「はやく一人前になりなさい。」
という言葉には、中学生や高校生、大学生の頃に何度か出会いました。
でも、そのたんびに、僕は悩みます。
一人前って、なんだ?
僕は、いろんな点で、他の人より劣っていました。
走るのが遅いです。
球技がまるでだめです。
泳ぐのも、息継ぎができません。
勉強も苦手です。
人前でしゃべるのも恥ずかしいです。
歌も下手です。
工作も、自分勝手にやる分にはいいのですが、課題を与えられるとうまくいきません。
およそ、学校が評価することは、ことごとくだめでした。
だからいつも、
「なんで、こんなことができないんだ?」
「なんで、他の子と同じようにできないんだ?」
「なんで、他の子ができてることができないんだ?」
と言われます。
自分でも、そう思います。
なんで自分は、他の子ができることができないんだ・・・。
いつもそう思っていました。
大人になった僕は、はやく一人前になりたくて、がんばりました。
がんばった結果はどうだったかというと、
僕は、自分の得意なことしかやらなくなりました。
自分のできることしかやらなくなりました。
一人前のふりをしました。
悩みごとを相談できなくなりました。
誰かが心配してくれても、「気にしないで。」と笑うようになりました。
自分を正当化する為に、苦手な分野を嫌い、否定しました。
僕ができないことができる人の事も、嫌い、否定しました。
僕ができることができない人のことも、見下しました。
僕は、僕が安心できればいいだけの存在になりました。
それは、まったくいいことではありませんでした。
今の僕も、苦手なことは沢山あります。
苦手を感じるのは、「現在はできていない、やりたいこと」があるからです。
特に、それが、「誰かを助けたい、守りたい」のときにこそ、自分の能力の足りなさを感じます。
なぜなら、単純に自分のための事ならば、自分があきらめるだけで解決するからです。
しかし、誰かの為、だと、あきらめようがないです。
僕は、「やりたいこと」を実現するために、自分の力が足りない時は、
それを人に相談して、助けを求めるようになりました。
そのかわりに、僕のできることで、他の人を助けるようにしました。
そうしたら、一人ではできなかったことができるようになりました。
別に、一人前になる必要はありませんでした。
一人前のフリをする必要もありませんでした。
素直に、自分の弱点を話せばよかっただけでした。
そして、学校が評価することの外側には、僕の得意なこともありました。
もちろん、僕よりも、工作が上手な人もいます。
僕よりも、絵がうまい人もいます。
僕よりも、本を沢山読む人もいます。
僕よりも、沢山の経験を積んでいる人もいます。
でも、そんな人と、自分をくらべる必要もありませんでした。
能力を競っても意味がないです。
自分以下も、自分以上も不要です。
くらべる自信は不要です。
大事なのは、自分にできることをする、です。
以前も書いたと思いますが、
人を助けるためには、3つのステップです。
(1)相手を観察する
(2)勝手に「これからどうなるかな?」と予測する
(3)自分ならどうするか、をかんがえる
です。
これさえやれば、人を助けられます。
そして、人を助けたら、助けてもらえるようになります。
そうしたら、できなかったことができるようになります。
一人前、という言葉は、知らず知らずのうちに、
くらべる自信を植え付ける言葉かもしれません。
本当に大事なことは、「人を助けたい、守りたい」という気持ちだと思います。
それはきっと「優しさ」だと思います。
一人前になれ、ではなく、
「あなたは優しいねえ」がいいと思います。