フォークゲリラを知ってるかい? その10 | AFTER THE GOLD RUSH

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Folk Guerrilla
 

7月4日、警視庁は、フォーク・ゲリラに対する“戦術変更”を決定する。俗にいう「ソフト規制」というやつだ。新聞は、その規制スタイルについて次のように報じている。


Folk Guerrilla  警視庁は毎週土曜日に東京・新宿駅西口広場で開かれているフォークソング集会の混乱防止策を検討していたが、4日、今後は機動隊による交通整理や規制はやめ、交通警官や婦人警官を現場に出して、歩行者の保護を重点に交通整理に当たらせる、との“やんわり戦術”に切替えることを決めた。この方式は5日から実施される。
 警視庁の計画では、午後4時から同9時まで交通警官5百人が現場に出て、①新宿駅西口のタクシー乗場付近と改札口付近、②地下鉄通路から西口改札口への通路、を人が通れるようにする。
 このため交通警官が集会のまわりに人垣をつくり、特に老人、婦人、子供を重点に歩行者を保護する。また婦人警官5人がマイクで「乗降客の迷惑にならないように」と呼びかけ、タクシー協会指導員も出て、足の確保につとめる。
 綾田警視庁交通部長は「あくまで歩行者保護が目的だ。お祭りの整理と同じ方法をとり、現場での検挙は一切しない」と言っている。
(「朝日新聞」1969年7月5日)

 

その一方で、フォーク・ゲリラの中心メンバーに対しては、逮捕状執行という強硬手段に出る。罪状は、フォーク集会でデモや座り込みを指揮したことによる都公安条例違反。
7月4日早朝にI 君(21歳)が自宅で、翌5日にはH君(19歳)が港区赤坂一丁目の路上で逮捕される。
H君が逮捕された時の状況は、彼の手記によると、次のようであった。

 

Folk Guerrilla 7月4日、金曜日、いつもと変わらぬ土曜日を迎えた僕は、I 君が逮捕されたことを知って“キタか”と一瞬思った。それと同時に、「変だな、この頃彼はあんまり演奏の方はやらないし、テープレコーダーを抱えて、インタビューするくらいしかしてなかったのに、むしろ僕の方が……」と考えると、“次は僕の番だ”という確信がにわかに起こった。
次の日は、月の第一土曜日、べ平連の定例デモの日だった。雨もよいの空の下で、いつもより少なめのデモの参加者の中で、一人、僕は緊張感を解くことができなかった。清水谷公園を出発して、赤坂見附の付近に来ると、第五機動隊だろうか、2百人ぐらいが完全武装で待機していた。
Folk Guerrilla このデモは、もちろん届出済みでシュプレヒコールと歌だけの整然とした穏やかなものだった。僕がハッとしたのは、そこに機動隊の他に、私服が物凄くたくさんいるのを見つけた時だ。とっさにかぶっていたヘルメットを取り、身の回り品を車に放り込んで、“声なき声”グループの中にすべり込んだ。赤坂溜池を過ぎて、アメリカ大使館を横目に、ガソリンスタンドのところを曲がろうとした時、前から五機、後ろからは四機が近づいてきて、整然としたデモに襲いかかり、人々を蹴散らしにかかった。しかし僕は、彼らの不法行為に怒りを表す余裕も与えられていなかった。その時すでに機動隊とほぼ一緒に現れた4,5人の私服に、身を案じてそばについていた恋人から引き離され、身の自由を奪われていたのだ。
それを見ていたある雑誌記者が報じたように、それは、“いかなる現行犯逮捕でも、逮捕状の執行でもなく、ただ暴漢による事実上の拉致”にすぎなかった。彼らが、あそこで、僕を逮捕しなければならない理由はなかったのだ。僕は全然逃げも隠れもしなかったのだから。彼らは、デモ隊の中で逮捕劇を敢えて演じ、威圧的な効果を出そうとして、僕をその道具に仕立てあげた訳だ。
(吉岡忍編著「フォーク・ゲリラとは何者か」自由国民社、1970年)

朝日ジャーナルは、このH君の逮捕を取り上げて、警察の「ソフト規制」の欺瞞性を次のように指摘している。

 

Folk Guerrilla 警視庁が西口取締りを「ソフト規制」に転換した後にも、一方ではこうした少年の逮捕の仕方が行われていることは、警視庁ないし全国の警察が、べ平連を中心とするニューレフトにたいして、二面戦術をとっているものとしか考えようがない。つまり、マスコミに取り上げられそうな恐れがある場合や圧倒的な大群衆に対しては「ソフト」に、それ以外のときはかなり高圧的にということであろう。いってみれば、それは、体制への操作的とりこみと体制からの強制的排除の2つである。
(「朝日ジャーナル」1969年7月20日号)

