若松監督の「天使の恍惚」は1971年12月に撮影され、その後、警察、マスコミ、地元商店会による「爆弾映画上映反対キャンペーン」を経て、1972年3月に新宿文化で上映された。
政治的に先鋭化したが故に、党から暴力的にブレーキをかけられた革命兵士たちが、党を捨て、分派し、たった一人で闘うことを決意する。その帰結点は、革命兵士の月曜日いわく「この手で爆弾を投げて、この体から血を流して死ぬ」こと。それを方針に、十月の兵隊達が、新宿の雑踏で、国家の中枢で、自爆し、討ち死にしていく。
当時の映画雑誌を見ると、「アジトを爆破して無関係の市民を多数殺傷する、そんな革命はゴメンだ」という批判を書いた評論家に対し、別の評論家が「小市民的」と罵倒し、世界革命を真剣に論じている。今となっては笑うしかないが、良くも悪くも熱い時代だったのだろう。
ボクはといえば、前述の評論家同様、小市民的と嘲笑されても、爆弾テロなんか真っ平ゴメンだ。だから、初めてこの映画を見た時の激しい違和感はいまだに覚えている。ヤケっぱちな爆弾闘争への嫌悪感、内ゲバシーンの惨さ、救いの無いストーリー・・・。
それでもこの「過激派映画」がボクの心にトゲのように刺さって抜けなかったのは、この映画から政治的意匠を剥ぎ取った時に見えてくる、組織と個人の関係、つまり、(前回も書いたが)、追いつめられた弱者が大きなものに一人で立ち向かう時のギリギリの呻き声が、悲しくも鋭い切っ先として、ボクの感性を直撃したからである。
例えば、国家の中枢へと向かう一本道で、爆弾の導火線に引火しながら車を走らせる金曜日のモノローグ。
行かなければならない・・・
私はやって来たんだ、はるかずーっと向こうから。
だから、私は、向こうまで、はるか向こうまで行かなければならない。
最前線へ!
闘争で目を負傷した盲目の隊長十月と、幹部候補生の道を捨て、一兵卒として死ぬことを選択した土曜日が交わすラストシーン間近の会話も忘れられない。
土曜日 「また、どこかの戦場で会いましょう。」
十月 「会うことはない。ましてや会うつもりは捨てている。」
土曜日 「ええ・・・、でも、オレはあんたに借りがあって、それがずーっと消えそうにないんで。」
十月 「借りは死んだ奴らに借りてるッ。他にはない。行けッ!。」
この映画の第一稿は、パレスチナ体験直後の足立正生によって書かれた「天使はケチである」だが、そこでの主人公は、若松孝二その人で、アソビで爆破を繰り返す爆弾少年と情念の塊のような盲少年が、虚実入り乱れ、シュールなストーリー展開をする。半ばスラップスティックな感さえある初稿から、暗くシリアスな決定稿への跳躍を果たしたのは、足立自身の「時代」への怒りと焦りだったのか? この興味深いテーマについては、また別の機会に書きたいと思う。