家庭学習をし続けた僕 | 植松努のブログ

植松努のブログ

講演でしゃべりきれないことを書きます。

僕は、小さい頃から現在まで、部屋には必ず「机」があります。「本棚」もあります。

 

僕はいつも「机」に向かいます。

そこで、本を読んだり、絵を描いたり、何かを作ったりしてきました。

「本棚」には、そういう作業に必要な情報が沢山詰まっていました。

主に図鑑ですけど。

 

大学に入ったとき、そこで知り合った友人の家に、机や本棚がないことに、

ものすごく驚きました。

機械系の大学でしたから、「製図の宿題どうするの?」と尋ねたら、

「ちゃぶだいでやる」と言っていました。

僕は、製図の授業がはじまったときに、製図板を買いました。

それは、狭い部屋をさらに圧迫しましたが、必要なものでした。

僕は大学でも、「机」に向かい、本を読んだり、絵を描いたり、何かを作りました。

 

僕がしてきたことは、今も続いています。

いまでも、新しいものを開発したり、研究したりするとき、

僕はやっぱり、「机」に向かい、本を読んだり、絵を描いたり、何かを作っています。

そう。僕は、「勉強」しています。

明らかに、年齢を重ねるほどに、勉強の質も量も向上しています。

 

しかし、僕のやっている事は、小学校でも、中学校でも、高校でも、

「勉強」とは認めてもらえませんでした。

学校が要求する「勉強」とは、先生が出す課題と、テストの結果だけです。

それは、つまらないのです。

だって、同じ事を繰り返すだけだからです。やりたくないです。

僕は、自分の調べたいことを調べたいのです。

だから僕は「宿題をやらない子」でした。

「家庭学習をしない子」でした。

でも、僕は、家庭で学習していたのです。

その習慣が、今の植松電機を作りました。

 

おそらく、学習方法には、他にもいろんなのがあると思います。

それは、必ずしも、机や本と近しくないかも知れません。

しかし、主体的に「わからないことを調べる」「仮説を立てて、検証する」などの行為は、

立派な学習です。

それは、料理だったり、運動だったりでも、十分にあり得ることです。

でもそれは、現在の学校では評価されず、

そういう習慣をやめさせてでも、宿題をさせたい先生は少なくないです。

 

もちろん、中には、かなり早い段階で主体的な学びを否定され、

与えられた課題をこなすことしかできなくなってる人もいると思います。

そういう人の中には、なにもかもが面倒になってしまって、

「だりい」「めんどくせ」を口癖に、

ただただ、時間つぶしをしている人がいるかもしれません。

それは、子どもだけの問題ではありません。

それは、大人の中にも沢山います。

家に帰ってもすることがないから、時間をつぶしてる大人はいます。

こういう人達は、「言われたことを、言われたとおりにやる仕事」なら、

それなりにつとまるでしょうが、

これからは、そういう仕事はロボットに負けます。

 

小さい頃は、知りたいです。やりたいです。輝いています。

その輝きを、「学校が評価する勉強」で奪う大人がいます。

その結果、「うちのこども、ゲームしかしないんですよ」とか、

「宿題やらないんですよ」とかいう状態になっていることがあります。

これは、悲しいことです。

 

宿題を出さないと家庭学習をしない。

という子達については、

「本当に、まったく学習行為をしていないのか?」を調べた方がいいです。

なにかやってるなら、それを伸ばすように支えてあげるべきです。

また、

「家庭が、学習できる環境にあるのか?」も調べた方がいいです。

それが、家庭訪問の意味だったのではないかと、僕は思っています。

もしも、家庭学習が不可能な環境であれば、その子に宿題を出すのは、酷なことでしょう。

その場合は、家庭以外の居場所が必要かも知れません。

これについては、ネグレクトの可能性もありますから、しかるべき機関との連携が必要です。

そして、

「本当に、主体的学習意欲がない」という子どもに関しては、

いつそれを失ったのかを検証し、主体的学習を取り戻すようにしてあげないと、

そういう子達は、これからの社会では、働くことができなくなります。


勉強というものは、与えられた課題を、しぶしぶいやいややるような苦行ではないはずです。

我慢やあきらめの練習であるべきではないです。

そういうことをすると、「働きたくない」人が増えるばかりです。

 

勉強が楽しくて、やりたくてしょうがない!という状況を如何に作るかは、

教育者の重要な仕事だと思います。

 

えー、そんなの、無理だよ。

自分は、学習指導要領通りにやってるし。

忙しすぎて、そんな準備なんてしてる時間ないし。

 

じゃあ、できてる人はどうしてんの?

 

そんなの、その人が特別なんだよ。

あの人だからできるんだよ。

僕らは普通だから、無理無理。

 

いやー、これ、つぶれる会社の経営者がよく言ってる台詞だわ。

 

僕だったら、そういう本を探すね。試すね。できてる人と仲良くなる努力をするね。

そのためには、時間もお金もかかると思うけど、

でも、僕はそうしてきました。

なぜなら、主体的に「学習」することを、子どもの頃から、し続けてきたからです。

 

子どもが何かを調べたり、何かを真剣に作っているならば、

それを支えて上げて欲しいです。

「そんな遊んでないで、宿題やりなさい!」

「もう御飯だから、片付けなさい!」

ていってると、子どもは、「めんどくせえ」「だりい」で、一生家にいることになるかもよ。

そうじゃなくて、

「それ、好きだったら、こんど、そこの博物館行ってみようか。」

「片付けは後でいいから、御飯食べな。そのあと、またやっていいよ。

でも、母さんも明日その場所使うから、協同で使おう。どんな入れ物があったら、

片付けしやすいかなあ。今度の休みに探しに行こうか。」

とか。

 

子どもが主体的にやってること=あそび、くだらない

子どもが嫌々やってること=勉強

と思わないであげてください。