 

さて、ゲリラ2名の逮捕直後に行われた5日夜のフォーク集会は、前週、機動隊との衝突があったにもかかわらず6,500人の若者が集まり大盛況。しかし、集会終了後は、前週に続き、ジグザグデモ、警官とのもみあい、検挙などの混乱があったようだ。新聞は、「新宿集会でまたも衝突」との見出しを付け、次のように報じている。

 

Folk Guerrilla 毎週土曜日、新宿駅西口地下広場で開かれているフォークソング集会は、5日も午後5時半過ぎからべ平連や学生など約6500人(警察調べ)が集まった。
警察側は集会の混乱を避けるため、この日は機動隊の代わりに交通警察官約500人を広場に配置するソフト戦術をとったため、集会は午後8時過ぎ、たいしたトラブルもなく一応解散しかけた。
ところが、同夜8時過ぎ、約500人の学生らが地上に出てジグザグデモをはじめ、これに群集も加わり、約2千人が西口から東口に、さらに新宿通りをデモをしたために付近の交通が一時マヒした。
また、広場に残っていた若者の1人が西口交番にビラを張ろうとして警官ともみ合いとなり、交番のガラスがこわれた。
その後、6日午前零時半頃、私服刑事が若者1人を西口交番襲撃の容疑者として地下鉄新宿駅務区に連行したところ、これに抗議して約20人の学生らが同駅務区におしかけ、ドアのガラス戸を割るなどした。これらの騒ぎで7人が都公安条例違反現行犯などで逮捕された。
(「朝日新聞」7月6日)

 

この夜の集会の様子は、宮嶋義勇監督の記録映画「怒りをうたえ」(*1)で見ることができる。映像には、新聞では報じられなかった機動隊との衝突も記録されている。順を追って見てみよう。


Folk Guerrilla 広場の柱を背にギターをかき鳴らすゲリラたち。「ウイ・シャル・オーバーカム」の歌声が不協和音となってゴーッと響きわたる。“ゴリ”の愛称で人気を集めていた中大生О君(21歳)の姿が見える。その隣には、当時、早稲田大学政経学部に籍を置いていた吉岡忍氏(21歳)。“フォーク・ゲリラの歌姫”こと出版社勤務のS子さん(21歳)も小さな体を揺らしながら力一杯歌っている。皆、表情は明るい。そして広場いっぱいに座り込んだ学生、市民の周囲には、「丸腰の警官」が後ろ向きにずらりと立ち並び、“交通整理”をしている。なるほど、これが「ソフト規制」というやつか。

Folk Guerrilla
歌が終わった。「私服だーッ」という若者の叫び声。広場を埋め尽くした人垣からいくつもの怒りの拳が突き上がる。やがて群衆は、学生、サラリーマン、やじ馬らが入り混じった混成のデモ隊となって、「闘争勝利、安保粉砕」を叫びながら、西口の坂を上っていく。物凄い人数だ。地上に出た人々はフランスデモをしながら新宿大ガードをくぐり東口へ向かう。と、完全武装した機動隊がダーっと走り出し、人々に襲い掛かる。ジェラルミンの盾が力いっぱい振り下ろされる。路上に倒れる若者たち。今度は、催涙ガス弾の一斉射撃。ダダーンという射撃音。銃口から白い炎がどっと吹き出す。

 

機動隊と対峙し、車両止めやバス停の看板で道路にバリケードを築く群集。手拍子をしながら、やけくそ気味に何かを歌っている。「機動隊ブルース」だろうか。しかし、抵抗むなしく、バリケードは突破され、群集を追う機動隊は地下広場を占拠。顔面を負傷し、血まみれになった若者が抗議する中、ジェラルミンの盾が画面一杯に接近するシーンで映像は終わる――。
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ソフト規制をすれども、逮捕状を執行すれども、ガス弾を撃てども、一向に終息する気配を見せない“土曜ショー”。この時期、警察は相当に焦れていたのではないだろうか。マスコミは、「新宿に、暑い長い夏の心配が強まっている」と報じた。(つづく)

フォークゲリラを知ってるかい? その11

 

*1 「怒りをうたえ」に記録されているフォーク集会の映像については6月28日説もあるが、次の3点から7月5日の映像と考えて間違いないと思う。その根拠は、①地下広場で7月1日から行われていた在日中国人青年による入管法撤回要求の坐り込みとハンストの様子が映し出されていること、②そのハンストの垂れ幕に「5日目貫徹中」と書かれていること、②集会をとり囲むように交通警官が立ち並ぶ「ソフト規制」が行われていること。