北朝鮮の看守はやりたい放題。若い女性はやられっぱなしで、悲惨過ぎる件。
看守がJKの局所に媚薬を…!? 外国映画を鑑賞した少女たちへの「北朝鮮の性的拷問」がヤバすぎる可能性
2016.01.26
みなさんこんにちわ。陰謀社会学者の聖橋乱丸である。
2016年1月16日、北朝鮮の北部の都市恵山(ヘサン)で、男女16人の高校生が公開裁判にかけられた。罪状は「アメリカ映画を見た」というもの。要するに「資本主義の腐った思想にハマった」として断罪されたということだ。
■発覚すると公開死刑、それ以上の拷問も…! 多発する外国映画鑑賞
ただ、北朝鮮に詳しい人はそんなに驚かなかったのは、昨年4月にも「韓流ドラマを見た」ということで女子大生が複数名処罰され、「収容所による思想強制」の上「肉体奉仕」という刑が科せられたからである。
この時、女子大生が見たとされるのは「ツツジの花が咲くまでに」という名前の韓流ドラマで、脱北者の申英姫(シン・ヨンヒ)さんの手記を原作にした「喜び組」のドラマであった。そのため、女子大生は「北朝鮮を汚す韓国の陰謀に加担した」とみられ、重罪となったのだ。
この事件が大して国際的な問題に発展しなかった理由としては、北朝鮮の人民や脱北者が同情しなかったことが挙げられる。「北朝鮮や金正日・金正恩親子を侮辱したのだから仕方がない」という世論が圧倒的だったのだ。
一方、今回の高校生は、何の映画を見たかはわからないが、北朝鮮を風刺する映画ではないようである。要するにただ単にアメリカの映画を見ただけだったのだ。ゆえに同情の声が上がっている。そのため、「保安局(警察署)の予審を受ける」という決定がなされた。今後、この高校生たちは拷問を含めた取り調べがあり、そのうえで、刑が確定することになる。ではどのような刑になるのだろうか?
例えば、昨年の9月、男性ふたりが裏コンテンツでハリウッド映画を見ていたところを摘発された。このふたりは、「映画を見ていただけ」であるにもかかわらず、「公開死刑」となった。それに比べると、女子大生は「収容所」であるし、高校生は「保安局」である。だが、これは「学生」であることから刑を軽減されたのではなく「死刑に準じるひどい仕打ちが待っている」ということになるのだ。
人権団体アムネスティが発表した内容によれば、北朝鮮では「女性の人権が守られていない」うえ、「収容所や監獄などにおける女性の人権も全く守られない」そうだ。そして、国連の報告書によると「収容所の棟」によっては「若い女性を専門に強姦する看守や上級官僚」がいる棟もあるのだという。要するに、この女子高生は、収容所の中で刑務官や役人に犯され、弄ばれる可能性があるということになるのである。
様々なニュースサイトや、韓国の新聞、そして脱北者の証言などを合わせると、収容所の中では以下のようなことが行われるそうだ。
■1週間で発狂する、恐怖の性的拷問2つ
女性は、男性の看守が見守る中裸にさせられ、「身体検査」が行われる。裸になることをためらう女性に男性の看守数名が女性囚人に近寄り、強引に服をはぎ取るのである。その上、全裸にさせられると、すぐに女性は後ろ手に縛られ、全身を、何か隠していないかというところまですべて調べられる。
その後、監獄に入れられる。問題はそのあとだ。まずは、自白のために拷問を行う。拷問の種類はさまざまである。
・寝ることも立つこともできない箱の中に詰められ、放置される
・椅子に手足胴体をしばりつけられ、身動きができない状態で、空中に吊られて何日も放置される
などだが、特に若い女性に対しては、性的な拷問もしばしば行われている。その中で最も厳しいのが、強姦…、ではなく、「媚薬を局所に塗られ、手足を縛られて放置される」ものだという。
椅子に拘束され空中につられたまま、局所の疼きに耐えなければならないのは、女性にとってかなりの苦痛を伴う。この拷問を受けたものは、一週間もすると狂ってしまうという。狂う前に許された女性は、しばらくの間は、自慰に耽るか、自ら看守の相手になるのだそうだ。
看守は、美人の囚人が来ると、だいたいこの拷問を行うというのである。
もうひとつ、最も厳しい拷問があるという。
■最も厳しい拷問は「死者の箱」
それは、寝ることも立つこともできない箱の中に死体と一緒に入れられるという拷問だ。場合によっては、死にそうな友人や一緒に逮捕された囚人と二人で拘束されて箱の中に閉じ込められる。徐々に一緒に入っている囚人が弱ってゆき、死に至るのを、文字通り肌で感じながら、自分では何もできない状況で、身動きもできないまま、最終的には遺体と過ごさなければならない状況になるという。これもまた、頭が狂うほどの恐怖なのだそうだ。
さらに看守が、「あのようになりたくなければ、俺の愛人になれ」と強要するケースもある。このような状況では、当然、監獄内で妊娠し、子どもが生まれてしまう場合もある。「国連の人権委員会国連調査委員会報告」によると、その764項目以下にその内容が詳細に書かれている。その記述を参考にすると、妊娠が発覚した場合は、覚せい剤などを入れて強制的に堕胎させる。それでも間に合わない場合は、お腹を蹴る・叩くなどして早産をさせ、子どもを殺すそうだ。それでも生まれてしまった場合は、生きたまま犬のえさの箱の中に赤子を投げ捨てるということが行われていると報告されている。
国連のインタビューに答えたアン・ミンチョル女子によれば、看守たちは飢えた収容者を相手にサディスティックかつ性的な遊びをしていたそうだ。あるときは、第22政治犯収容所の国家安全保衛部担当官が椅子に座り、釣り竿に餌として豚脂をつけ、裸の女性収容者を犬のように食べ物めがけて飛びつかせたり這わせたりしたという。また、それで狂ってしまったり、騒ぎを起こしたりする女性は、すべて処刑されてしまったそうだ。
さて、女子大生が今どうなっているのかは、だいたいおわかりであろう。そして、今年1月16日に公開裁判にかけられた女子高生たちが、どうなっているか……。彼女たちの運命はそれこそ、神ではなく、北朝鮮の看守次第といえるのではないだろうか。
■なぜ若者ばかりが逮捕され、業者が摘発されない? 官憲の腐敗
さて、では北朝鮮において、なぜこのような事件が多発するのであろうか? これには理由がある。
「官憲たち自身が北朝鮮以外の情報や娯楽作品に飢えている」のだ。要するに、このようにして検挙し、そのうえで映画を押収すれば、その映画やドラマを「裁判資料」「捜査資料」として見ることができる。
日本でも同じで、裁判所事務官などは、「無修正ビデオ」や「エロビデオの複製」などの捜査の場合何万本と押収したビデオを見なければならない。はじめのうちは楽しくても、最後には嫌になるという話を私も聞いたことがある。
同様に、北朝鮮であっても押収したビデオは捜査関係者や裁判所なども、見ることが可能なのである。そのために、韓流ドラマやハリウッド映画を見たという事件の捜査は、多くの捜査員が喜んで引き受けるという。
中には「お前らのおかげでまた映画を見ることができる」などと語る捜査員もいるというのであるから、官憲の腐敗もひどいものである。
しかし、ただ映画を見たいだけならば、当然「違法輸入業者」を摘発すればよいはずなのだが、そのようなことは行われない。これはもちろん、彼らが役人に賄賂を払っているからであり、売人と、役人や官憲との間で持ちつ持たれつの関係ができあがってしまっているからである。よって、賄賂などをまったく払わない学生がターゲットになり、公開死刑や性的拷問を受けているのである。
(文=聖橋乱丸 これまでの記事はコチラ)
・強制収容所の様子
http://tocana.jp/2016/01/20160125_entry.html
なんで、朝鮮半島人ってこんな酷いことをするの?北朝鮮人だけでなく、南の朝鮮人である韓国人もベトナムで女性や子供に悪の限りを尽くした。
日本はこれからも、絶対に、朝鮮半島に支配されたらアカンな!!
2016.01.26
みなさんこんにちわ。陰謀社会学者の聖橋乱丸である。
2016年1月16日、北朝鮮の北部の都市恵山(ヘサン)で、男女16人の高校生が公開裁判にかけられた。罪状は「アメリカ映画を見た」というもの。要するに「資本主義の腐った思想にハマった」として断罪されたということだ。
■発覚すると公開死刑、それ以上の拷問も…! 多発する外国映画鑑賞
ただ、北朝鮮に詳しい人はそんなに驚かなかったのは、昨年4月にも「韓流ドラマを見た」ということで女子大生が複数名処罰され、「収容所による思想強制」の上「肉体奉仕」という刑が科せられたからである。
この時、女子大生が見たとされるのは「ツツジの花が咲くまでに」という名前の韓流ドラマで、脱北者の申英姫(シン・ヨンヒ)さんの手記を原作にした「喜び組」のドラマであった。そのため、女子大生は「北朝鮮を汚す韓国の陰謀に加担した」とみられ、重罪となったのだ。
この事件が大して国際的な問題に発展しなかった理由としては、北朝鮮の人民や脱北者が同情しなかったことが挙げられる。「北朝鮮や金正日・金正恩親子を侮辱したのだから仕方がない」という世論が圧倒的だったのだ。
一方、今回の高校生は、何の映画を見たかはわからないが、北朝鮮を風刺する映画ではないようである。要するにただ単にアメリカの映画を見ただけだったのだ。ゆえに同情の声が上がっている。そのため、「保安局(警察署)の予審を受ける」という決定がなされた。今後、この高校生たちは拷問を含めた取り調べがあり、そのうえで、刑が確定することになる。ではどのような刑になるのだろうか?
