身のほどなんて、わかるわけ無いだろ。どうやって測定するんだ? | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

僕は、飛行機やロケットの仕事がしたかったです。

でも、その夢を話すと、聞いた人達は「無理だ」と言いました。

特に、大人になるほど、否定の度合いは厳しくて、

「身のほどを知れ」「高望みするな」と言われました。

 

しかし・・・

今にして思うと、小学生や中学生に、「身のほどを知れ」とか、

よく言うわ、と思います。

どうやって測定するんじゃ!

唯一具体的にわかるとしたら、身長くらいだわ。

 

高望みって・・・。

何メートルからが高望みですかねえ・・・。

あ、もしかして、「身の丈にあった・・」なんていう表現からして、

身長以下の望みならば許されるのかな?

ていうか、「望み」の単位って、「m」なのか?


人間は成長します。学んでいる限りガンガン能力は伸びます。
ですから、どんな年齢になっても、「身のほど」なんてわかりません。
唯一、わかる人がいるならば、それは、「学ぶこと」をやめた人です。

そういう人は、成長しなくなりますから、自分の身のほどを知ります。
「俺の人生、しょせんこんなもんだろう。」

そういう人が、「身のほどを知れ」という言葉を使うのだと思います。
「頑張ってきた俺でさえ夢が叶っていないのに、お前なんかに・・・」
ていう意味を込めてる人もいるかもね。

残念ながら、「学ぶことをやめた人」は、意外とたくさんいます。
基本的に、「学ぶ=教えられたことをおぼえる」と思ったあたりで、

「学ぶ」は停止してしまいます。

本当の「学ぶ」は、主体的な探究です。知りたがることです。

 

学力とは、学ぶ力です。
それは、これからの可能性を示すものです。
間違っても、現在や過去の点数ではありません。
ですから、いまの成績などで、自分の将来をあきらめる必要はありません。


学校では、さんざん、夢を持て!というくせに、
許される夢は、「できそうな夢」に限定されます。
しかも、「できそうかどうか」を判断するのは先生や大人です。

そして、先生や大人が知らない領分については、全くの憶測で判断されます。
せめて、その道の人の話を聞くチャンスぐらい作ってよ。

まとめです。
身のほどを知れ、と言われたら、知ってます。と答えてください。

身長を答えておけばいいと思います。

 

高望みするな、と言われたら、「ああ、この人は、学ぶことをやめた人なんだ」と思ってあげてください。「哀」に満ちた目で見てあげてください。

(「哀」に満ちた目については、北斗の拳を読破する必要があります。)

ようするに、こういうことを言う人の話は、「はいはい」って聞き流してください。

そして、「自分のやりたいことをやってる人」を探して、メールでもいいから、ダイレクトに質問してください。
もちろん、頑張ってる人ほど忙しいから、なかなか返事は帰ってこないので、色んな人にコンタクトをとるのがいいです。

そうしたら、「すべきこと」の情報が得られます。
もちろん、それは、生きてる人でなくてもかまわないです。

自分がやりたいことに関わる分野の人の伝記を読むだけでも、相当な量の「すべきこと」の情報が得られます。
ていうか、それが「学ぶ」です。

「おしえられたことをおぼえる」から、「学ぶ」に切り替えたとき、

受動的な人生が、能動的な人生に変わります。


自分の人生は、自分のもんだ!