UNHCR | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

僕は、UNHCRという活動を、ほんの少しですが応援しています。

 

UNHCRとは、国連難民高等弁務官事務所の略です。

 

なぜ、応援しているのか。

 

それは、僕のじいちゃんもばあちゃんも、難民だからです。

 

僕のじいちゃんやばあちゃんは、北海道の北にある樺太という島で会社をやっていました。

樺太は、とても寒かったので、モーターリゼーションが発達していて、

東京よりも車が多かったという説もあるほどです。

そんな樺太で、ばあちゃんの家系は、金属加工の会社。

じいちゃんの家系は、バスやタクシーの運用をしていたそうです。

十分な収入もあり、豊かな暮らしをしていたそうです。

 

しかし、樺太は、1945年の8月20日、やっと戦争が終わったと思って、

みんながほっとしているところに、ソビエト軍が侵攻してきます。

町に戦車がやってきて、大勢が殺されます。

当時は、国民服という、軍服と見分けがつかない服を着ていた人が多かったことも、

被害を大きくしたと言われています。

みなが、南へ逃げて、そして、港から日本を目指します。

しかし、その避難の船も、途中で潜水艦の攻撃を受け、沈められたりしました。

 

そんな状況下で、なんとか北海道に非難してきたばあちゃんたちは、

そこで、自分たちが一生懸命に貯めていたお金が、紙くずになったのを知ったそうです。

貨幣価値が、終戦によって、まるで変わってしまっていたのです。

 

家も、資本も、お金もうしなって、子どもが何人もいて・・・

助けてくれる人がいない状態で、北海道での生活です。

それは、とても大変な事だったのだろうと思います。

 

同じ経験をした人が、満州にも、サイパンにもいます。

沖縄では、そもそも町も、仕事も、社会も、丸ごと消えてしまったという
経験をした人も沢山いたでしょう。

いまの日本でも、故郷が住めなくなってしまって、移住を余儀なくされた人もいます。

 

いま、世界で問題になっている難民も、そういう人達です。

ずるをしたり、だらしなくして、生活が困窮したのではありません。

普通に暮らしていて、その暮らしがなくなった人達です。

愛する家族をまもるために、お金や、家や、仕事を捨ててでも、

必死で生き延びる選択をした人達です。

 

でも、残念ながら、日本では、1970年代ころの、

ベトナム難民、カンボジア難民、ボートピープルなどの、ニュースでの扱い方が、

あまりよいものではありませんでした。

いまも、難民の現状の貧しい生活を報じても、

その人達が、

元々はどんな暮らしをしていたのか、

なぜそれを失うことになったのか、

を報じるケースはとても少ないです。

僕は、難民は、明日は我が身だと思っています。

だから、ほんの少しですが、応援をさせていただいています。

 

難民の人達は、力を発揮できないから、保護に頼らざるを得ないだけです。

働ける環境さえあれば、もとの力を発揮できます。

だから、保護よりも、力を発揮させる環境を作る方が、よほど有効だと思います。

それは、日本の福祉にも言えることかもしれませんが。

 

難民と言えば、テロの原因、と考える人もいるかもしれませんが、

今の日本は、観光や就学目的で入国後に行方不明になる外国人が沢山います。

観光客や、学生の入国管理が、こんだけザルなのに、

難民にだけ厳しくするのは、論理的ではないと思います。
そこにも、「難民」という言葉が生み出す偏見があるような気がします。

そもそも、難民は、英語ではrefugeeです。
これは、避難者、罹災者、亡命者、などの意味があります。

「難」という字を当てた人は一体誰なんだろうと思います。

 
日本人ではじめてUNHCRを務められた緒方貞子さんが亡くなられました。
これを機に、難民に対する考え方が、すこしでも変わる人がいたらいいなと思います。
 
ていうか、難民という言葉どうにかならんかね。
あと、UNHCRも、ユニセフみたいに、言いやすい言葉になるといいと思うんだけどね。