例えば、昨年の9月、男性ふたりが裏コンテンツでハリウッド映画を見ていたところを摘発された。このふたりは、「映画を見ていただけ」であるにもかかわらず、「公開死刑」となった。それに比べると、女子大生は「収容所」であるし、高校生は「保安局」である。だが、これは「学生」であることから刑を軽減されたのではなく「死刑に準じるひどい仕打ちが待っている」ということになるのだ。
人権団体アムネスティが発表した内容によれば、北朝鮮では「女性の人権が守られていない」うえ、「収容所や監獄などにおける女性の人権も全く守られない」そうだ。そして、国連の報告書によると「収容所の棟」によっては「若い女性を専門に強姦する看守や上級官僚」がいる棟もあるのだという。要するに、この女子高生は、収容所の中で刑務官や役人に犯され、弄ばれる可能性があるということになるのである。
様々なニュースサイトや、韓国の新聞、そして脱北者の証言などを合わせると、収容所の中では以下のようなことが行われるそうだ。
■1週間で発狂する、恐怖の性的拷問2つ
女性は、男性の看守が見守る中裸にさせられ、「身体検査」が行われる。裸になることをためらう女性に男性の看守数名が女性囚人に近寄り、強引に服をはぎ取るのである。その上、全裸にさせられると、すぐに女性は後ろ手に縛られ、全身を、何か隠していないかというところまですべて調べられる。
その後、監獄に入れられる。問題はそのあとだ。まずは、自白のために拷問を行う。拷問の種類はさまざまである。
・寝ることも立つこともできない箱の中に詰められ、放置される
・椅子に手足胴体をしばりつけられ、身動きができない状態で、空中に吊られて何日も放置される
などだが、特に若い女性に対しては、性的な拷問もしばしば行われている。その中で最も厳しいのが、強姦…、ではなく、「媚薬を局所に塗られ、手足を縛られて放置される」ものだという。
椅子に拘束され空中につられたまま、局所の疼きに耐えなければならないのは、女性にとってかなりの苦痛を伴う。この拷問を受けたものは、一週間もすると狂ってしまうという。狂う前に許された女性は、しばらくの間は、自慰に耽るか、自ら看守の相手になるのだそうだ。
看守は、美人の囚人が来ると、だいたいこの拷問を行うというのである。
もうひとつ、最も厳しい拷問があるという。
■最も厳しい拷問は「死者の箱」
それは、寝ることも立つこともできない箱の中に死体と一緒に入れられるという拷問だ。場合によっては、死にそうな友人や一緒に逮捕された囚人と二人で拘束されて箱の中に閉じ込められる。徐々に一緒に入っている囚人が弱ってゆき、死に至るのを、文字通り肌で感じながら、自分では何もできない状況で、身動きもできないまま、最終的には遺体と過ごさなければならない状況になるという。これもまた、頭が狂うほどの恐怖なのだそうだ。
さらに看守が、「あのようになりたくなければ、俺の愛人になれ」と強要するケースもある。このような状況では、当然、監獄内で妊娠し、子どもが生まれてしまう場合もある。「国連の人権委員会国連調査委員会報告」によると、その764項目以下にその内容が詳細に書かれている。その記述を参考にすると、妊娠が発覚した場合は、覚せい剤などを入れて強制的に堕胎させる。それでも間に合わない場合は、お腹を蹴る・叩くなどして早産をさせ、子どもを殺すそうだ。それでも生まれてしまった場合は、生きたまま犬のえさの箱の中に赤子を投げ捨てるということが行われていると報告されている。
国連のインタビューに答えたアン・ミンチョル女子によれば、看守たちは飢えた収容者を相手にサディスティックかつ性的な遊びをしていたそうだ。あるときは、第22政治犯収容所の国家安全保衛部担当官が椅子に座り、釣り竿に餌として豚脂をつけ、裸の女性収容者を犬のように食べ物めがけて飛びつかせたり這わせたりしたという。また、それで狂ってしまったり、騒ぎを起こしたりする女性は、すべて処刑されてしまったそうだ。
さて、女子大生が今どうなっているのかは、だいたいおわかりであろう。そして、今年1月16日に公開裁判にかけられた女子高生たちが、どうなっているか……。彼女たちの運命はそれこそ、神ではなく、北朝鮮の看守次第といえるのではないだろうか。
■なぜ若者ばかりが逮捕され、業者が摘発されない? 官憲の腐敗
さて、では北朝鮮において、なぜこのような事件が多発するのであろうか? これには理由がある。
「官憲たち自身が北朝鮮以外の情報や娯楽作品に飢えている」のだ。要するに、このようにして検挙し、そのうえで映画を押収すれば、その映画やドラマを「裁判資料」「捜査資料」として見ることができる。
日本でも同じで、裁判所事務官などは、「無修正ビデオ」や「エロビデオの複製」などの捜査の場合何万本と押収したビデオを見なければならない。はじめのうちは楽しくても、最後には嫌になるという話を私も聞いたことがある。
同様に、北朝鮮であっても押収したビデオは捜査関係者や裁判所なども、見ることが可能なのである。そのために、韓流ドラマやハリウッド映画を見たという事件の捜査は、多くの捜査員が喜んで引き受けるという。
中には「お前らのおかげでまた映画を見ることができる」などと語る捜査員もいるというのであるから、官憲の腐敗もひどいものである。
しかし、ただ映画を見たいだけならば、当然「違法輸入業者」を摘発すればよいはずなのだが、そのようなことは行われない。これはもちろん、彼らが役人に賄賂を払っているからであり、売人と、役人や官憲との間で持ちつ持たれつの関係ができあがってしまっているからである。よって、賄賂などをまったく払わない学生がターゲットになり、公開死刑や性的拷問を受けているのである。
(文=聖橋乱丸 これまでの記事はコチラ)
・強制収容所の様子
http://tocana.jp/2016/01/20160125_entry.html
なんで、朝鮮半島人ってこんな酷いことをするの?北朝鮮人だけでなく、南の朝鮮人である韓国人もベトナムで女性や子供に悪の限りを尽くした。
日本はこれからも、絶対に、朝鮮半島に支配されたらアカンな!!
北朝鮮は核兵器を小型化している。日本は笑って見過ごせるのか
北朝鮮は核兵器を小型化している。日本は笑って見過ごせるのか
2016年3月23日
「ハリボテ」「見世物」などとメディアでたびたび揶揄されている北朝鮮の弾道ミサイル。しかし、静岡県立大学グローバル地域センター特任助教の西恭之さんはメルマガ『NEWSを疑え!』で、「北朝鮮は核弾頭の小型化に成功している」という情報はおそらく事実であり、このことを軽視してはならないと強く呼びかけています。
北朝鮮は核兵器を小型化している
北朝鮮の金正恩第1書記は3月9日、「核融合反応を即発させることのできる核弾頭を小型化し、弾道ミサイルに合わせて標準化しており、これは真の核抑止力といってよい」と、国営メディアを通じて主張した。
9日付の朝鮮労働党機関紙・労働新聞は、金正恩氏が核兵器研究部門を現地指導したとして、核弾頭の模型のような物体や、米本土に届く射程を目指して開発中の移動式大陸間弾道ミサイル(ICBM)「KN08」の二つのタイプと撮影した写真を掲載した。朝鮮中央テレビは、日本に届く準中距離弾道ミサイル「ノドン」(ペイロード600キログラムの場合、射程1100キロ)の映像も放送した。
北朝鮮の主張に対し、韓国国防部は9日、「小型化された核弾頭とKN08の実戦能力は確保できていない」との見方を示した。
しかしながら、「核融合反応」と、ICBMの弾頭を保護するため必要なのに試射さえしていない再突入体はさておき、弾道ミサイルに合わせた核弾頭の小型化は実現していると考えたほうがよい。
米国や韓国の専門家の間では、北朝鮮に核弾頭をそれほど小型化する能力はないという見方も少なくない。この見方には、核兵器を新たに保有する国が製造する核爆発装置は、米国が長崎に投下した「ファットマン」(重量4.67トン、全長3.3メートル、直径1.5メートル)ほどの巨大なもので、それを徐々に小型化・兵器化していくものだ、という前提がある。
しかしながら、核技術が拡散するにつれて核兵器開発国が新たに保有(または設計)する核兵器は、最初の段階から過去のものより小型化している現実が見過ごされている。北朝鮮の核開発も、前提そのものを改めて検証する必要があるのだ。
次ページ>>どこの国が北朝鮮に核兵器の設計図を提供したのか?
各国の最初の核兵器の大きさは「ファットマン」程度という前提は、ソ連、英国、フランス、中国については正しかった。インドが1974年の核実験で用いた装置も、重量は1.4トン、直径は1.25メートルあった。南アフリカが1980年代に製造し、91年までに解体した広島型(砲身型)原爆6発も、大型で実戦能力は低かった。なお、イスラエルの初期の核兵器については、今も秘密が守られている。
この前提は、中国が1966年に準中距離弾道ミサイル「東風2号」に搭載して試射した核弾頭の設計を、80年代初めにパキスタンに提供したことによって崩れることになった。パキスタンは1998年、この設計を用いて核実験を行っている。
パキスタンの核兵器開発の責任者、アブドゥル・カディール・カーン博士が、東風2号の核弾頭の設計をリビアへ転売していたことは、リビアが核開発を中止し、2004年に文書・設備・物資を米国に引き渡したことによって判明した。カーン博士がリビアへ派遣したスイス人技術者フリードリヒ・ティナー氏は、直径60センチ、重量300キロ以下の核兵器の設計図も所持していた。
カーン博士のリビア、イランとの取引は私欲のためだったが、カーン博士はパキスタンの国策に沿って、ウラン濃縮技術を北朝鮮のノドン・ミサイルやミサイル製造技術と交換しており、核兵器の設計を北朝鮮に提供した可能性は否定できない。
それに、湾岸戦争前のイラクは重量900キロ、直径80センチの核兵器を独自に設計した。米政府は2003年にこの設計文書を発見し、06年にいったんウェブサイトで公開したものの、核拡散を助長するとして公開を中止した。
韓国の『月刊朝鮮』2005年8月号は、「北朝鮮はプルトニウム4キログラムを用いる重量1トンの核兵器を製造したが、開発した科学者は信頼性が低いとみており、重量500キロの核兵器を設計中である」という脱北者のインタビューを掲載した。この脱北者キム・イルド氏(仮名)は脱北時点で最高人民会議議員であり、核兵器と弾道ミサイルの生産を担当する第二経済委員会に勤務した経験があるという。
北朝鮮は2006年に最初の核実験を行う前、威力は4キロトンと予告したが、各国政府等による実際の威力の推定は1キロトン以下とするものが多く、その意味では実験は失敗した。しかし、北朝鮮は最初の核実験を重量1トンの装置で行い、その教訓をもとに重量500キロの核兵器を改良し、2009年の核実験を成功させた可能性があることを見逃してはならない。
(静岡県立大学グローバル地域センター特任助教・西恭之)
『NEWSを疑え!』より一部抜粋
著者/小川和久
地方新聞記者、週刊誌記者などを経て、日本初の軍事アナリストとして独立。国家安全保障に関する官邸機能強化会議議員、、内閣官房危機管理研究会主査などを歴任。一流ビジネスマンとして世界を相手に勝とうとすれば、メルマガが扱っている分野は外せない。
http://www.mag2.com/p/news/160470
笑って見過ごせるのか?北朝鮮は、日本に核を落とさないという「保証」など、どこにもないのに。
2016年3月23日
「ハリボテ」「見世物」などとメディアでたびたび揶揄されている北朝鮮の弾道ミサイル。しかし、静岡県立大学グローバル地域センター特任助教の西恭之さんはメルマガ『NEWSを疑え!』で、「北朝鮮は核弾頭の小型化に成功している」という情報はおそらく事実であり、このことを軽視してはならないと強く呼びかけています。
北朝鮮は核兵器を小型化している
北朝鮮の金正恩第1書記は3月9日、「核融合反応を即発させることのできる核弾頭を小型化し、弾道ミサイルに合わせて標準化しており、これは真の核抑止力といってよい」と、国営メディアを通じて主張した。
9日付の朝鮮労働党機関紙・労働新聞は、金正恩氏が核兵器研究部門を現地指導したとして、核弾頭の模型のような物体や、米本土に届く射程を目指して開発中の移動式大陸間弾道ミサイル(ICBM)「KN08」の二つのタイプと撮影した写真を掲載した。朝鮮中央テレビは、日本に届く準中距離弾道ミサイル「ノドン」(ペイロード600キログラムの場合、射程1100キロ)の映像も放送した。
北朝鮮の主張に対し、韓国国防部は9日、「小型化された核弾頭とKN08の実戦能力は確保できていない」との見方を示した。
しかしながら、「核融合反応」と、ICBMの弾頭を保護するため必要なのに試射さえしていない再突入体はさておき、弾道ミサイルに合わせた核弾頭の小型化は実現していると考えたほうがよい。
米国や韓国の専門家の間では、北朝鮮に核弾頭をそれほど小型化する能力はないという見方も少なくない。この見方には、核兵器を新たに保有する国が製造する核爆発装置は、米国が長崎に投下した「ファットマン」(重量4.67トン、全長3.3メートル、直径1.5メートル)ほどの巨大なもので、それを徐々に小型化・兵器化していくものだ、という前提がある。
しかしながら、核技術が拡散するにつれて核兵器開発国が新たに保有(または設計)する核兵器は、最初の段階から過去のものより小型化している現実が見過ごされている。北朝鮮の核開発も、前提そのものを改めて検証する必要があるのだ。
次ページ>>どこの国が北朝鮮に核兵器の設計図を提供したのか?
