Roll Over Corona(1)鉱夫の祈り | AFTER THE GOLD RUSH

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とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

 

思えば3か月前、このような事態になることを誰が予想していたでしょうか。武漢市で原因不明のウイルス性肺炎の発症が相次いでいるとの報道があったのが大晦日の晩。その後もしばらくはぼくたちにとってその病気は“ひとごと”であったように思います。広東省でヒトヒト感染が確認され、日本においても初の感染者が報告された1月下旬以降、我がステイトの度し難いほど場当たり的な対応により、横浜港に浮かぶ巨大なクルーズ船では悲惨なまでに感染が拡がり、さらに、たかだか2週間余りの運動会と尊い人命を天秤にかけ、躊躇なく前者を優先したリーダーの判断により、検査は抑制され、その結果、静かに、そして広範囲に感染が拡大していったことは、今や子供でも知っている事実でしょう。(運動会の延期を決定した後、東京都の感染者数が指数関数的に激増したことを不自然に思わない人などいるのでしょうか?)

緊急事態宣言が出された街は、行きつけのカフェもブックストアも店を閉じ、まばらに行きかう人たちは皆マスク姿で、まるでゴーストタウンのようです。こんな時に音楽など…と言う方もいるかもしれませんが、このような時こそ、音楽が必要だと思うのです。「ステイホーム」が求められている今、ぼくたちはそれぞれのやり方で、ささやかな楽しみや喜びを見出し、これまでと変わらぬ日常を守り抜く必要があると思うし、それこそが、あの未知のウイルスに打ち勝つ唯一の手段のような気さえするのです。
音楽の力を信じないミュージシャンがいる一方で、そのミュージシャンが紡ぎだす美しい旋律に救われているリスナーも現実にいる。「力」の語義を「政治」に特化し矮小化する姿勢は厳に慎むべきであるし、そのような「分かったようなこと」を宣うニヒリスティックな連中と彼らが創り出す音楽とは明確に切り分けて受け止めなければ、音楽は無力化するばかりだと思うのです。ぼくは、音楽の力を絶対的に信じます。

Roll Over Corona(略してR.O.C)とは、おかしな英語であることを自覚しつつ、「Roll Over Beethoven」の邦題「ベートーベンをぶっ飛ばせ」に最大級の敬意を表してタイトルにしました。ぼく自身が音楽の力を再確認するために、これまでの人生で感銘を受けた歌たちのことを週1回程度書いていければと思っています。

高田渡の突然の死から、早いものでまもなく15年が経とうとしています。ぼくは、京都山科の下宿屋でインスタントラーメンと角砂糖を齧っていた頃の若かりし渡氏の歌がとりわけ好きで、だから彼の初のフルアルバム「汽車が田舎を通るそのとき」は、親しい友人からの私信のように愛おしいのです。中でも、自身の極貧の少年時代を炭鉱労働者の哀しくも慎ましい生活に投影したかのような「鉱夫の祈り」は、詩人高田渡の真骨頂を示した作品としてこれからも長く歌い継がれるべき歌であると信じてやみません。(最近では、よしだよしこさんのマウンテン・ダルシマーによる弾き語りが大変素晴らしかった。)
その京都山科の下宿屋時代の彼の写真が、当時の音楽雑誌(フォーク・リポート1969年12月号)に掲載されていました。少し驚いたような表情でこちらを見やる渡氏は、加川良の「下宿屋」の一節「彼はいつも誰かと そしてなにかを待っていた様子で ガラス戸がふるえるだけでも ハイって答えてました」というイメージそのままの佇まいで、見る度に幼馴染と再会したような懐かしい気持ちになるのです。