い・・含めて)
★「この肩書き社会での標準的な生き方」(人間
が創ったもの、です!!)にできない部分が多くなる
と「うつ」になってしまうのでは、と感じています。
●このように考えていくと
「うつ」とは「肩書き社会不適応ストレス」と言っ
ていいのでは、と私は想います。
●「うつは現実からの離脱かもしれないが決し
て社会からの離脱なのではない」。
●現実も実は本当の「現実」なのではなく、
「標準からの離脱だけ」なのだと思います。
●社会で生きていくことのほとんどが、まずは
その人本来から、なのではなく肩書き(性別・
年齢・社歴・役職・・・)で見てしまうことが私たち
の「慣れ」(誤った思い込み)になってしまってお
り、その肩書きから「標準」を心に想い描いて、
その標準で、ひの個人を見てしまっている。
「うつ」はこんな
肩書き社会からの離脱、だけでなの
であり、社会で生きていくことからの離脱なので
はない、私はそう思い続けてきております。
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今回もここまでお読みいただきましてありがとうございます。
このテーマに関してはあと1回、筆を進めてみようと、想い
ますのでお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
入道こと入村 道夫