各国の最初の核兵器の大きさは「ファットマン」程度という前提は、ソ連、英国、フランス、中国については正しかった。インドが1974年の核実験で用いた装置も、重量は1.4トン、直径は1.25メートルあった。南アフリカが1980年代に製造し、91年までに解体した広島型(砲身型)原爆6発も、大型で実戦能力は低かった。なお、イスラエルの初期の核兵器については、今も秘密が守られている。
この前提は、中国が1966年に準中距離弾道ミサイル「東風2号」に搭載して試射した核弾頭の設計を、80年代初めにパキスタンに提供したことによって崩れることになった。パキスタンは1998年、この設計を用いて核実験を行っている。
パキスタンの核兵器開発の責任者、アブドゥル・カディール・カーン博士が、東風2号の核弾頭の設計をリビアへ転売していたことは、リビアが核開発を中止し、2004年に文書・設備・物資を米国に引き渡したことによって判明した。カーン博士がリビアへ派遣したスイス人技術者フリードリヒ・ティナー氏は、直径60センチ、重量300キロ以下の核兵器の設計図も所持していた。
カーン博士のリビア、イランとの取引は私欲のためだったが、カーン博士はパキスタンの国策に沿って、ウラン濃縮技術を北朝鮮のノドン・ミサイルやミサイル製造技術と交換しており、核兵器の設計を北朝鮮に提供した可能性は否定できない。
それに、湾岸戦争前のイラクは重量900キロ、直径80センチの核兵器を独自に設計した。米政府は2003年にこの設計文書を発見し、06年にいったんウェブサイトで公開したものの、核拡散を助長するとして公開を中止した。
韓国の『月刊朝鮮』2005年8月号は、「北朝鮮はプルトニウム4キログラムを用いる重量1トンの核兵器を製造したが、開発した科学者は信頼性が低いとみており、重量500キロの核兵器を設計中である」という脱北者のインタビューを掲載した。この脱北者キム・イルド氏(仮名)は脱北時点で最高人民会議議員であり、核兵器と弾道ミサイルの生産を担当する第二経済委員会に勤務した経験があるという。
北朝鮮は2006年に最初の核実験を行う前、威力は4キロトンと予告したが、各国政府等による実際の威力の推定は1キロトン以下とするものが多く、その意味では実験は失敗した。しかし、北朝鮮は最初の核実験を重量1トンの装置で行い、その教訓をもとに重量500キロの核兵器を改良し、2009年の核実験を成功させた可能性があることを見逃してはならない。
(静岡県立大学グローバル地域センター特任助教・西恭之)
『NEWSを疑え!』より一部抜粋
著者/小川和久
地方新聞記者、週刊誌記者などを経て、日本初の軍事アナリストとして独立。国家安全保障に関する官邸機能強化会議議員、、内閣官房危機管理研究会主査などを歴任。一流ビジネスマンとして世界を相手に勝とうとすれば、メルマガが扱っている分野は外せない。
http://www.mag2.com/p/news/160470
笑って見過ごせるのか?北朝鮮は、日本に核を落とさないという「保証」など、どこにもないのに。
なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?
昔の話です。
先生に対する態度も、他の生徒に対する態度も非常に悪く、一言で言えば悪い子だった高校生のA君。なぜか、弟と旅行に行くことになった時、ちゃんと親にお土産も買う良い子だったことが判明。
なんでも、親の躾が厳しく、家ではとてもお利口さんにしているとかで、学校で息抜きをしている口だったと判明した。ちょっと可哀そうだった。口も悪く乱暴な子が家では大人しい良い子だなんて、悲劇だ。本気で恐い親なんだろうと思った。
~~~~~~~~~~~
2015年11月2日(月)
なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?
親技のカガク【14】
PRESIDENT Online スペシャル
著者
千葉大学教育学部附属小学校教諭・松尾 英明=文
なぜ、家でダラダラする子は優秀なのか?
「子どもが自分の願う方向に育たない」
教育熱心な親ほど悩むことが多い。「何度も何度も言ってきかせてるのに……」と。しかし、現役小学校教師の筆者はこうした親の考え方の前提である、「ウチの子は、言えば分かる・変われる」に実は根本的な間違いがあると語る。
「何度言っても、(自ら)変わらないものは変わらない」
子どもであっても、自分とは異なる存在。「他人と過去」を変えることはできない。といっても、親としての責任を放棄するわけではない。「力ずく」を脱することが子育ての原点だというのだ。
では、具体的にはどう子どもと接すればいいのか。キーポイントは子どもは「思い通りにならなくて当たり前」という気持ちで接することだ。前回に引き続き、筆者が提案する3つのアイデアとは。
(1)家で「ガス抜き」させ、心身を回復させる
親の言うことをよく聞き、素直に「はい」と答え、何でも真面目にやり、親の望むように育った子どもが実在します。当然、社会に出てもうまくやっていくはず。
と、考えたくなりますが、そううまくはいかないものです。相手は子どもである以前に、人間です。バランスというものがあります。
私の経験上言えるのは、学校で、成績だけでなく人格的な面も含めて「本当に素晴らしい」と賞されるような子どもは、実は家庭でダラダラしていることが多いということです。
家庭訪問や面談で担任がその子どもを褒めると「信じられない。家ではひどいんですよ!?」と愚痴を聞かされることもしばしばあります。
健全な子どもほど、実は家で「ガス抜き」をしているのです。子どもは本来自由で制約のない存在なのだから、ルールの多い社会では「不自然」の状態を求められることになります。誤解を怖れないで言えば、教育とは「自然のままにしておかない」ことです。教育の効果がよく現れる子どもほど矯正されるわけですから、より多くの負荷がかかります。その分、回復が絶対に必要です。
その回復の場が、家庭です。親には回復させる重要な役割があるのです。だから、当然(と言っては申し訳ないが)子どもが親の言うことを聞かない事態も起きます。これも、文字通り「家庭」が「安心のホームベース」という証拠です。
次のページなぜ、抱っこされる小学生は自立するか?
なぜ、抱っこされる小学生は自立するか?
一方、家庭内で親の思う通りの従順な子どもはどうでしょう。
一概には言えないかもしれませんが、これは危険な兆候といえるかもしれません。家の中でダラダラできない。そんな子は「お前は言うことを聞かないダメな子ども」という烙印を押されるのが怖いのです。だから「あなたに期待しているのよ」というプレッシャーに対し、ぴしっとします(もしくは、その振りをします)。実は彼らは、親が自分の思い通りになることを期待しているのを見抜いているのです。
そこで、ガス抜きをどこでしているかというと、外の社会です。家庭では真面目な子どもが「なぜ!?」と思うような危ないところに出入りするのも、ここに当てはまります。
ガス抜きが、学校でのいじめという行為で表出することもしばしばあります。
「厳しすぎる家庭」や「過度の競争社会」の生む「一見言うことをよく聞く子ども」「一生懸命やる子ども」の起こす弊害です。そう考えると、必ずしも親の言うことを聞かない、少しダラダラしているというのも、成長の過程において意味があるといえます。
「そんなものだ」と思って、ゆったりと構えたいところです。
(2)「抱っこ」で愛情チャージ。それが子の自立につながる
子ども自身にも、Iメッセージ(僕・私は~~だ、という発信)があります。読者のご家庭のお子さんは「こうしたい」という思いを表現できているでしょうか。自分を抑圧して思いを伝えられない子どもは苦しんでいます。
そこの判断基準となるのが「抱っこして」と言えるかどうかです(小学校中学年以降でも)。
突然、親の膝の上に寝転がってくるようならそれも同じことです。「抱っこして」は、甘えている証拠です。親に受け容れてもらえるという安心感を持ち、素の自分をさらけ出せている証拠です。
ここは、可能な限り十分に甘えさせてあげましょう。十分に甘えさせてもらった子どもは、エネルギーを蓄え、外の社会へ出て自立します。
これが出せない子どもは、危ないことがあります。本当に必要な要求が出せないということです。赤ん坊に例えるなら、お腹が空いているのに泣かないのと同じです。だから「抱っこして」と言ってきたらまずは、ひと安心。十分に甘えさせてあげます。
ちなみに、「甘やかす」のとは訳が違います。
これは例えば、買い物で欲しいものをねだって、だだをこねるので仕方なく買ってあげるような行為です。別の例でいえば、歩くのが疲れるからというだけの理由で、子どもを学校まで送迎してあげるような行為です。
見分け方は簡単で、それで将来子どもが幸せになるか不幸になるか考えるだけです。
甘えさせれば、人にも優しくなるなど人格が安定し、将来的に幸せになります。
甘やかせば、自分勝手のわがままになって、将来的に不幸になります。
「抱っこして」は決してわがままではありません。愛情エネルギーチャージの要求です。どんなに忙しい中であっても、たとえ数秒でもいいから、「抱っこタイム」を意図的に設けて、親子で心身をゆったりと回復させましょう。
次のページ中高生の子どもをぎゅっとハグする!
中高生の子どもをぎゅっとハグする!
