フォークゲリラを知ってるかい? その11 | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

Folk Guerrilla

 

誰かが「これでもうお終い」と言わなければ、永遠に続いたのだろうか? 
いや、そんなことはないだろう。この頃すでに集会の主役はフォークではなかった。
地下広場を支配していたのは、もはや音楽とは別のものだった。
ゲリラ自身の言葉を借りるなら、「フォークの持つ音楽性は拒否され、フォークをつつむ周囲の状況の政治性だけが強調された」歪な歌声集会になりつつあった。
もう一つ彼らの言葉から引用しよう。
「アジ演説、すわり込み、それにチョッピリのフォーク。それでも僕たちは行く」(О君)
そして、7月12日。この日が実質的に最後のフォーク集会となった。当日の様子は次のようであった。

 

Folk Guerrilla 土曜日恒例のフォークソング集会は、12日午後も東京・新宿駅西口地下広場で開かれ、約7千人が集まった。警察は5日に続き、婦人警官、交通警官を全面に出すソフト規制を取ったが、群衆の一部が同夜遅くまで気勢をあげ、午前零時すぎ、機動隊が入って全員を排除した。
午後7時ごろ、赤、黒ヘルメットなどの学生、高校生ら約100人が広場でジグザグデモを始めたため、地下広場に通じる車両が一時交通ストップ、交番を取り巻いた学生はときどき警官と小競り合いを繰り返した。
同10時50分、白帽子に交通腕章をつけた機動隊員らが広場にはいり、出入国管理法案に反対しハンストをしていた中国青年有志ら約30人と座り込んだ学生約120人を排除、学生ら5人を公務執行妨害で逮捕した。
(「朝日新聞」1969年7月13日)

 

この日の地下広場の状況は、美術評論家の東野芳明氏が「中央公論」(1969年10月号)に克明に記している。
やや長くなるが、貴重なドキュメントなので、以下引用させていただく。

 

Folk Guerrilla ともあれ、ぼくは7月12日の土曜日、はじめて新宿西口広場へ出かけた。思えばこの日が「広場」と名付けられた最後の土曜日になったわけだが、山手線を下りて西口の改札口から出ようとすると、改札口が臨時にずっと先の方に張り出している。少しでも集会の面積を少なくして駅の中にとり込もうという画策だろうか。

 

時刻は5時半頃。すでにフォーク集会ははじまっていた。べったりと床にすわり込んだ若い観衆はどれほどの数だろうか。それをとり囲んだ人垣の間をくぐり抜けて中に入ろうとしても、ものすごい人波のためにはじき出される。交通規制という名目で交通整理の巡査がこれをぐるりととり囲んでいる。柱のあちこちで、ヘルメットをかぶった全共闘の学生や山谷解放の労働者たちが、パンフレットを売ったり、カンパを集めたり、演説をはじめている。小田急線に入る地下入口の前では、出入国査証制限に反対する外国留学生たちがハンストのために坐り込んでおり、テレビのカメラマンが忙しそうに飛び回っている。通勤のサラリーマンや買物の主婦たちが、半ば物珍しげに、半ばこわごわと、立ち止っては、あわてて去ってゆく。中年ふうのサラリーマンと学生たちとが、2、3ヵ所でかたまっては討論を交している。


Folk Guerrilla やっと人垣をくぐってフォーク集会にもぐり込むとあふれるような熱気である。この地下広場は天井が低いので、よけいに人いきれでむんむんする。べ平連の歌手たちが、精度のあまりよくないマイクで、替え歌をがなりたてると、わーんと合唱が割れた音になってひびく。下手なテレビ・タレントのような冗談をはさみ込みながら歌がつづいてゆく光景は、ちょっと、村の祭ののど自慢といった感じである。ただ、このフォーク集会自体は、思ったほどに自由な盛り上りがなく、どこかに、舞台と客席という区別が残されており、画一的な統一が少し感じられた。

 

真上の小田急ビルで急ぎ夕食をすませてふたたび地下広場に下りてみると、ふんい気はますます熱っぽく、濃厚になっており、ぼくのようなヤジ馬もふくめて、ほとんど身動きのできないほどの状態である。交通規制の巡査たちが、交番のまわりにひしめき、黒いヘルメットの一隊が、フォーク集会の囲りをジグザグデモをはじめる。歌が聞こえないといって怒る声もあれば、デモに拍手を送る一群もあり、巡査とのいざこざが起っている個所も出てくる。


