よかれと思っての自信剥奪の連鎖 | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

成功して目立つのはいや。
失敗して目立つのもいや。

目立ちたくない。
透明になりたい。

というのは、「彼方のアストラ」というアニメに登場する「ユンファちゃん」の言葉です。

いま、同じように思う人は、少なくないとおもいます。


成功して目立つと、目をつけられる。

失敗して目立っても、目をつけられる。

「普通」じゃないと、目をつけられる。

なんで?

 

この世には、DNA鑑定というものがあります。
それは、「この世には同一遺伝子の人が血縁者以外にはほぼいない。」ことによって
なりたっている、個人の同定方法です。
そして、たとえ一卵性の双子であっても、その性格などは違います。
すなわち、この世にいる人達は、ほぼみんな「同じではない=違う」ということです。

全員が「違う」社会において、「違う」を異端視する。

自分自身もみんなとは「違う」のに、自分と「違う」という理由で相手を攻撃する。

これは、ものすごく非論理的な行動です。

なんでこんな事が起きるのか。

それは、自信が無いからだと思います。

自信を失った人は、自分を信じられなくなります。
自分で自分を信じるという「自己評価」ができなくなると、
自分を保つためには、
「人からどう思われるか」「人からどう見られるか」という
「他者評価」に依存するしかなくなります。

他者評価に自己存在を依存すると、

「自分をよく見せよう」「人から悪く見られないようにしよう」となりますから、
自分の身を飾る必要があります。流行を気にしたりするようになります。
そうすると、お金がかかります。
しかも、いくらお金をかけても、流行は変化するし、自分よりも金をかけてる人には負けてしまいます。
だから、自信は増えません。

しょうがないから、「自慢」をするようになります。
でも、自慢をするには、手柄が必要です。
容易に自慢できる手柄とは、「他者評価」を得ているものだったり、
「順位」や「表彰」に関係のあるものです。
その手柄がない人達は、「過去の自慢」を「盛って」するしかありません。
でも、そんなものでは自信は増えません。
自分よりも「すごい」手柄のある人の前では、話すことがなくなります。

だから、自分以下をつくるようになります。自分よりも劣る相手を探すようになります。
簡単なのは、年齢です。年齢は絶対に追い越されません。
先輩後輩という関係を、ことさらに強調し、
「年長者を敬うのが礼儀だ」と言います。
それは、自分自身でそうするのは自由ですが、
自分よりも年齢が若い相手にそれを聞かせるのは、
「俺を敬え」と言ってるのと同義です。何様ですか。

または、学歴で自分より劣る相手を探したり、
出身地域で自分よりも劣る相手を探します。
体力だったり、男女だったり、とにかく、様々なことで「自分以下」を探します。
そのときの基準が「自分で決めた普通」です。
私はあなたより学歴が上よ、なんてことは、さすがに言いにくいから、
「自分」を基準として「普通」とします。そして、そうじゃない相手を「違う」とします。
相手が自分よりも学歴が低ければラッキーです。
自分よりも高学歴な相手でも、相手の行動や成果に自分以下を見つけられたら、
「立派な学校出ているくせにその程度かよ」と言えます。

こういう人達は、自分以下を探し、見下し、評論し、差別するようになります。

そして、誰かが頑張っていたら、自分がおいて行かれるのが怖いから、
誰かが頑張っていることや、一生懸命なことや、大好きだという趣味を、
「よーやるわ」

「なにそれ自慢?」
「余裕あるやつはいいよね」
「どーせ、できるわけないのに」「失敗するのに」「喰えるわけ無いのに」
「くだらない」「意味なくね」
と、否定し、つぶすようになります。

これは、自信を奪われた人達の行動です。
自信を奪われた人達は、自分を守るために、
自分を基準とし、自分の個人的な意見を「私はこう思う」とは言わずに、
「普通は」「一般的には」「みんなは」という表現を使います。
「こうあるべきだよね? 違うかな? おれ間違った事言ってるか?」
とたたみ掛けられます。
反論したら、論点がずらされて、えんえんと説教されるだけです。
これは、つらすぎます。
でも、この人は、「間違いを、正してあげている。」「常識を教えてあげている」
というモードに入っています。
「わざわざ、あなたのためにしてあげている」のです。
基本的に、とにかく上から目線です。
なぜなら、本当の目的は、「自分以下」を作る事だからです。
 

 

 