(3)中高生でも「大好きだよ」とぎゅっと抱きしめる
親の側にも絶対必要なIメッセージがあります。それが「大好きだよ」です。先の「抱っこ」と合わせて、ぎゅっと抱きしめて言えたら、効果倍増です。真面目にやるのが照れくさいなら、ちょっとふざけながらでもいいです。
幼児や小学生だけでなく、中学生でも、何なら高校生でもやるとよいでしょう。「気持ち悪いなぁ!」とか言いながら、内心喜んでいるものです(ただし抱きしめるのは、特に母親向きの手法です。思春期の娘に父親がやるのは本気で嫌がられる可能性があるので、実施の際は関係性を考慮した上での自己責任でお願いします)。
親に大好きと言われて、嫌なはずがありません。
ただ、注意点が1つあります。「大好き」が無条件であることです。「○○するから大好き」ではダメです(それを「条件付き肯定」という)。存在そのものを無条件で全肯定します。何はなくともあなたが大切というメッセージを伝えます。それが、子どもにとって、何よりも強力な心の支えになります。
中高生にもなれば、塾に部活にと忙しくなり、子どもが家にいる時間は急激に減ります。我が家がリラックスの場でなくなれば、寄りつかなくなります。代わりに外の刺激を求めて、外泊するようにもなるかもしれません。温かく、ゆったりとした空気が流れる我が家、自分を受け容れてくれる我が家であれば、自然に帰ってきたくなります。
別の事情として、例えば母子家庭で親が夜勤をしている場合、家に誰もいない場合があります。私自身が、そうでした。
しかし、親に愛されている感覚があれば、誰もいなくとも、安心する我が家に帰るものです。そのためには、言葉やスキンシップなどの具体的な形で伝える必要があります。親子間といえど、「以心伝心」とはいかないもので、努力が必要です。
その空気を演出するためのキーワードが「大好きだよ」です。親に心から愛されている感覚は、健全な自尊心を生み出します。これは、他の何を差し置いても最も大切です。
以上、子どもへの接し方をお伝えしました。
要は、「建前でなく、本音を伝える」という1点に尽きます。俗っぽいかもしれませんが、やはり伝えるべくは「愛している」ということなのです。
愛しているなら、思いは伝えても思い通りにしようとしない。愛しているなら、甘えさせても甘やかさない。
思い通りに動かすことも相手の要求通りに甘やかすことも、バランスの悪い両極端の行為であるとわかります。まずは本気・本音をきちんと伝えて、子どもの反応や変化についてはゆったりと楽しんで見守っていきたいものです。
http://president.jp/articles/-/16508
先生に対する態度も、他の生徒に対する態度も非常に悪く、一言で言えば悪い子だった高校生のA君。なぜか、弟と旅行に行くことになった時、ちゃんと親にお土産も買う良い子だったことが判明。
なんでも、親の躾が厳しく、家ではとてもお利口さんにしているとかで、学校で息抜きをしている口だったと判明した。ちょっと可哀そうだった。口も悪く乱暴な子が家では大人しい良い子だなんて、悲劇だ。本気で恐い親なんだろうと思った。
~~~~~~~~~~~
2015年11月2日(月)
なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?
親技のカガク【14】
PRESIDENT Online スペシャル
著者
千葉大学教育学部附属小学校教諭・松尾 英明=文
なぜ、家でダラダラする子は優秀なのか?
「子どもが自分の願う方向に育たない」
教育熱心な親ほど悩むことが多い。「何度も何度も言ってきかせてるのに……」と。しかし、現役小学校教師の筆者はこうした親の考え方の前提である、「ウチの子は、言えば分かる・変われる」に実は根本的な間違いがあると語る。
「何度言っても、(自ら)変わらないものは変わらない」
子どもであっても、自分とは異なる存在。「他人と過去」を変えることはできない。といっても、親としての責任を放棄するわけではない。「力ずく」を脱することが子育ての原点だというのだ。
では、具体的にはどう子どもと接すればいいのか。キーポイントは子どもは「思い通りにならなくて当たり前」という気持ちで接することだ。前回に引き続き、筆者が提案する3つのアイデアとは。
(1)家で「ガス抜き」させ、心身を回復させる
親の言うことをよく聞き、素直に「はい」と答え、何でも真面目にやり、親の望むように育った子どもが実在します。当然、社会に出てもうまくやっていくはず。
と、考えたくなりますが、そううまくはいかないものです。相手は子どもである以前に、人間です。バランスというものがあります。
私の経験上言えるのは、学校で、成績だけでなく人格的な面も含めて「本当に素晴らしい」と賞されるような子どもは、実は家庭でダラダラしていることが多いということです。
家庭訪問や面談で担任がその子どもを褒めると「信じられない。家ではひどいんですよ!?」と愚痴を聞かされることもしばしばあります。
健全な子どもほど、実は家で「ガス抜き」をしているのです。子どもは本来自由で制約のない存在なのだから、ルールの多い社会では「不自然」の状態を求められることになります。誤解を怖れないで言えば、教育とは「自然のままにしておかない」ことです。教育の効果がよく現れる子どもほど矯正されるわけですから、より多くの負荷がかかります。その分、回復が絶対に必要です。
その回復の場が、家庭です。親には回復させる重要な役割があるのです。だから、当然(と言っては申し訳ないが)子どもが親の言うことを聞かない事態も起きます。これも、文字通り「家庭」が「安心のホームベース」という証拠です。
次のページなぜ、抱っこされる小学生は自立するか?
なぜ、抱っこされる小学生は自立するか?
一方、家庭内で親の思う通りの従順な子どもはどうでしょう。
一概には言えないかもしれませんが、これは危険な兆候といえるかもしれません。家の中でダラダラできない。そんな子は「お前は言うことを聞かないダメな子ども」という烙印を押されるのが怖いのです。だから「あなたに期待しているのよ」というプレッシャーに対し、ぴしっとします(もしくは、その振りをします)。実は彼らは、親が自分の思い通りになることを期待しているのを見抜いているのです。
そこで、ガス抜きをどこでしているかというと、外の社会です。家庭では真面目な子どもが「なぜ!?」と思うような危ないところに出入りするのも、ここに当てはまります。
ガス抜きが、学校でのいじめという行為で表出することもしばしばあります。
「厳しすぎる家庭」や「過度の競争社会」の生む「一見言うことをよく聞く子ども」「一生懸命やる子ども」の起こす弊害です。そう考えると、必ずしも親の言うことを聞かない、少しダラダラしているというのも、成長の過程において意味があるといえます。
「そんなものだ」と思って、ゆったりと構えたいところです。
(2)「抱っこ」で愛情チャージ。それが子の自立につながる
子ども自身にも、Iメッセージ(僕・私は~~だ、という発信)があります。読者のご家庭のお子さんは「こうしたい」という思いを表現できているでしょうか。自分を抑圧して思いを伝えられない子どもは苦しんでいます。
そこの判断基準となるのが「抱っこして」と言えるかどうかです(小学校中学年以降でも)。
突然、親の膝の上に寝転がってくるようならそれも同じことです。「抱っこして」は、甘えている証拠です。親に受け容れてもらえるという安心感を持ち、素の自分をさらけ出せている証拠です。
ここは、可能な限り十分に甘えさせてあげましょう。十分に甘えさせてもらった子どもは、エネルギーを蓄え、外の社会へ出て自立します。
これが出せない子どもは、危ないことがあります。本当に必要な要求が出せないということです。赤ん坊に例えるなら、お腹が空いているのに泣かないのと同じです。だから「抱っこして」と言ってきたらまずは、ひと安心。十分に甘えさせてあげます。
ちなみに、「甘やかす」のとは訳が違います。
これは例えば、買い物で欲しいものをねだって、だだをこねるので仕方なく買ってあげるような行為です。別の例でいえば、歩くのが疲れるからというだけの理由で、子どもを学校まで送迎してあげるような行為です。
見分け方は簡単で、それで将来子どもが幸せになるか不幸になるか考えるだけです。
甘えさせれば、人にも優しくなるなど人格が安定し、将来的に幸せになります。
甘やかせば、自分勝手のわがままになって、将来的に不幸になります。
「抱っこして」は決してわがままではありません。愛情エネルギーチャージの要求です。どんなに忙しい中であっても、たとえ数秒でもいいから、「抱っこタイム」を意図的に設けて、親子で心身をゆったりと回復させましょう。
次のページ中高生の子どもをぎゅっとハグする!
中高生の子どもをぎゅっとハグする!
(3)中高生でも「大好きだよ」とぎゅっと抱きしめる
親の側にも絶対必要なIメッセージがあります。それが「大好きだよ」です。先の「抱っこ」と合わせて、ぎゅっと抱きしめて言えたら、効果倍増です。真面目にやるのが照れくさいなら、ちょっとふざけながらでもいいです。
幼児や小学生だけでなく、中学生でも、何なら高校生でもやるとよいでしょう。「気持ち悪いなぁ!」とか言いながら、内心喜んでいるものです(ただし抱きしめるのは、特に母親向きの手法です。思春期の娘に父親がやるのは本気で嫌がられる可能性があるので、実施の際は関係性を考慮した上での自己責任でお願いします)。
親に大好きと言われて、嫌なはずがありません。
ただ、注意点が1つあります。「大好き」が無条件であることです。「○○するから大好き」ではダメです(それを「条件付き肯定」という)。存在そのものを無条件で全肯定します。何はなくともあなたが大切というメッセージを伝えます。それが、子どもにとって、何よりも強力な心の支えになります。
中高生にもなれば、塾に部活にと忙しくなり、子どもが家にいる時間は急激に減ります。我が家がリラックスの場でなくなれば、寄りつかなくなります。代わりに外の刺激を求めて、外泊するようにもなるかもしれません。温かく、ゆったりとした空気が流れる我が家、自分を受け容れてくれる我が家であれば、自然に帰ってきたくなります。
別の事情として、例えば母子家庭で親が夜勤をしている場合、家に誰もいない場合があります。私自身が、そうでした。
しかし、親に愛されている感覚があれば、誰もいなくとも、安心する我が家に帰るものです。そのためには、言葉やスキンシップなどの具体的な形で伝える必要があります。親子間といえど、「以心伝心」とはいかないもので、努力が必要です。
その空気を演出するためのキーワードが「大好きだよ」です。親に心から愛されている感覚は、健全な自尊心を生み出します。これは、他の何を差し置いても最も大切です。
以上、子どもへの接し方をお伝えしました。
要は、「建前でなく、本音を伝える」という1点に尽きます。俗っぽいかもしれませんが、やはり伝えるべくは「愛している」ということなのです。
