「読書」私にとって本を読む、と言うことは・・・。 | にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ~入道のブログ

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20年間の苦しくしんどかった体験が私に構築してくれた「私の『生きること・働くことそして経営すること』への『想い』」。それを書き連ねていきたいと思います。

私は本を読む方だと自分でも感じています。


今も月に3万円前後を「書籍代」として使っているのですが、

読む本の種類が1988年から1992年までの4年間の悶々と

悩み続け、その悩みの末にいきついた、自分の信念にもなって

いる「想い」ができてから、大きく変わりました


それまでは買い求め読んでいたのは「実用書・経営本・ビジネス

」の分野で行ってみれば、「賢さ」追求の手段として本を読んで

いたように思います。


しかし1992年に「生きるとこ・働くこと・経営すること」の「自分の

想い」に行き着いてからは「実用書・経営本・ビジネス書」は

ほとんど読むことがなくなりました。読まなくなりました。


今は読む本の大半はミステリー。


ビジネス書は話題になった本をたまに読みますが、その目的は

「賢くなるために」ではなく妙な言い方になりますが、色いろな人

との語り合いでその本が話題として出てきた時に話が続けられる

ように、と大きく目的が変わっております。


まだ「賢さ」を書籍からの吸収に求めていた1991年11月に

「読書」に関して次のような文を書いています。


読む本の種類は変わりましたが本に求めるもの、は変わっては

おりませんのでブログに書かせていただこうと思います。


 読書、私にとって「本を読む」とは・・・・


   私は多くの本を読む  

   いろんな人の本を読む

   なぜ そして何の目的をもって

   私は本を読むのか

   私にとって「本を読む」という行為には

   二つの意味がある


   今の自分の持っていない「知識」の獲得

   そして

   自分の未体験の体験を

   疑似体験させてもらうこと

   この二つの意味合いを

   本を読むことに

   本を買うことにもたせている


   だから、私にとって

   本を買うということは

   他人の知識・体験を借りること


   例えば300ページの本を買う

   その時に買う本の内容は

   その時の目的によって

   異なることになる


   300ページの全てが

   その時の目的に全て合致することは

   ほとんどない


   但し、どんな本であろうと

   必ずひとつのキラリがあるものだ

   だから   

   本を読むと言うことは

   「宝探し」と同じこと


   一生懸命に読んであげなければ

   たくさんの文字に埋もれた

   「宝(キラリ)」をみつけることはできやしない


   一冊の本の中には

   必ずひとつ以上の「宝(キラリ)」がある

   それをみつけるには  

   読む側が「目的意識」をもつことだ

   そして

   ぎっしり埋まった文字とではなく

   姿のみえない著者と

   コミニュケーションしようとすることだ

   著者の心と会話しようとしてみることだ


   このコミュニケーションの特徴は

   読み手の都合で

   「いつでもどこでも」可能なことだ

   著者のスケジュールを確認することなく

   早朝であろうと真夜中であろうと

   自分が希望すれば

   いつでもどこででも

   どんな格好でもできること


   コミュニケーション

   だから私は一字一句にこだわらない

   まず全体をつかむ

   著者の意図をつかむべく

   手にマーカーをもって

   1回目のコミュニケーションにはいる

   そして2回目

   1回目にマークされた箇所だけを

   違う色のマーカーを手にもう一度

   読んでいく

   当然のことながら

   読むための時間は

   2回目の方が短くてすむ


   そして3回目はノートを横に

   1回目、2回目両方ともマークされている箇所を

   読み、3回目の読書に入る

   3回ともに「ウン」となれば

   その箇所をノートに書き写していく

   自分の解釈・意見を書き加えながら


   ここまでくれば もう「本」はいらない

   一冊のノートに本10冊、20冊分の

   宝物が一杯の

   このノートがあればいい

   このノートが私にとっての宝もの


   私の読書の進め方は

   「読んで、読んで、読んでそして書く

   これでできあがっている


   「目と頭と手そして心」を使っての

   姿の見えない著者との

   楽しいコミュニケーションである


   現実の世界では不可能な

   はるか過去の先達たちとも

   また用いる言葉の異なる

   外国の人々とも

   自分勝手に わがままに

   実行できるコミュニケーション

   それが読書だと思っている


   だから楽しい  だから苦はならない

   でも読書で観に着いたものは

   まだ「知識」の段階

   「知恵にはなっていない

   「知恵」にまでしてあげなければ

   「知識」はかわいそう


   知識はそれを活かすことで

   知識を生活の中で

   活用することで

   更にもう一段の選択をのりこえる

   知恵に転化していく知識

   これが知識の脱皮の段階


   知識のままにすぎなて知識は

   究極「ゼロ(0)」である

   知恵になって初めて

   人間の生活に貢献することになる

   

   ひとのしあわせ

   ひとのゆめ

   ひとのこころ

   だから知恵も

   「にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ」


   知恵=知識✕体験(使用回数)

こんな数式を考える

   知恵を形づくるのは 知識と体験

   いずれかが「0(ゼロ)」であれば

   知恵はゼロ


   知識はインプット

   体験はアウトプット

   学生時代の勉強はインプット

   社会人の勉強の目的はアウトプット


   メンバーは自ら知識の吸収に努め

   マネジャーはメンバーのもっている

   自分を含めた組織としての知識を

   如何にアウトプットに転化させていくか

   ここに組織の相違原因のひとつがあると思う


   その人、その「個人」のもつ知識を

   組織未来的の中で

   どう最大発揮させてあげられるのか

   同時に 新たに身につけておきたい

   新しい知識は何なのか

   これを明快に示してあげてほしい


   全員同じ

   こんなことはあり得ない

   ひとりひとり個人個人

   みんな異なる「にんげん」

   そして

   知識人は優れたマネジャーによって

   知恵人となり

   やさしい心を持った社会人となりえる


   知識の吸収は

   強制されるものではなく

   本来、自発的、自主的なものだと思う

   にもかかわらず

   みんなかなり甘えぎみ

   そんな気がしてならない


   読書の秋だけでなく

   一年中

   給与所得者でなく個人事業者として

   自己責任の下で

   月々の給与の10%位は

   自分の将来のため

   きちんと知的自己投資に投下していきたい


   私は「真の公平」を

   追い求めていきたいとも思います。


   誰彼かまわず とにかくイコール

   これは絶対に公平ではない思います

   やれている人とやれていない人

   ここに「差」をつれてこそ「真の公平」なのでは

   機会公平、結果は本人の動き次第

   

   自分が未だ未経験なこと

   未だ知識として未吸収なこと

   本を読むことは

   諸先輩たちの経験を

   教えてもらうことにもなりますし

   もちろん知識の蓄積にも繋がります


   自分の金で 自分の時間を使って

   これからも

   もっともっと多くの

   本を読んでいこうと思います。


   そして

   自己哲学?でもある

   「にんげん・しあわせ・ゆめ・こころ」

   ここに

   徹底的にこだわり続けていきたいと

   思います。

     (1991/11/06東北新幹線車中にて置筆)

 

  

 今回も長くなりましたがここまでお読みいただきまして

          ありがとうございます

  手にマーカーを持って、の箇所については

  ビジネス書・実用本を読みあさっていた時にやっていた

  ことで今、盛んに読んでいるミステリー・小説の時には 

  マーカーは持っておりません。念のために。

                        2012/03/10