僕は、DV(ドメスティックバイオレンス)対策の資格を持っています。
DVについても学びました。
また、子ども達を暴力から予防するCAPのスペシャリストの資格も持っています。
なぜなら、僕は、人の自信や可能性を奪わない社会を作りたいからです。
そのためには、勉強が必要です。
DV対策でも、CAPでも、共通しているのは、
暴力とは、身体的暴力のみではない。ということです。
言葉や、表情や、態度で、相手を怖がらせるのは暴力です。
たとえば、説教。
説教とは、教えを説くことですが、
暴力的な説教に共通しているのは、「質問」です。
「君は、こんなことでいいとおもってるの?」
「思いません。」
「じゃあ、どう思ってるの?」
「こうあるべきだと思っています。」
「じゃあ、なんでそうできないの?」
「そんなことでいいと思ってるの?」
もしもうっかり、相手が望まないことを言ってしまったら、
やっぱり、「君は、そんなことでいいと思ってるの?」
「俺の言ってること、間違ってるか?」
「世の中は、こういうものだろ?ちがうか?」
こんどは、世間の常識や普通を持ち出して、思考を否定されます。
この途中途中で、
しかめっつら。
ためいき。
にらみつけ。
あざけり。
などなどの態度を織り込んできます。
これは、答えが出ない恐ろしい責めです。
しかし、これをやっているシーンを、僕は何度も見てきています。
植松電機には、子ども達の見学旅行が沢山やってきます。
中には、なにかやらかしてしまった子もいるのでしょう。
時々、そういう子を、複数の先生が取り囲んで、上記の責めを行っています。
植松電機としては、お話しを聞いて欲しいのに、そんなの関係ないです。
この責めのゴールは、生徒が泣いて謝罪することです。
以前、関わりのあった先生が教えてくれました。
「泣かすことが目的だ」
「泣いたら、心から反省しているのだ。」
そーかなー。
僕の知り合いは、泣き真似がすごく上手だったから、いつもすぐに釈放されてました。
僕は、泣かないので、いつまでも責められました。そうか、泣けばよかったんだ。
残念ながら、「泣くまで」というゴール基準を持たない人は、
エンドレスでこれをやってしまいます。地獄です。
こういうことをしてしまう人は、
自分がやりたいことを、一つの妥協もなくやりたいです。
自分ができることは、他人もできると思っています。
反論は、「やりたくない」なので、「ずるい」「怠惰」と解釈します。
できることができない人もまた、「ずるい」「怠惰」と解釈します。
こういう人は、「甘い顔をしたら、つけあがられる」
反論されたら、相手がつけあがってる、増長してる、と判断します。
完全に上から目線です。
こういう人は、仲間の助けを得られにくいので、できることが限られます。
見つけた仲間は手放さないように支配します。
「俺のことを考えてくれ」
「俺が苦しむんだぞ」
これは、「あなたががんばらないことで、俺に迷惑がかかる」という表現をつかって、
相手の責任意識を引き出しています。
こういう人は、嫌われます。
だから、様々な挙動や行為や言葉が、すべてマイナスに受け取られます。
やがて、人が離れていくか、逃げていくようになります。
それを「舐められた」と判断します。
そして、舐められないために、さらに支配的な行動をするようになります。
こういう人は、暴力を振るっている人間です。
こういう人は、人の上に立ってはいけません。
実は、こういう行動は、僕の父がしていた行動です。
だから僕は、そうならないように考え続けています。
その結果、僕の判断は、甘すぎる、と言われることもあります。
でも、それでかまわないと思っています。
なぜなら、その反対をやったときの恐ろしさを知っているからです。
こういう人を、どうやって治せばいいのかは、まだ僕にはわかっていません。
対処方法は、こういう人からは、なるべく早くに離れる、くらいしか思いつきません。
こういう人は、理念や理想は、確かにそうだよね。ということを言います。
でも、それと、人との関わり方は別に考えるべきです。
暴力人間とは、離れるのが一番です。
でも、おなじ会社にこういう人がいると、
離れるったって、会社を辞めたら、次の仕事がみつかるかわからないし、
こんな嫌な奴のせいで、自分が不利になるのはばからしいし、
自分がやめたら、お客さんも困るし・・・
と思うと、ためらってしまうでしょう。
そりゃそうです。
でも、一番大事なのは、自分の命です。
無理をするほど、心の傷は深くなります。
虫歯とおなじで、放っておいてもなおりません。
残念ながら、現在の日本では、このような暴力的思考の人間を判別し、
役職から外し、修正するような教育システムがありません。