愛しているなら、思いは伝えても思い通りにしようとしない。愛しているなら、甘えさせても甘やかさない。
思い通りに動かすことも相手の要求通りに甘やかすことも、バランスの悪い両極端の行為であるとわかります。まずは本気・本音をきちんと伝えて、子どもの反応や変化についてはゆったりと楽しんで見守っていきたいものです。
http://president.jp/articles/-/16508
愛すると言いながら悪口書いてんじゃないよ。ー中国や朝鮮のことまでも持ち出して 日本を批判する筆者
留学生が愛した国・日本―スリランカ留学生の日本体験記 単行本 – 2002/5
J.A.T.D.にしゃんた (著
5つ星のうち3.0
外国人差別を書いているが
投稿者el siglo XXI2010年6月11日
外国人が差別されるのは、世界中のどの国でも、当たり前の現象だ。
私も海外に14年いた。政府への提言もあるが、そんなことよりも、日本で留学生として体験したことを小説にした方がよい。
これをやっているのが芥川賞作家の楊逸。彼女の書くものは、日本にいる留学生を主人公にしたものばかり。
本書は「である体」のなかに「ですます体」も混在している。文章をもう少し推考してほしかった。
私と面識のある田中宏先生(岩波新書『在日外国人』の著者)のことが出てきてなつかしかった。
5つ星のうち1.0
スリランカは親日なんだけどな
投稿者むさし2004年11月2日
形式: 単行本
自分は日本を愛していると語りながら
いかに人種差別を受けたか
いかに日本は閉鎖的であるか
朝鮮や中国にいかに日本が悪いことをしてきたか
そういった話を交えながら書き進めていきます。
彼の思想は国境を取っ払い日本国外の人達が
もっと自由に日本に行き来できるようになってほしいというものです。
ちなみにスリランカは、私は生活したことがあるのですが
世界有数の極めて親日な国です。
米国に滅茶苦茶に叩きのめされながらも戦後瞬く間に建て直し
今はかなりの額のODAをスリランカに支援し
学校、病院、図書館、道路などのインフラを建ててくれながら
政治的には何一つプレッシャーを掛けない日本に感謝している人が多いのです。
終戦後、サンフランシスコ講和会議では日本に賠償を求めず
分割統治を主張するソ連を真っ向から反対したスリランカ。
イギリスの植民地統治を批判したスリランカ。
実は有色人種の日本が英国と戦った雄姿に勇気づけられ
戦前からスリランカには親日の人たちが多いのです。
サンフランシスコ平和会議でのJRジャヤワルデネ代表演説
[・・・]
そのことを知っている私は、中国や朝鮮のことまでも持ち出して
日本を批判する筆者にはガッカリしました。
彼が師事した教員が田中宏という札付きの親北朝鮮の人物で
彼の影響を受けた結果、利用されているのでしょう。
また、国境を取り払いという思想も田中宏氏の影響の可能性が高いでしょう。
僕はこの思想にも反対の立場です。
国民の貧富の差、社会保障の充実、治安の確保、日本の国柄の継続
を考えれば無理があり過ぎるからです。
それらを無視して、米国のように、病気になっても金がなければ病院にも行けない
シンガポールのフィリピン人のメイドのように、安い賃金で雇え、妊娠すれば国外追放
という非人道的なことが許されるなら別ですが、このようなことを
僕を含め、多くの日本国民は許さないでしょう。
この書を書いてから長い月日が流れていますが
改心されていることを望みます。
本来スリランカは北朝鮮、韓国、中国のような
日本を罵倒して支援を取り付けるような低俗国家ではなく
誇り高い国なのですから
PS: にしゃんた氏はどうやら今も理不尽な日本批判をやっているようです。
そのくせ、スリランカ批判の一切を許さない。「そんなこと言うけど、スリランカでは民族対立、宗教対立が激しいよ。
スリランカでは外国人は不動産も買えないよ。スリランカでは詐欺師が寄って来るよ。」みたいなことを彼のブログに書くと
即削除するようです。日本在住の反日外国人の団体にも名を連ねているそうです。
一件、日本文化を理解しているようで、反日活動をする外国人には要注意すべきです。
世界には、井戸が見つかれば共有するのではなくそれを守るために殺しあうという国もあるのですから
日本しか知らない平和でノホホーンと生活していると日本人はころりと騙されます。
スリランカはアジアの中でかなり好きな国ですが
正直申し上げまして、日本人がスリランカで日本のようにノホホーンと暮らしていると
絶対に身ぐるみはがされて一文無しになります。
そういったことを理解しながら楽しむのがスリランカ。
だから、にしゃんたにも、おかしなところに気付けるのです。
僕の言ってることが本当かどうか確かめたかったらスリランカへの旅行をお勧めします。
特にシギリアなんていいですよ。
5つ星のうち1.0
イロイロと面白いお方ですな!
投稿者amazonカスタマー2016年3月7日
形式: 単行本
本の中では日本で差別を受けたとか日本は閉鎖的で差別国だとか前の職場で酷いイジメにあったとか色々と。
日本政府に対しては批判提言要望をタラタラと。はいはい、お好きなように。
スリランカのジャヤワルダナ大統領は終戦時に日本を助けたとか-------でもそれはインドも助けてくれましたけどね。
でもインド人はそんなことを言いませんね、インド人もビックリ!
そして、それにはちゃんとした伏線があったんですけどね。まあこの辺は私もまだ生まれていない時のことですしこのくらいに。あ、以前にむさしさんというレビュアーの方が書いておられたのですが大アマゾン様に部分削除されたようです。にしゃんた氏の要請ですかな?感心しませんな。他の記事のレビュアーさんも勝手に削除されたと怒ってました。
決してお世辞ではなく、お上手言うわけでもありませんが、文章も外国人にしても上手いとは思わないし、皆さん褒めるほどの日本に関する知識でもないと思いますがな。今どき、知日外国人はイッパイいますからな。
あれ、君ぃ日本を愛してる~と言ってたんじゃ?
というわけで、変なオヤジだな、ひょっとして二枚舌?と思って彼のブログを見ると-------フムフム、
はい、ヤッパリ日本の非難、悪口でいっぱいです、そしてサッサと棄てた祖国スリランカの大讃美の連続ですわ
日本で地位とカネを得た途端に変わり身の早いこと、カメレオンさんも忍者もビックリですわ
おまけにちゃっかり自分の出すスリランカ本のCMを何ヶ月も延々とシツコくPR、奥さんもこのシツコさで?
タレントのフィフィさんなど、日本に厳しい批判、要望を言われますがそれとは全く違うものです。フィフィさんは日本のためを思って言ってくれてるという愛情が分かるのですが、このしにゃんた氏のは日本に対する悪意、憎しみのようなものを感じるんですわ。一度、同氏のブログの琴奨菊関の優勝の記事とか「「良い日本人」と「悪い非日本人」という常識について考える」とかの記事を読んでください。分かっていただけると。
前の職場で酷いイジメを受けた-------ってそりゃこんな性格ですからねえ。喧嘩両成敗、双方の言い分を聞かないとね。イジメを受けるのはやはり受けるなりの理由があるんじゃ?
勝手な時は日本人、またある時はスリランカ人だと-----やっぱりカメレオンさんか怪人二十面相じゃ?そりゃイジメも受けますわ。
セイロンでトヨタ?の日本車を見て豊かな日本に憧れて日本にやって来た-----って言ってます。
え、前には確か日本の武道に憧れてと言ってましたがね-------
知る人ぞ知る、スリランカって多数派シンハラ族が少数派タミル族をイジメ倒す酷い人種差別らしい、そのおかげでずっと長い間、最近までタミル族主導の内戦が続いていました。外国人には不動産を売らないし、ムスリムにも差別する-----これで日本は差別国だと------二枚あっても足らんようですな
そりゃ前の職場でイジメられるでしょうな。
でも、長生きしますね、この人。「人に厳しく、自分に甘く」これ、長生きの秘訣ですね、ハイ。
にしゃんた氏に関する2チャンを見てみたら-----そりゃそうですわな、彼への非難、批判でイッパイですわ。中には「みんなで奴の大学に抗議書を送りつけてやろう!」とか「奴のブログに抗議のコメントを書きこもう!」「文科省にメールしよう!」だとか書いておられます。
読者の皆さんがこうですからそりゃ一緒にいた前の職場の人は---------
ヤフーニュースとかハフィントンポスト(アカヒ新聞系ですわ)にも日本の悪口をイッパイ書いてます。
ヤフーで月間MVA?を受けたとか言って喜んでます。単純なオッサンですわ、腹は黒い陰険だけど。「京都の長屋に住んで普通のオッチャンになりたい」と、御宣いのようですが。京都に住んでるのは確かですが後はどうだか----?どうやら普通のオッチャンではないのは確定ですな。
そりゃ前の職場の人に虐められたというのも--------
それにこのオヤッさん、ブログのエントリーを勝手に削除したり改竄するらしいですわ。一般人のコメントじゃあるまいし。地位あるんだから断りくらい入れろよ。大学のセンセイが改竄って?オボカタさんじゃあるまいし!
佐村河内→オボカタ→サノケン→にしゃんた??
そりゃ前の職場の方も辛抱の尾が---------
以前、またまた面白いことを書いておられるとの連絡を頂いたので見てみると--------
「安倍首相に教えたい! スリランカは日本のお手本である!」だって(爆)
へえへえ、なんとでも。
去年の9月にエントリーされてましたがいつの間にか幽霊のごとく消え去ってましたわ!また十八番の無断削除ですかな?他人は消せないし-----
周りに言われたんですかな、それともブログ炎上?それはそれで儲かったりして!炎上商法!?
そういえばこのお方、「献血をしました!」と何度も書いていますが、「寄付をしました!」って聞いたことがありませんな(笑) そう言うときっと「寄付をしたけど黙ってるんだ、これが日本式の陰徳だ!」と言われるんでしょうな。
これがこのセイロンのお方の「正論」だったりしてだとか「ジャヤワルダナ大統領どころじゃない「君は「じゃあワルだな!」」なんて言った日にはエラいことですよ、アントニオ猪木議員みたいに噛みつかれますよ。え、どんな話か?
はい、アントニオ猪木氏がスリランカ訪問後に、悪口でなくスリランカのネタで駄洒落を言ったのを「祖国スリランカを侮辱した!」と大変な剣幕で御噛みつきになられたと。殿、ご乱心!
「アントニオ猪木が-------という噂が流れているが------」とヤリはりましたわ。呼び捨て!でね。氏くらいつけろよ、もう国会議員のセンセイだよ!偏差値30台のガッコでもあんたも曲がりなりにも一応「大学のセンセイ」なんでしょ?火病?それとも狂犬病?いっぺん病院行く?
おまけにこの時のお題目が「アントニオ猪木に喝!」だって!怖~、笑~!
そのアントンちゃんの駄洒落です、「バクチをせずに良かった、カネはスリランカ」
ってただこれだけですよ。どっかスリランカを侮辱してます?
そりゃ前の職場でイロイロと---------お後がよろしいようで!
