優しさって、大事だと思う。 | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

よく、「どうやったら発明ができるのか?」と質問されます。

 

ん〜。僕はそんなに発明をしてるつもりはないけどね。

 

僕は、問題を解決しようとしてるだけだと思います。

その結果、それが人の役にたって、仕事になっちゃって、発明になっちゃってるだけです。

 

僕は、「仕事とは、人の役にたつことだ」と思っています。

そして「人の役にたつ」というのは、「悲しいことや、苦しいことや、不便なことを、解決すること」だと思っています。

 

身の回りに、悲しいことや、苦しいことや、不便なことは沢山あります。

それを「何とかしなきゃ」と思う気持ちは、「優しさ」だと思います。

 

だから僕は、発明をするためには、「優しさ」が一番大事な要素だと思っています。

 

しかし、現実には、「優しさなんてあったって、負けるだけだ」と言われます。

「優しくすると、つけあがられる。」

「優しくすると、なめられる。」

と思い込んでる人が沢山います。

だから、「厳しく」しようとする人が少なくないです。

「厳しくすることが優しさだ!」なんて言う人もいます。

しかし、「厳しさ」というのは、大声や、恫喝や、理不尽の強制や、

苦痛ではありません。

すくなからずの人が、「厳しさ」と「暴力」をごっちゃにしています。

 

確かに、人の成長の為には、適度な負荷が必要です。

その適度な負荷をかけるのは、自身のハートです。

間違っても、督戦隊ではありません。

 

第二次世界大戦の時、アメリカの日系人部隊は、勇猛果敢にドイツ軍と戦ったそうです。

そこにあったのは、アメリカで、敵性人種として迫害を受ける日系人家族の為に、

日系人の名誉を回復しよう、という気持ちだったそうです。

 

ソビエト軍は、敵に攻撃をするとき、味方部隊の後ろに、督戦隊を配置したそうです。

味方部隊が戦闘を恐れて後退してきたら、督戦隊は容赦なく弾を浴びせたそうです。

なにせ、敵に撃たれた方がまし、と思えるレベルに撃つわけです。

 

誰かの為に動くのか、

自分の苦痛から逃れるために動くのか。

それは、いざというときに、大きな違いになると思います。

 

人間は、命令や強制でやらされることには、全力を発揮しません。

可能な限り、サボろうとします。

でも、自分がやりたくてやることは、100%以上の力を発揮します。

これは、大きな差になります。

僕は、このあたりも、日本の労働生産性の低さの一因ではないかと思っています。

 

植松電機には、部と課と役職がありません。

命令系統がありません。

植松電機は、相談とお願いと感謝で機能しています。

 

でもこれは、そんなに珍しいことではないはずです。

指示ゼロ経営なども注目されています。

これからは、そういう会社が増えていくと思います。

 

ただ、植松電機でも問題が生じることがあります。

それはたいていの場合、学校の部活動などで強烈に植え付けられた

上下関係の意識が生み出す忖度によって生じます。

過度に先輩に対して意見が言えなかったり、過度に後輩に対して上から目線だったり・・・

この上下関係を、「規律」だとして教え込む人もいます。

でも僕は、年齢によって差別をするような上下関係など社会の敵だと思っています。

人間の社会は、年上だろうが、年下だろうが、全ての人を尊重すべきです。

 
優しさは、ロボットが持たない能力です。
優しさは、発明につながります。
優しい、って、素晴らしいものです。
 
先日、余市の高校によばれました。余市紅志高校です。
その学校の校訓を見て、仰天しました。
「学べ 優しく 逞しく」
いろんな学校に行く僕ですが、「優しい」が校訓に入っている学校を初めて見ました。
 
優しい、の価値を、もっと信じてもいいのにな、と思います。