なぜ「違う」を「だめ」だと思ってしまうのか? | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

この世には、同一の人間はいません。

全ての人は、かならず微妙に違います。

 

「あなたは、わたしとは違う」は、あたりまえです。

同じだったら怖いです。

 

だのになぜ、「違う」を「おかしい」と裁き、「だめ」という罰を与えることが、
まかりとおっているのか?

 
人が私的に人を裁き、罰を与えることは許されません。
なぜなら、そこには、間違いが入り込む余地があるからです。
誤解や、情報不足によって、裁き、罰を与えるのは、とても危険な事です。
裁きの過ちを防ぐために、検察と弁護士と裁判官がいます。
 
しかし、日本では、とても残念な事に、教育に関わる大人が、子ども達を私的に裁き、
私的に罰を与えてしまうことを、子ども達に見せつけてしまいます。
 
学校では、子ども達に社会性を身につけさせようとします。
本来は、それぞれ違う人間を尊重し、助けあうことを教えた方がいいと思うのですが、
残念ながら、日本はかつて国民皆兵制度だったため、
日本人全員が、命をかける軍隊だからこそ必要な、
「滅私奉公」の「全体主義」を教育されます。
それを学んだ人達が社会を構成したので、日本中の企業や組織が、
軍隊的な階級制度を構成し、全体主義的な価値感を持っていました。
当然、学校もその影響を強く受けています。
そして、時代はずいぶん変わってきたのに、学校はなかなか変わりません。
いまでは、企業よりも、軍隊的に見えます。
いまだに、軍事教練と同じ「整列」「行進」「右向け右」や、
「連帯責任」や「責任を取って丸坊主」なんてのも、学校では普通に残っています。
 
そこでは、
「みんなと同じにしなさい」
「なんでみんなと同じ事ができないの!?」
「みんなちゃんとしてるよ!」
「みんなとそろえなさい!」
ということをたたき込まれます。
「違う」は、他の人に迷惑をかける「だめ」なことだと教えられます。
根拠のない「普通」や「常識」に従うことが、とても大事だと思えます。
それが「空気読めよ」になっています。
 
それを学んだ子ども達は、自分たちの「普通」「常識」をもとに、「違う」に対して、
私的に裁き、罰を与えられる人になってしまいます。
 
フルメタルジャケットという映画では、運動が苦手なクラスメートのおかげで、連帯責任を食らうメンバーが、その運動が苦手な子を暴行するシーンがあります。
それは、その子を正しい道に導く「教育」です。
彼らにとっては、それは、いじめではないのだと思います。
 
学校の先生の中には、生徒指導の手法として、警察の取り調べ方法などを真似る人がいます。
警察の人からその手法を学んだとして、PTAの研修会でうれしそうに報告した先生もいます。
それを見ていた保護者も先生も、「それはすばらしい!」と絶賛していました。
しかし、警察は軽犯罪は別として、基本的に裁かないし、罰も与えません。
裁き、罰を与えるためには、検察も、裁判官も、弁護士も必要です。
それがない状態で、裁いて罰を与えるなんてのは、
ゲシュタポのようです。
でもそれを、大人は子ども達に平然とやってしまいます。
 
この状況を変えるためには、
学校で軍隊式の全体主義を教えないことと、
先生や保護者が、子ども達を私的に裁き、私的に罰を与えないことが重要です。
 
そんなことしたら、学校がめちゃくちゃになる!という人もいますが、
僕が見てきた限りでは、
やたらに怒鳴り、生徒を整列させ、行列にさせ、行進させる学校の場合、
生徒は、「命令」がないと、だらだらぽかーん、です。
ものすごく行動が遅いです。
 
しかし、そうではない学校もあります。
先生が大声を出さなくても、生徒がスムーズに移動します。
ある先生に、その理由を尋ねたところ、
「並びなさい!」ではなく、「並んだ方が、移動がスムーズで、時間が得になるよ。」
と教えているそうです。
がってん!がってん!がってん!
 
僕の会社は、命令がなく、ノルマも罰則もありません。
整列や行進の練習もしません。
みんなで朝礼で社訓を大声で読み上げる事もしていません。
でも、僕の会社の仲間は、命令をしなくても素早く行動します。

社会性とは、1人1人違う人達で構成されています。
その人達が、力をあわせるために必要なのが、真の社会性です。
そこでは、私的な裁きも、私的な罰も、マイナスにしか作用しないです。
とても残念な事ですが、社会性を身につけさせようとしてやっていることが、
実は、社会をばらばらにしているような気がします。
 
もうちょっと、優しく生きられる社会にできると思います。