J.A.T.D.にしゃんた (著
5つ星のうち3.0
外国人差別を書いているが
投稿者el siglo XXI2010年6月11日
外国人が差別されるのは、世界中のどの国でも、当たり前の現象だ。
私も海外に14年いた。政府への提言もあるが、そんなことよりも、日本で留学生として体験したことを小説にした方がよい。
これをやっているのが芥川賞作家の楊逸。彼女の書くものは、日本にいる留学生を主人公にしたものばかり。
本書は「である体」のなかに「ですます体」も混在している。文章をもう少し推考してほしかった。
私と面識のある田中宏先生(岩波新書『在日外国人』の著者)のことが出てきてなつかしかった。
5つ星のうち1.0
スリランカは親日なんだけどな
投稿者むさし2004年11月2日
形式: 単行本
自分は日本を愛していると語りながら
いかに人種差別を受けたか
いかに日本は閉鎖的であるか
朝鮮や中国にいかに日本が悪いことをしてきたか
そういった話を交えながら書き進めていきます。
彼の思想は国境を取っ払い日本国外の人達が
もっと自由に日本に行き来できるようになってほしいというものです。
ちなみにスリランカは、私は生活したことがあるのですが
世界有数の極めて親日な国です。
米国に滅茶苦茶に叩きのめされながらも戦後瞬く間に建て直し
今はかなりの額のODAをスリランカに支援し
学校、病院、図書館、道路などのインフラを建ててくれながら
政治的には何一つプレッシャーを掛けない日本に感謝している人が多いのです。
終戦後、サンフランシスコ講和会議では日本に賠償を求めず
分割統治を主張するソ連を真っ向から反対したスリランカ。
イギリスの植民地統治を批判したスリランカ。
実は有色人種の日本が英国と戦った雄姿に勇気づけられ
戦前からスリランカには親日の人たちが多いのです。
サンフランシスコ平和会議でのJRジャヤワルデネ代表演説
[・・・]
そのことを知っている私は、中国や朝鮮のことまでも持ち出して
日本を批判する筆者にはガッカリしました。
彼が師事した教員が田中宏という札付きの親北朝鮮の人物で
彼の影響を受けた結果、利用されているのでしょう。
また、国境を取り払いという思想も田中宏氏の影響の可能性が高いでしょう。
僕はこの思想にも反対の立場です。
国民の貧富の差、社会保障の充実、治安の確保、日本の国柄の継続
を考えれば無理があり過ぎるからです。
それらを無視して、米国のように、病気になっても金がなければ病院にも行けない
シンガポールのフィリピン人のメイドのように、安い賃金で雇え、妊娠すれば国外追放
という非人道的なことが許されるなら別ですが、このようなことを
僕を含め、多くの日本国民は許さないでしょう。
この書を書いてから長い月日が流れていますが
改心されていることを望みます。
本来スリランカは北朝鮮、韓国、中国のような
日本を罵倒して支援を取り付けるような低俗国家ではなく
誇り高い国なのですから
PS: にしゃんた氏はどうやら今も理不尽な日本批判をやっているようです。
そのくせ、スリランカ批判の一切を許さない。「そんなこと言うけど、スリランカでは民族対立、宗教対立が激しいよ。
スリランカでは外国人は不動産も買えないよ。スリランカでは詐欺師が寄って来るよ。」みたいなことを彼のブログに書くと
即削除するようです。日本在住の反日外国人の団体にも名を連ねているそうです。
一件、日本文化を理解しているようで、反日活動をする外国人には要注意すべきです。
世界には、井戸が見つかれば共有するのではなくそれを守るために殺しあうという国もあるのですから
日本しか知らない平和でノホホーンと生活していると日本人はころりと騙されます。
スリランカはアジアの中でかなり好きな国ですが
正直申し上げまして、日本人がスリランカで日本のようにノホホーンと暮らしていると
絶対に身ぐるみはがされて一文無しになります。
そういったことを理解しながら楽しむのがスリランカ。
だから、にしゃんたにも、おかしなところに気付けるのです。
僕の言ってることが本当かどうか確かめたかったらスリランカへの旅行をお勧めします。
特にシギリアなんていいですよ。
5つ星のうち1.0
イロイロと面白いお方ですな!
投稿者amazonカスタマー2016年3月7日
形式: 単行本
本の中では日本で差別を受けたとか日本は閉鎖的で差別国だとか前の職場で酷いイジメにあったとか色々と。
日本政府に対しては批判提言要望をタラタラと。はいはい、お好きなように。
スリランカのジャヤワルダナ大統領は終戦時に日本を助けたとか-------でもそれはインドも助けてくれましたけどね。
でもインド人はそんなことを言いませんね、インド人もビックリ!
そして、それにはちゃんとした伏線があったんですけどね。まあこの辺は私もまだ生まれていない時のことですしこのくらいに。あ、以前にむさしさんというレビュアーの方が書いておられたのですが大アマゾン様に部分削除されたようです。にしゃんた氏の要請ですかな?感心しませんな。他の記事のレビュアーさんも勝手に削除されたと怒ってました。
決してお世辞ではなく、お上手言うわけでもありませんが、文章も外国人にしても上手いとは思わないし、皆さん褒めるほどの日本に関する知識でもないと思いますがな。今どき、知日外国人はイッパイいますからな。
あれ、君ぃ日本を愛してる~と言ってたんじゃ?
というわけで、変なオヤジだな、ひょっとして二枚舌?と思って彼のブログを見ると-------フムフム、
はい、ヤッパリ日本の非難、悪口でいっぱいです、そしてサッサと棄てた祖国スリランカの大讃美の連続ですわ
日本で地位とカネを得た途端に変わり身の早いこと、カメレオンさんも忍者もビックリですわ
おまけにちゃっかり自分の出すスリランカ本のCMを何ヶ月も延々とシツコくPR、奥さんもこのシツコさで?
タレントのフィフィさんなど、日本に厳しい批判、要望を言われますがそれとは全く違うものです。フィフィさんは日本のためを思って言ってくれてるという愛情が分かるのですが、このしにゃんた氏のは日本に対する悪意、憎しみのようなものを感じるんですわ。一度、同氏のブログの琴奨菊関の優勝の記事とか「「良い日本人」と「悪い非日本人」という常識について考える」とかの記事を読んでください。分かっていただけると。
前の職場で酷いイジメを受けた-------ってそりゃこんな性格ですからねえ。喧嘩両成敗、双方の言い分を聞かないとね。イジメを受けるのはやはり受けるなりの理由があるんじゃ?
勝手な時は日本人、またある時はスリランカ人だと-----やっぱりカメレオンさんか怪人二十面相じゃ?そりゃイジメも受けますわ。
セイロンでトヨタ?の日本車を見て豊かな日本に憧れて日本にやって来た-----って言ってます。
え、前には確か日本の武道に憧れてと言ってましたがね-------
知る人ぞ知る、スリランカって多数派シンハラ族が少数派タミル族をイジメ倒す酷い人種差別らしい、そのおかげでずっと長い間、最近までタミル族主導の内戦が続いていました。外国人には不動産を売らないし、ムスリムにも差別する-----これで日本は差別国だと------二枚あっても足らんようですな
そりゃ前の職場でイジメられるでしょうな。
でも、長生きしますね、この人。「人に厳しく、自分に甘く」これ、長生きの秘訣ですね、ハイ。
にしゃんた氏に関する2チャンを見てみたら-----そりゃそうですわな、彼への非難、批判でイッパイですわ。中には「みんなで奴の大学に抗議書を送りつけてやろう!」とか「奴のブログに抗議のコメントを書きこもう!」「文科省にメールしよう!」だとか書いておられます。
読者の皆さんがこうですからそりゃ一緒にいた前の職場の人は---------
ヤフーニュースとかハフィントンポスト(アカヒ新聞系ですわ)にも日本の悪口をイッパイ書いてます。
ヤフーで月間MVA?を受けたとか言って喜んでます。単純なオッサンですわ、腹は黒い陰険だけど。「京都の長屋に住んで普通のオッチャンになりたい」と、御宣いのようですが。京都に住んでるのは確かですが後はどうだか----?どうやら普通のオッチャンではないのは確定ですな。
そりゃ前の職場の人に虐められたというのも--------
それにこのオヤッさん、ブログのエントリーを勝手に削除したり改竄するらしいですわ。一般人のコメントじゃあるまいし。地位あるんだから断りくらい入れろよ。大学のセンセイが改竄って?オボカタさんじゃあるまいし!
佐村河内→オボカタ→サノケン→にしゃんた??
そりゃ前の職場の方も辛抱の尾が---------
以前、またまた面白いことを書いておられるとの連絡を頂いたので見てみると--------
「安倍首相に教えたい! スリランカは日本のお手本である!」だって(爆)
へえへえ、なんとでも。
去年の9月にエントリーされてましたがいつの間にか幽霊のごとく消え去ってましたわ!また十八番の無断削除ですかな?他人は消せないし-----
周りに言われたんですかな、それともブログ炎上?それはそれで儲かったりして!炎上商法!?
そういえばこのお方、「献血をしました!」と何度も書いていますが、「寄付をしました!」って聞いたことがありませんな(笑) そう言うときっと「寄付をしたけど黙ってるんだ、これが日本式の陰徳だ!」と言われるんでしょうな。
これがこのセイロンのお方の「正論」だったりしてだとか「ジャヤワルダナ大統領どころじゃない「君は「じゃあワルだな!」」なんて言った日にはエラいことですよ、アントニオ猪木議員みたいに噛みつかれますよ。え、どんな話か?
はい、アントニオ猪木氏がスリランカ訪問後に、悪口でなくスリランカのネタで駄洒落を言ったのを「祖国スリランカを侮辱した!」と大変な剣幕で御噛みつきになられたと。殿、ご乱心!
「アントニオ猪木が-------という噂が流れているが------」とヤリはりましたわ。呼び捨て!でね。氏くらいつけろよ、もう国会議員のセンセイだよ!偏差値30台のガッコでもあんたも曲がりなりにも一応「大学のセンセイ」なんでしょ?火病?それとも狂犬病?いっぺん病院行く?
おまけにこの時のお題目が「アントニオ猪木に喝!」だって!怖~、笑~!
そのアントンちゃんの駄洒落です、「バクチをせずに良かった、カネはスリランカ」
ってただこれだけですよ。どっかスリランカを侮辱してます?
そりゃ前の職場でイロイロと---------お後がよろしいようで!
