常に「AU」を意識し続けていくこと
今回の私の想いは昭和52年=1977年(28才)にリクルートで
マネジャー(課長)となった時、組織運営を悩み考え続けてい
た時に自分のものにしたもの、です。
AU・・・・携帯電話、ではありません。昭和52年には携帯電話は
ありませんでしたし、当然にAUは存在してはいません。
AUは「あう」と読みます。
では、書き連ねてまいります。
愛する⇔愛しあう
感じる⇔感じあう
わかる⇔わかりあう
信じる⇔信じあう
助ける⇔助けあう
報せる⇔報せあう
喜ぶ ⇔喜びあう
教える⇔教えあう
分ける⇔分けあう
頑張る⇔頑張りあう
励ます⇔励ましあう
学ぶ ⇔学びあう
競う ⇔競いあう
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
貴方にとって、上の言葉の矢印(⇔)の左と右、
どちらの状態が好ましいと感じますでしょぅか。
私は「右側」。
『あう・AU』のついている言葉の状態を大切
にして追求し続けてきています。
『あう・AU』の状態は必ず自分以外の「人間」の
存在が必要十分条件となることからも私は、
この『あう・AU』が組織の根源を表わすキー
ワードと想い続けておりますが、みなさまはいか
がでしょうか。
上の言葉軍の「左」側の行動は
『相手の心を無視して自分一人で勝手にでき
ること』です。
自分ひとりでできること(たとえば愛する)に『AU
・あう』の二つの文字を付け加えると(愛しあう)
そのとたんに、「自分一人だけではできない」、
「自分本位では実現できない」、相手の人も・・・
となってまいります。
自分と相手の両者の心が同じになった時に
初めて「・・・あう」状態となってまいります。
そんな簡単なあたりまえのことから、私は自分の
言動を振り返る時、とろうとする前に自分のとろう
としている、あるいは行った言動が「あう・AU」で
あるだろうか、あったのだろうかと想い浮かべま
す。
『あう・AU』。なにかオットセイの泣き声みたいで
すが、このふたつの文字のもつ意味は人間社会
において大切な意味をもっている、そう私は感じる
のです。
「組織は『あう・AU』の欠如によって崩壊する」
私の変わらない考え方です。
家庭、課・部・部門・・・会社、地域、そして社会も
全く同じだと想うのです。
組織に対する私の定義は
「二人以上の人間の集まり」、単純です。
組織がいつも「あう・AU」状態にあれば多分、
突発的にヤバイ(オットいけない)になったとしても
きっと組織を構成する全員の「心の結集=想いの
結集」を前提とした力の結集によってそのヤバイ
状態から抜け出せるはずだ、と想います。
2011年3月11日東日本大震災以降の支援の動き
方にちょっと違和感を私は感じてもいます。
私の感覚は「助け合う」。
助けてあげる、助けてやる、ではなく「助けあう」。
その方法・時期(タイミング)などは
「助けて欲しいことを助けて欲しいカタチで、
助けて欲しい時に」
これがあたりまえの事なんだと想うのですが、
国の動き、マスコミ報道も
その大切なことを無視して「助けてやる」「助け
てやれ」、となっている(今でも)と感じます。
被災直後、まだまだとても泣ける状況の心に
なっていないのに「涙を求め、そこだけを報道
し続ける(し続けていた)」、そして義捐金の大
きさを報道し、「いくらになった」と24時間テレビ
的な報道を繰り返していたほとんどの日本の
マスコミ。
そして、繰り返される報道だけで自分自身で
きちんと自分の心で想うことなく「義捐金あるい
はボランティア・・・・カタチが見える行動をしな
いのは非人間」的な風潮の中で
心より先にその流れに乗ってしまう沢山の人達。
また、いくら寄付したかを誇るようにホームペー
ジに記す日本の企業。
私がその時に仮に社長なら
「私たちもできることで継続的に支援させていた
だきます、いただきました」位だけで金額は掲載
させない、と想います。
少し、横道にそれてしまいましたので修正させて
いただき結びに繋げます。
「あう・AU」は見返りは求めないもの、だとも思い
ます。恩ぎせはしないもの。
『心の合致、想いの合致』
これが「あう・AU」に必要なことだと思います。
組織・・・・
社会を良くしていくために
改めて「みんなが『あう・AU』状況を形成していく」
動きに戻ればいい、そう想います。
今回も最終行までお目を進めていただきまして
ありがとうございます。
むずかしく賢く頭で考えこむのではなく
やさしく心で感じあう、
ここをみんな入り口にしていきたいな、
そう思っています。
入村 道夫