Folk Guerrilla 地下広場から、噴水のある地下駐車場入口の方へ出ると、設計者たちが「穴」とよんでいる御自慢の車の通路も、群衆でいっぱいである。さっきまでは通っていたタクシーも通行止めになったらしく、急カ-ブで地下広場の前になだれ込む車の導線の路も、からっぽで、群衆がぶらぶらと歩く散歩道に化した。なかには、車道に仰向けにねころがって、星を見ている奴がいる。たしかにここには、一瞬、都市の変質があった。いつもは、車を避け、左右を見ながら急いで渡る道が、ここでは、ねころがって星を見ることの出来る地べたに化していたのである。急カーブの車の導線に鈴なりにならんでいる群衆も、この一瞬の変質された空間を、じっとにぎりしめているように見えた。


Folk Guerrilla 椿事はその直後に起った。地上の広場の方、つまり、車の導線の上りきったところには、すでに警官の一隊がかたまっており、導線を「占拠」した群衆との間に、一進一退のつばぜり合いを繰り返していた。こういう時、制服人種への憎悪は群衆の中に等比級数的に増加してゆくものらしい。やがて警官の一隊は押し戻され、スバルピル、安田生命ビルの前の大通りにまで群衆はあふれ出した。そして、それまで大通りの交通止めをしていた警官も一緒になって、中央公園方向の道の方に迫いやられてしまう。
すると交通止めが解かれたと思ったマイ・力―族らしい車が2、3台入り込んできた。大通りにあふれた若者たちはこの車をとり囲み、ボディを叩いたり、からかい半分の声をかけたりした。そこには、敵意のようなものはなかったはずだが、そのとき、突然、先頭の車が急にアクセルを踏んで猛烈な速度で走りはじめたのである。前にいたひとりの青年がはねとばされ、その身体の上を車はなんともいえない、いやな鈍い音をたててひき倒しながら逃げ走った。激怒した群衆は車の後を追ったが、ちょうど、先の信号が青だったため、車は逃げおおせてしまった。ひき逃げしたあの車の男は、群衆に囲まれた時、車を倒されたり火をつけられるのではないかという恐怖にかられ、思わずアクセルを踏んだにちがいない。そして青年をひいてしまった後では、もし停ったら自分が殺されると思い、そのまま思い切り逃げてしまったのだろう。

 

それから後は大騒ぎとなり、警官の責任を追及する群衆が地上広場へあふれ出した。中央公園の方のコンコースに待機していた機動隊がなだれ込んできたのはそのしばらく後である。ぼくは偶然、ひき逃げの椿事を目前に見たショックで茫然とし、タクシーで家に帰ってしまった。しかし、もっとショックだったのは、この椿事について翌日の新聞が一行もふれていないことだった。あれは報道するに足らない傷害事件にすぎなかったのだろうか。地下広場の車の通らなくなった地べたに、のんびりとねころんで星を眺めていた青年のことを思い出すと、あの一瞬の都市の変質は、単なる幻想にすぎなかったような気がしてくる。
(「中央公論」1969年10月号―新宿西口“広場”の生態学 東野芳明)

 

Folk Guerrilla 作家の小中陽太郎氏は、これほど盛り上がる前のフォーク集会で、ジャンパー姿の朴訥そうな青年に「ここでこうやって集まって革命は来るか」と質問し、「週に6日働き、土曜の夕方2時間歌うことだけが楽しみの私に、『革命が来る』とは何だ、私の楽しみに水を差す気ですか」と怒られ、大いに恥じたと著書「私の中のベトナム戦争」(サンケイ新聞社、1973年)に書いている。小中氏は続けてこう記す。
「新宿の西口に2、3千人が集まったからとて、それで革命が起こるなんぞという馬鹿な話はない。しかし、当時の新左翼の党派の中には、こういうことで革命は来ない、とまじめに批判するような者もいたのである。ところが、ここに来た多くの人々は、青年労働者で、そして2時間、広場という緊張の中で、声を合わせることに、職場とは異なる違う世界を垣間見たのである。」(前掲書)
しかし、東野氏の文章を読んでお分かりのとおり、この時期になると、西口に集まった人々の目的は「歌うこと」より、もっと違う何かにあったような気がしてならない。それは、好意的に解釈するなら、「市民の自由な広場を守る」という大義だったのかもしれないし、また、もっと皮肉な見方をするなら、彼らを西口に呼び寄せたのは、機動隊や警察への憎しみに満ちた「騒乱への期待」だったのかもしれない。

 

さて、集会の2日後の7月14日、今度は、フォーク・ゲリラの女性リーダー的存在だったS子さんが勤務先の出版社で逮捕される。道交法・都公安条例違反。地下広場で反戦フォークを歌ったという罪状でのゲリラの逮捕は、これで3人目となった。(つづく)

フォークゲリラを知ってるかい? その12