★毎年、11月の行事?社会慣習は、世の中や人の心を無視して
無理やりに「年末への歩み」を加速・強制しているように感じて
なりません。
●11月1日の「年賀状の発売開始」、そして月も10日をすぎて
くるとクリスマスイルミネーションの点灯、デパートのお歳暮
特設会場の設置、街中に流れる音楽の変化・・・・・
●まだまだ都会の街路樹は紅葉の入口にしかいないのに・・。
★「10月31日と11月1日の間」には一体、何が潜んでいる
のだろうか。毎年、この時期になるとそんなこと思います。
(似た感覚を3月31日と4月1日の間にも感じます)
★10月31日と11月1日。
この一日の違いで日本人はなんで
こうも動きが変わってしまうのだろうか、
なんでこうも動きを変えていくことができるのだろうか。
◆でも・・・、こんな動きの一方で
「年々年末年始の行事が日本の街中から薄らいできている」、
そんな感じも強く受けています。
★「季節」と「生活」とで形成されていると私が考えている「行事」。
それが経済社会の「欲望化」の下で単なるイベント化されてきて
イベント的なものだけが勢いを持って継続しているのが今、
だと言っては言い過ぎなのでしょうか。
◆なぜ、季節感と伝統行事の間の「溝」が大きくなってきているので
しょうか?
●私は「日本人(人間)の生活面の変化」から次のように思っており
ます。
●単純に言い切れば「季節の変化に合わせて人間生活の仕方」
を変えていく必要がなくなったこと。
(技術革新によって生活環境を人間が創りだせるようになった
自然に従う必要がなくなった)
★そして『人間の生活時間の変化』、
つまり『眠らない人間か・眠らない化?==「地球を眠らせない化」』に
よるものなのでは、と考えております。
●本来夜はあたりまえに眠るのがヒトのあたりまえ、なのに。
★だからたぶん、たった一日で昨日までとは様変わりな「11月の
イベント」?に入りこめるのではないか、と思うのです。
★ても・・・
「自然と一体となって「生」は構築されていくもの」なのではないか、
一度、改めてそこに戻ってみたらどうだろうか、とたまに思います。
にんげんの活き活き差の根源は「自然」
以下で「ヒト」と「人間」の言葉を使い分けて
いますが、両者の意味合いはブログで前に
書かせていただいておりますので恐縮ですが
そちらで確認していただければ、と思います。
●ヒトは「自然界の動物」であり、「豊かな自然環境あっての生き物」
であることをヒト自らが忘れ去ってしまっている、とかなり前から思っ
ております。
↑ ↓
★美しく豊かな自然環境があったからこそヒトは誕生してきている・・。
●こんなことから動物としてヒトを省みると様々な気づきを得ることが
できます。
(私が今の信念を形成できたのも1988年からの4年間、悩みに悩み
考えに考えて行き着いたのが「人間、ヒトを動物としてみる」ことの
ある意味原点にまで行き着いた時でした)
★「人間」は『自然界の動物である』ことの
『当たり前』に立ち還り考える
ことがとても重要であり、そこにとてつもなく沢山のヒントが隠されて
いるのだ』とも思っております。
●その中からひとつ。これもちょっとだけブログに前掲しておりますが、
今日は少しそれに肉付けをしたいと思います。
毎日を活き活きと楽しい一日としたいのなら
「朝」を(迎えることを)大事にすること
●「朝と言う字」に私が感ずる意味合い。
(以下は私自身で行き着いた私自身の勝手な想いであることを
あらかじめお断りしておきます。)
・動物にとって、
特に弱い動物(肉食動物に捕獲され食べられてしまう
動物(ヒトは弱い動物です)にとって『生きている』を感じるのは
正に「朝」。
⇒ああ、また新しい朝を迎えることができた!!
・こんな想いこそが「生の原点」なのだと私は感じます。
・昨日の続き、明日があるさ、ではなく「新しい一日、
一日しかない今日」を精一杯に生きること、これが
きっと動物の「生」。
・「ああ今日も一日また生きられる」、こんな想いを抱くこと
ありますでしょうか。
●私は時間がある時とか、考えが行き詰った時にに漢字をぼんやりと
眺めることがよくあります。
●そうしていると突然にその漢字が私に感じさせてくれる(ごめんなさい、
漢字と感じ・・しゃれになっちゃっていますが無視してください)のです。
●「朝」と言う漢字をじっと見つめてみてください。
★どんな構成になっていますでしよぅか。
●「十」と言う漢字がふたつと「月」そして「日」で朝と言う字は構成され
ております。ここに私は「朝」の意味合いを自分なりに感じとりました。
●構成している、朝と言う漢字を形成している4つの漢字を並べ変えま
すと「十月十日」となります。
●「じゅうがつとおか」と読みますと昭和39年東京オリンピックの開催日
であり晴れの特異日、そしてかなり前までとなりますが「体育の日」とし
ての国民の祝日。・・・・でもこれだすと何も浮かびあがっては来ません。
私に新しいひらめきは何も生まれてはきませんでした。
★「とつきとおか」と読んでしまいます。
★そうしますとそれは「ヒトという動物の標準妊娠期間」であり、「新しい
命がこの世に生まれ出る時」に拡がってまいります。
◆新しい命がこの世に誕生してくる時の意味の文字で「朝」と言う漢字が
形成されている、と私は感じました。
★これは正に動物、それも食べられてしまう弱い動物としてのヒト本来の
気持ちからでてきたのでは、と思います。
★「ああ、また新しい朝を迎えることがてきた」「今日一日を生きるために
今日も精一杯活動していこう」・・・きっと本来こんな想いで昇る朝陽を
見つめていたのでは、と感じるのです。
●「あぁあ・・もう朝かよ、飲みすぎかなぁ、いいや今日は遅れて会社に
いこう・・」、これではいけないのですよね。生きていることを大事にして
いません。
★日々「今日一日を今日一日の目的をもって精いっぱいに生きて
いく」、この原点にもどってみては。戻る必要があるのでは、と
強く強く感じ続けています。
★朝は当然にやってくるもの、
明日は当然にあるものと思っていませんでしょうか。
思っているんですよね。そしてそんなことは考えもしない・・・。
・明日やりゃいいんだ
・そのうちに・・・・
★「生から脱してしまう生き方」?に人間は物的豊かさ実現の対価として
入りこんでしまっている、のだと思います。
◆朝を迎えられた、この事実に感謝しろ、とは言いませんが
「毎朝、自分がこの世に誕生してきたと思って新鮮な心で
朝陽を見てみることをたまにやってみたら」と思います。
★朝陽、日の出に手を合わせて拝む、そう想うと自然な行為に感じる
のです。
★『朝」を大切にしていきたいと思います。
●誰に、ではなく自分にとって
「一日しかない大切な一日の始まり」なのですから。