寿命まで左右する!驚異の「腸内フローラ」
寿命まで左右する!驚異の「腸内フローラ」
腹時計が乱れると、万病を引き起こす
藤田 紘一郎 :東京医科歯科大学名誉教授 2015年04月30日
まるでお花畑!腸内フローラの力
「腸内フローラ」というものをご存じでしょうか。
私たちの腸には約3万種類、1000兆個に及ぶ細菌類がすんでいます。重さにすると1.5キログラムから2キログラムにもなります。私たちの体を構成している細胞は60兆個ですから、その16倍近くの生き物が私たちのおなかの中にすんでいることになります。
私たちの腸の長さは約10メートルです。それを広げるとテニスコート1面分にもなります。そこに、まるでお花畑のように腸内細菌が生息しています。
腸内細菌類のことを「腸内フローラ」と言いますが、「フローラ」とはお花畑を意味し、細菌類が作る集落が色鮮やかで、形がとてもきれいだからです。
「腸内フローラ」が美しいのは、腸内細菌類が「縄張り」を主張しているからです。新たに侵入してきた菌に対しては、「腸内フローラ」を形成している細菌類が盛んに攻撃を繰り返します。「腸内フローラ」間の緊密な連携によって免疫系が活性化しており、それが病原菌などの新たに侵入してきた菌を排除しているのです。
この「腸内フローラ」を構成している腸内細菌は、私たちの体を多方面から助け、病気にならないように、また、老化を防ぐように働いていることがわかっています。
腸内細菌の働きには、以下の5つの作用があることが知られています。まず、①腸内細菌は病原体の体内侵入に際して、それを排除するように働きます。②私たちの体は食物繊維などを消化する能力はありませんが、腸内細菌がそれを消化してくれます。③ビタミンB2、ビタミンB6、ビタミンB12、葉酸、パントテン酸、ビオチン、ビタミンKなどのビタミン類も腸内細菌が作ってくれています。
さらに、④腸内細菌は幸せ物質であるドーパミンやセロトニンを合成し、その前駆体を脳に送っています。そして⑤免疫力のおよそ70%が腸内細菌と腸粘膜細胞との共同作業で作られていると言います。
腸が原因とされる病気が、脳から心臓、そして関節まであらゆる部位に及ぶとされているのは、このような腸内細菌の働きがあるからです。まさに腸の不調、つまり「腸内フローラ」のバランスを崩すと、万病を引き起こすというわけです。逆に「腸内フローラ」のバランスを整え、腸を健全にすれば病気を予防し、健康になり、寿命を延ばすことができるのです。
日本人の腸内細菌数が減っている
『病気を防ぐ「腸」の時間割 老化は夜つくられる』(SBクリエイティブ)
日本人の腸内細菌数は戦前に比べて、とても少なくなっています。「腸内フローラ」のバランスも崩れていて、日本人の腸年齢も老化してきています。腸内細菌のエサである野菜や豆類、食物繊維の摂取量が減ってきたからです。
日本人の野菜消費量は1985年、1人当たり年間110.8キログラム、そして1999年には102.8キログラムまで低下しています。食物繊維の摂取状況は、戦前の約3分の1の量にまで減少しています。
日本人の腸内細菌が減少した要因は、このほかにもいろいろ考えられます。添加物が使われている食品を摂取する機会が増加したことや、食生活の乱れ、ストレスの多い現代の社会環境も関係していると思われます。
腸内細菌が減少し、腸内フローラのバランスが崩れることによって、起こる病気はたくさんあります。たとえば免疫力が低下し、アトピーやぜん息、花粉症などのアレルギー性疾患が起こってきます。また、がんの発生を促します。最近、増えてきた潰瘍性大腸炎などの自己免疫疾患も発生しやすくなります。
ドーパミンやセロトニンなどの「幸せ物質」を脳に送れなくなり、うつ病をはじめとするいろいろな心の病気も起こってきます。そればかりでなく、肥満や糖尿病、認知症や自閉症まで、「腸内フローラ」の乱れが関係していることが最近の研究でわかっています。
なぜ、こんなに多くの病気が「腸内フローラ」のバランスの乱れによって起こってくるのでしょうか。その理由は、腸内細菌の働きが低下することに加え、「腸内フローラ」が体内時計と連動しているからです。
→次ページ脳の親時計と協調して働く末梢時計
「腹時計」とは、おなかのすき具合から時刻の見当をつけることです。時計がなかった時代には天体の動きとともに、人は腹時計で時間を感じていました。この腹時計は体内時計を整えるために、光刺激とともに重要であることを前回の記事でお話しました。
近年の研究によると、体内時計の乱れは、肥満になりやすい体をつくり、高血圧、糖尿病、脂質異常症の原因になることがわかってきました。加えて、骨粗鬆症を悪化させることも明らかになっています。その原因の第一は、腹時計を調節している「腸内フローラ」の乱れです。
そして、もうひとつの重要な原因が、最近、明らかになってきました。脳の奥にある「親時計」が、体のあちこちにある「末梢時計」と協調して働いていて、体内時計の親時計が乱れれば、末梢時計も乱れ、体のいろいろな臓器に病変が起こってくることがわかったのです。
最近、肝臓や膵臓などの臓器、脂肪組織にまで多数の局所的な末梢時計が存在することが明らかになってきました。これらの末梢時計のいずれかが親時計とズレると、肥満や糖尿病、うつ病、そのほかの病気が発生しやすくなります。食事や睡眠のタイミングがいつも不適切であると、これらの末梢時計のタイミングが脳の親時計とズレてしまい、いろいろな病気が発生するというわけです。
腸は睡眠リズムにも影響を及ぼす
「腸内フローラ」のバランスは、よい睡眠も誘導します。睡眠に関するホルモンに「メラトニン」があります。メラトニンがしっかり分泌されていれば、睡眠の満足度が高まり、朝も気持ちよく起きられるようになります。加えて、メラトニンは抗酸化作用が強く、「若返りホルモン」とも呼ばれています。
メラトニンは脳内で分泌されるホルモンですが、材料となる前駆体は腸で作られます。つまり、腸内フローラがバランスよく存在しないと、メラトニンの脳内分泌量が減少することになります。
メラトニンの材料となるアミノ酸はトリプトファンという必須アミノ酸です。このトリプトファンは葉酸やナイアシン、ビタミンB6などのビタミン群の作用でセロトニンの前駆体を作ります。そして、このビタミンB6をはじめとするいろいろなビタミン類は、腸内細菌が作っているのです。
→次ページ脳内セロトニン量が減少すると?
こうしたことから、メラトニンの合成には腸の健康がとても大事であることがわかります。腸が元気であれば、腸内フローラが豊かに保たれ、ビタミン群の合成力が高まります。その状態のときに、肉や魚、卵などのタンパク質が入ってくると、メラトニンの分泌量を増やせるのです。
メラトニンの前段階であるセロトニンは、人間の精神面に大きな影響を与える神経伝達物質で、心のバランスを整える作用があります。脳内セロトニン量が減少すると、「うつ病」になると言われています。
セロトニンの分泌量が増えれば、メラトニン量も多くなり、睡眠のリズムが整います。反対にセロトニンの分泌量が減少すると不安感が高まり、不眠状態が強くなります。
病気を防ぐ「腸の時間割」
現代社会に生きる私たちは、高度に発達した文明により多くの恩恵を受けています。そのことが、人間に新たな難題を突き付けています。たとえば、医療の発展は、人の寿命を延ばしました。その一方で、死なないけれど治りにくい病気を抱える人が急増しています。その原因の一端に、体内時計の乱れがあると思います。
最近、『病気を防ぐ「腸」の時間割――老化は夜つくられる』(SB新書)という本を出版いたしました。肝臓や膵臓、脂肪組織細胞にまで「末梢時計」が存在していることが明らかにされた今、脳にある「親時計」と同調した生活をすることが、糖尿病や認知症をはじめとするいろいろな病気を予防し、若さを保ち、寿命を延ばすために必要であることを、ぜひ知っていただきたいと思います。
http://toyokeizai.net/articles/-/67793
腹時計が乱れると、万病を引き起こす
藤田 紘一郎 :東京医科歯科大学名誉教授 2015年04月30日
まるでお花畑!腸内フローラの力
「腸内フローラ」というものをご存じでしょうか。
私たちの腸には約3万種類、1000兆個に及ぶ細菌類がすんでいます。重さにすると1.5キログラムから2キログラムにもなります。私たちの体を構成している細胞は60兆個ですから、その16倍近くの生き物が私たちのおなかの中にすんでいることになります。
私たちの腸の長さは約10メートルです。それを広げるとテニスコート1面分にもなります。そこに、まるでお花畑のように腸内細菌が生息しています。
腸内細菌類のことを「腸内フローラ」と言いますが、「フローラ」とはお花畑を意味し、細菌類が作る集落が色鮮やかで、形がとてもきれいだからです。
「腸内フローラ」が美しいのは、腸内細菌類が「縄張り」を主張しているからです。新たに侵入してきた菌に対しては、「腸内フローラ」を形成している細菌類が盛んに攻撃を繰り返します。「腸内フローラ」間の緊密な連携によって免疫系が活性化しており、それが病原菌などの新たに侵入してきた菌を排除しているのです。
この「腸内フローラ」を構成している腸内細菌は、私たちの体を多方面から助け、病気にならないように、また、老化を防ぐように働いていることがわかっています。
腸内細菌の働きには、以下の5つの作用があることが知られています。まず、①腸内細菌は病原体の体内侵入に際して、それを排除するように働きます。②私たちの体は食物繊維などを消化する能力はありませんが、腸内細菌がそれを消化してくれます。③ビタミンB2、ビタミンB6、ビタミンB12、葉酸、パントテン酸、ビオチン、ビタミンKなどのビタミン類も腸内細菌が作ってくれています。
さらに、④腸内細菌は幸せ物質であるドーパミンやセロトニンを合成し、その前駆体を脳に送っています。そして⑤免疫力のおよそ70%が腸内細菌と腸粘膜細胞との共同作業で作られていると言います。
腸が原因とされる病気が、脳から心臓、そして関節まであらゆる部位に及ぶとされているのは、このような腸内細菌の働きがあるからです。まさに腸の不調、つまり「腸内フローラ」のバランスを崩すと、万病を引き起こすというわけです。逆に「腸内フローラ」のバランスを整え、腸を健全にすれば病気を予防し、健康になり、寿命を延ばすことができるのです。
日本人の腸内細菌数が減っている
『病気を防ぐ「腸」の時間割 老化は夜つくられる』(SBクリエイティブ)
日本人の腸内細菌数は戦前に比べて、とても少なくなっています。「腸内フローラ」のバランスも崩れていて、日本人の腸年齢も老化してきています。腸内細菌のエサである野菜や豆類、食物繊維の摂取量が減ってきたからです。
日本人の野菜消費量は1985年、1人当たり年間110.8キログラム、そして1999年には102.8キログラムまで低下しています。食物繊維の摂取状況は、戦前の約3分の1の量にまで減少しています。
日本人の腸内細菌が減少した要因は、このほかにもいろいろ考えられます。添加物が使われている食品を摂取する機会が増加したことや、食生活の乱れ、ストレスの多い現代の社会環境も関係していると思われます。
腸内細菌が減少し、腸内フローラのバランスが崩れることによって、起こる病気はたくさんあります。たとえば免疫力が低下し、アトピーやぜん息、花粉症などのアレルギー性疾患が起こってきます。また、がんの発生を促します。最近、増えてきた潰瘍性大腸炎などの自己免疫疾患も発生しやすくなります。
ドーパミンやセロトニンなどの「幸せ物質」を脳に送れなくなり、うつ病をはじめとするいろいろな心の病気も起こってきます。そればかりでなく、肥満や糖尿病、認知症や自閉症まで、「腸内フローラ」の乱れが関係していることが最近の研究でわかっています。
なぜ、こんなに多くの病気が「腸内フローラ」のバランスの乱れによって起こってくるのでしょうか。その理由は、腸内細菌の働きが低下することに加え、「腸内フローラ」が体内時計と連動しているからです。
→次ページ脳の親時計と協調して働く末梢時計
「腹時計」とは、おなかのすき具合から時刻の見当をつけることです。時計がなかった時代には天体の動きとともに、人は腹時計で時間を感じていました。この腹時計は体内時計を整えるために、光刺激とともに重要であることを前回の記事でお話しました。
近年の研究によると、体内時計の乱れは、肥満になりやすい体をつくり、高血圧、糖尿病、脂質異常症の原因になることがわかってきました。加えて、骨粗鬆症を悪化させることも明らかになっています。その原因の第一は、腹時計を調節している「腸内フローラ」の乱れです。
そして、もうひとつの重要な原因が、最近、明らかになってきました。脳の奥にある「親時計」が、体のあちこちにある「末梢時計」と協調して働いていて、体内時計の親時計が乱れれば、末梢時計も乱れ、体のいろいろな臓器に病変が起こってくることがわかったのです。
最近、肝臓や膵臓などの臓器、脂肪組織にまで多数の局所的な末梢時計が存在することが明らかになってきました。これらの末梢時計のいずれかが親時計とズレると、肥満や糖尿病、うつ病、そのほかの病気が発生しやすくなります。食事や睡眠のタイミングがいつも不適切であると、これらの末梢時計のタイミングが脳の親時計とズレてしまい、いろいろな病気が発生するというわけです。
腸は睡眠リズムにも影響を及ぼす
「腸内フローラ」のバランスは、よい睡眠も誘導します。睡眠に関するホルモンに「メラトニン」があります。メラトニンがしっかり分泌されていれば、睡眠の満足度が高まり、朝も気持ちよく起きられるようになります。加えて、メラトニンは抗酸化作用が強く、「若返りホルモン」とも呼ばれています。
メラトニンは脳内で分泌されるホルモンですが、材料となる前駆体は腸で作られます。つまり、腸内フローラがバランスよく存在しないと、メラトニンの脳内分泌量が減少することになります。
メラトニンの材料となるアミノ酸はトリプトファンという必須アミノ酸です。このトリプトファンは葉酸やナイアシン、ビタミンB6などのビタミン群の作用でセロトニンの前駆体を作ります。そして、このビタミンB6をはじめとするいろいろなビタミン類は、腸内細菌が作っているのです。
→次ページ脳内セロトニン量が減少すると?
