言葉の解釈は思考です。 | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

日本では、「自信」は「うぬぼれ」と言われてしまうことがあります。

僕自身、いままでにいろんなことにトライをするとき、
僕なりに様々なマイナスの条件を考えた上で、

それでもできる、と判断しているにもかかわらず、

「なんでそんなに自信があるんだ!うぬぼれるな!」

と言われてきました。

たとえば、履歴書の自己紹介欄に、

「自分はいろんなアルバイトを経験してきたんで、〇〇な仕事には自信があります!」

って書いてあったときに、

「おお、それはたのもしい!」と思う人もいれば、

「バイトだろ、うぬぼれんな!」と思う人もいるでしょう。

 

でね。

「自信」って言葉には、「うぬぼれ」という意味はありません。

「自信」は、とても大切なものです。

でも、「自信」を、よい意味ではとらえていない人も少なくないです。

それは、それぞれの人の経験に基づく「解釈」だからです。

時々つかわれている「ぜんぜん大丈夫!」という言葉に、違和感を感じる人は多いでしょう。
なぜなら、現在は「ぜんぜん」は、否定的な意味で使われる言葉だからです。

でも、明治時代には、「ぜんぜん」とは、「全体的に」というような意味合いで、
否定の意味はなかったそうです。
だから、明治時代なら「ぜんぜん大丈夫!」は、正しい用法です。
実際に、その時代の小説には、「あれ?」という表現が多いです。
それは、言葉の意味が、今と違うからです。
 

自己肯定感、という言葉の意味は、頼みの綱の新明解国語事典では・・・
あら、載ってないわ。
いや、意味は知ってるけどね。
だって、高垣忠一郎さんの本、読んでるもん。
一応、CAPスペシャリストの資格も持ってるし、
いじめや虐待をなくしたいと思っていますので、
教育関係の本も沢山読んでいます。

自己肯定感とい言葉は、1994年に、高垣忠一郎様によって提唱されています。
その意味は、とても素晴らしいものです。
しかし、実際には、自己肯定感は、様々な研究者によって、様々な解釈が成されています。
決してその解釈は1つではありません。
そして、自己肯定感は、それ以前から使われていた自尊心という言葉がそうであったように、
マイナスの面があることも論議されています。

 
僕は、勝て、と言われて、勝つ努力をする人を知っていますが、
同時に、勝つ努力をせずに、相手を負かす努力をする人や、
負けを認めない努力をする人も知っています。
だからこそ、「肯定」という言葉が、「否定」という影を生む可能性を知っています。
本質を伝えないで、やたらに自己肯定感だけを高めようとしたら、
その子の心には、闇が生じる可能性があります。
そういうケースを、いくつも見てきています。
高所得、高学歴、恵まれた家庭、裕福な家庭。
とても高い自己肯定感。
そういう人達が、自分以下をつくるシーンを、
僕は何度も見てきています。
でもそれは、自己肯定感が原因ではありません。
まちがった、自己肯定感の高め方に問題があります。
その「まちがった、自己肯定感の高め方」こそが、「くらべる」です。
その元になってるのが、「評価」です。


言葉の解釈は、人それぞれです。

 

それは、人間の思考だからです。

それに対して「あなたの意見は、この人の意見と違うから間違っている」と
「ジャッジ」する必要があるのでしょうか?
「あんたは間違っている」と正す必要があるのでしょうか?
それは、自粛警察の人達の思考に近いように思えます。

もしも、自分の信じる意味を伝えたければ、
それは、自分のサイトで存分に書けばいいのでは?
そうすれば、その意味を知る人が増えます。

僕がこのブログに書いていることは、
以前にも書きましたが、
基本的に全て、子ども達からの相談が元になっています。
(だから、コロナのおかげで見学や講演が激減してるので、更新も減少しています。)
大人や先生は「子ども達の自己肯定感を高めたい!」と思っています。
でも、間違った自己肯定感の高め方をしている人もいます。
大人や先生の、間違った自己肯定感の高め方のおかげで、
苦しんでいる子達が沢山います。
無理に押しつけられる自己肯定感という言葉の反動で、自己否定に落ちいってしまい、
「自分のままでいいんだよ」という言葉を受け入れられなくなってる子がいます。
間違った自己肯定感の人達にいじめられて、
自己肯定感の高い人が怖くなってしまっている人がいます。


そういう人に読んで欲しいブログです。

 

年齢制限かけた方がいいのかな。