では、なぜ自信が奪われるのか。

それは、「くらべる自信」のおかげです。
僕らは、小さい頃から「比較」されます。
歩き出すのが、はやいの、おそいの。
しゃべるのが、はやいの、おそいの。
おむつがとれるのが、はやいの、おそいの。

学校の成績が、何位だの。
スポーツの成果が、何番だの。

 

そして、人よりたまたまちょっと上手にできることが「取り柄」と言われて、ほめられて、
それを頑張れ!一生懸命やれ!と言われます。

成果を上げたら、ほめられて、おだてられます。
そうじゃなかったら、がっかりされて、ため息つかれて、怒られます。

大人を不愉快にさせないために、必死に頑張って、それでも成果が出なかったとき。
そこには、絶望しかありません。

また、大人が「やれ!がんばれ!」と言うことに興味がなくなって、
他のことをやりたくなったら、「もったいない」と言われます。
または「お前がやりたいと言ったんだぞ!最後までやれ!」と言われます。

大人は、自信を増やそうとしているのだと思います。
よかれと思って、支えているつもりなのです。
しかし、実際には、自信を奪う行為になってしまっています。

このような「くらべる自信」は、世界一にならない限り、かならず敗北します。
しかも、その世界一も、一生保たなければいけません。
どんなにいい成績だとしても、常に怯えることになります。

また、「夢を追え」「夢を持て」とさんざん言われるのに、
その夢は、「職業」「資格」「進学先」の中から、1つだけを選べ、と言われます。
自分のやりたいことを「夢」だと言っても、それを聞いた大人が知ってる夢しか許されません。
しかも、「過去の成績」によって、「できそうな夢」しか許されません。

過去の成績は、変えることが出来ません。
その変えることの出来ない過去によって、未来をあきらめさせられるのです。
それは、

「努力してもムダだよ」
「お前の未来は、お前が頑張らなかったせいで、所詮こんなもんだよ」
と言っているのと、まったく同じなのです。

これで、自信が増えるわけないです。

これらの現象は、学校でも生じますし、家庭でも生じます。
親も、先生も、この「自信剥奪の連鎖」の中で育ってしまっていたら、
年齢が若い子ども達や、後輩に対して、「間違った自信」の増やし方をしてしまいます。
それは、連鎖して濃縮していきます。

でね、とっても残念な事ですが、
自信が無い人は、産業にとっておいしいお客さんなのです。
コンプレックス産業というものが存在します。
「学歴がないと、大変なことになりますよ」
とあおれば、愛する子どものために、親はお金を絞り出します。
これは、親の子どもへの愛情を利用した、恐ろしい産業です。


この状況を打開するには、
もうすでに「比べる自信」にとらわれた人達を変えるのは難しいです。
だからこそ、まだ比べる自信に汚染されていない子ども達を支えるのが一番です。
不必要な受験産業や資格産業から子ども達を守ることが大事だと思います。
そもそも、いまの日本の受験システムは、採点を容易にする努力をした結果、
ロボットに負ける人間を作る物になってしまっています。
もはや、「素直・まじめ・勤勉」だけでは、ロボットに負けるのです。
「暗記の量と正確さ」で勝負しても、ロボットに負けるのです。

このまま、自信を奪われた人が増え続けたら、社会は衰退していきます。
大人が、子ども達を自分以下にしてしまうのですから、発展するわけ無いです。
社会はどんどん購買能力を失います。
そうなると、日本のビジネスもまた、どんどん衰退するのです。

この状況を打開する方法は、そんなに難しくありません。
まずは、できるだけ多くの企業が、採用条件から「大卒」を外せばいいです。
学歴なんかを閾値にしないで、もっとちゃんと面接しようよ。
ただそれだけで、無駄に大学に行く必要が無くなります。
学費に使われるはずだったお金は、別なことに使われるようになります。
学生達は、奨学ローンの返済の心配も無くなります。

本来は、学べば学ぶほど、人生は豊かになり、幸せになるはずなのに、
そうなっていないのは、「学ぶ」を間違えているからです。
お金をかけて進学しても、生活が厳しいのは、
進学の費用対効果が低下しているからです。

「学ぶ」「学力」とは、教えられたことを覚える力ではありません。
自分で疑問を感じて、自分で考えて、自分で調べる力です。
そして、人生の時間とお金は、教えてもらうことに使うのではなく、

学ぶことに使うといいです。
そもそも、大学卒業してからの方が、はるかに学ぶことは多いんだよ。

目を覚まそうよ。
もうちょっと、優しく生きられる社会にしようよ。