こうしたことから、メラトニンの合成には腸の健康がとても大事であることがわかります。腸が元気であれば、腸内フローラが豊かに保たれ、ビタミン群の合成力が高まります。その状態のときに、肉や魚、卵などのタンパク質が入ってくると、メラトニンの分泌量を増やせるのです。
メラトニンの前段階であるセロトニンは、人間の精神面に大きな影響を与える神経伝達物質で、心のバランスを整える作用があります。脳内セロトニン量が減少すると、「うつ病」になると言われています。
セロトニンの分泌量が増えれば、メラトニン量も多くなり、睡眠のリズムが整います。反対にセロトニンの分泌量が減少すると不安感が高まり、不眠状態が強くなります。
病気を防ぐ「腸の時間割」
現代社会に生きる私たちは、高度に発達した文明により多くの恩恵を受けています。そのことが、人間に新たな難題を突き付けています。たとえば、医療の発展は、人の寿命を延ばしました。その一方で、死なないけれど治りにくい病気を抱える人が急増しています。その原因の一端に、体内時計の乱れがあると思います。
最近、『病気を防ぐ「腸」の時間割――老化は夜つくられる』(SB新書)という本を出版いたしました。肝臓や膵臓、脂肪組織細胞にまで「末梢時計」が存在していることが明らかにされた今、脳にある「親時計」と同調した生活をすることが、糖尿病や認知症をはじめとするいろいろな病気を予防し、若さを保ち、寿命を延ばすために必要であることを、ぜひ知っていただきたいと思います。
http://toyokeizai.net/articles/-/67793
カンボジアの治安。シェムリアップ・プノンペン2015年1月版 | カンボジア治安情報局
カンボジアの治安。シェムリアップ・プノンペン2015年1月版 | カンボジア治安情報局
http://www.cambodialife.mobi/cambodia/secrity/4759
カンボジアの治安事情。本人談、噂談など。旅行者も在住者も気を付けてください。
【全体的な発生状況】
2013年から、半年の比較でほぼ横ばい。
強盗や窃盗が多く、日本人に対する犯罪は金品目的のひったくりがほとんど。
人通りの多いマーケットだと日本人は安心してしまいがちだが、
一番犯罪率が高いので要注意!!!
その1:ひったくり
被害:
主に外国人が多いシェムリアップ市内やプノンペンで発生。
歩行中・バイクや自転車に乗っている間に手荷物をひったくられる事が一番多い。
ア)旅行者がトゥクトゥクで信号待ちをしていたら、バイクに乗った男性に手荷物を盗まれた。信号待ちも危ないので要注意。
イ)バイクの後ろに乗っていた旅行者が、後方から近づいてきた梅君男によって抱きかかえていた鞄をひったくられた。
ウ)アンコールワットへ朝日を見に行こうとした旅行者が、バイクの男(2人組)に鞄をひったくられた。
肩掛けバックをひったくられて、バックが体から離れず、道路に引きずられる例も多発。要注意。
また、ひったくり時に抵抗したため拳銃で撃たれたという事件もある。
その2:スリ
被害:
人が多いところの方が被害に遭いやすい事を忘れないこと!!!!
ア)アンコール遺跡内で、日本人旅行者に対するスリ事件。
観光中に人ごみ通り抜けた後、気がつくと鞄の口が開いていて中の貴重品が無くなっていた。
イ)ツアー参加者と一緒に食事中、気がつくと鞄が無くなっていた。
ウ)プノンペンのセントラルマーケットやナイトマーケット等の人混みで買い物している途中に、ズボンのポケットに入れておいた財布がなくなった。
エ)鞄をナイフで切られ、中に入っていた財布などがなくなっていた。
その3:窃盗
被害:
ア)プノンペン都内において,見ず知らずの男にマッサージに行かないかと声を掛けられ,勧められた店に行ったが,マッサージが終わり足下に置いていたカバンを確認したところ中身がなかったという事例が発生。
その4:ホテル侵入強盗
被害:
犯行は,比較的警備の手薄なゲストハウスや,ホテルの低層階の客室を狙って行われるところ。
ア)ホテルやゲストハウスの低層階に滞在し,就寝していたところ,扉や窓から侵入した何者かに,室内に置いてあった現金等の貴重品を盗まれるという事例が発生。
イ)高層階のため,鍵をかけないで就寝していたところ,侵入された事案も。玄関扉のほか,窓から侵入されることもある。
その5:いかさま賭博
被害:
プノンペン・シェムリアップ州・シアヌークビルなどの旅行者がいかさま賭博にあう被害が増え、被害額も高額に。
今後も似たような事件が増えると予想されている。
また、この手口はカンボジアだけではなく、東南アジア全域で行われているので、要注意。
①レストラン,路上において,アジア国籍と称する女性に話しかけられ,自宅と称する家に招かれる。内容は兄弟が日本に居たことがある,日本に留学する,日本語の資料を見て欲しい等様々。
②家で待っていた複数の男女から,「絶対に負けないポーカーの方法を教える。これから訪ねてくる客があるので,そいつから大金を巻き上げよう。」などと言われ,ほとんど強制的にいかさまの方法を教えられる。
若しくは,時間つぶしにゲームに誘われ,ポーカーを始めた後にいかさまを教えるケースも。
多くのケースでは事前にご飯をごちそうになることがあり,心理的に断れない状況を作ります。また,出口は男が立ち塞いでおり逃げることも難しいとのこと。
③来客を待ってゲームが始まり,賭け金を置くと最初の数回は勝つものの,次第に負けがかさみ結局持ち金をすべて取られた上,ATM等でお金をおろすよう脅迫される。
④また,最近では勝負中に掛け金が増大し,支払えない分の現金を持ってきて欲しいと頼まれ,ATM等でお金をおろしたら言葉巧みに相手方が現金を預かりそのまま逃走することもあります。そのほかにこちらがお金を持っていると判断した場合,軟禁されて何度もATM等に行かされた例もある。
http://matome.naver.jp/odai/2140854800392860501
http://www.cambodialife.mobi/cambodia/secrity/4759
カンボジアの治安事情。本人談、噂談など。旅行者も在住者も気を付けてください。
【全体的な発生状況】
2013年から、半年の比較でほぼ横ばい。
強盗や窃盗が多く、日本人に対する犯罪は金品目的のひったくりがほとんど。
人通りの多いマーケットだと日本人は安心してしまいがちだが、
一番犯罪率が高いので要注意!!!
その1:ひったくり
被害:
主に外国人が多いシェムリアップ市内やプノンペンで発生。
歩行中・バイクや自転車に乗っている間に手荷物をひったくられる事が一番多い。
ア)旅行者がトゥクトゥクで信号待ちをしていたら、バイクに乗った男性に手荷物を盗まれた。信号待ちも危ないので要注意。
イ)バイクの後ろに乗っていた旅行者が、後方から近づいてきた梅君男によって抱きかかえていた鞄をひったくられた。
ウ)アンコールワットへ朝日を見に行こうとした旅行者が、バイクの男(2人組)に鞄をひったくられた。
肩掛けバックをひったくられて、バックが体から離れず、道路に引きずられる例も多発。要注意。
また、ひったくり時に抵抗したため拳銃で撃たれたという事件もある。
その2:スリ
被害:
人が多いところの方が被害に遭いやすい事を忘れないこと!!!!
ア)アンコール遺跡内で、日本人旅行者に対するスリ事件。
観光中に人ごみ通り抜けた後、気がつくと鞄の口が開いていて中の貴重品が無くなっていた。
イ)ツアー参加者と一緒に食事中、気がつくと鞄が無くなっていた。
ウ)プノンペンのセントラルマーケットやナイトマーケット等の人混みで買い物している途中に、ズボンのポケットに入れておいた財布がなくなった。
エ)鞄をナイフで切られ、中に入っていた財布などがなくなっていた。
その3:窃盗
被害:
ア)プノンペン都内において,見ず知らずの男にマッサージに行かないかと声を掛けられ,勧められた店に行ったが,マッサージが終わり足下に置いていたカバンを確認したところ中身がなかったという事例が発生。
その4:ホテル侵入強盗
被害:
犯行は,比較的警備の手薄なゲストハウスや,ホテルの低層階の客室を狙って行われるところ。
ア)ホテルやゲストハウスの低層階に滞在し,就寝していたところ,扉や窓から侵入した何者かに,室内に置いてあった現金等の貴重品を盗まれるという事例が発生。
イ)高層階のため,鍵をかけないで就寝していたところ,侵入された事案も。玄関扉のほか,窓から侵入されることもある。
その5:いかさま賭博
被害:
プノンペン・シェムリアップ州・シアヌークビルなどの旅行者がいかさま賭博にあう被害が増え、被害額も高額に。
今後も似たような事件が増えると予想されている。
また、この手口はカンボジアだけではなく、東南アジア全域で行われているので、要注意。
①レストラン,路上において,アジア国籍と称する女性に話しかけられ,自宅と称する家に招かれる。内容は兄弟が日本に居たことがある,日本に留学する,日本語の資料を見て欲しい等様々。
②家で待っていた複数の男女から,「絶対に負けないポーカーの方法を教える。これから訪ねてくる客があるので,そいつから大金を巻き上げよう。」などと言われ,ほとんど強制的にいかさまの方法を教えられる。
若しくは,時間つぶしにゲームに誘われ,ポーカーを始めた後にいかさまを教えるケースも。
多くのケースでは事前にご飯をごちそうになることがあり,心理的に断れない状況を作ります。また,出口は男が立ち塞いでおり逃げることも難しいとのこと。
③来客を待ってゲームが始まり,賭け金を置くと最初の数回は勝つものの,次第に負けがかさみ結局持ち金をすべて取られた上,ATM等でお金をおろすよう脅迫される。
④また,最近では勝負中に掛け金が増大し,支払えない分の現金を持ってきて欲しいと頼まれ,ATM等でお金をおろしたら言葉巧みに相手方が現金を預かりそのまま逃走することもあります。そのほかにこちらがお金を持っていると判断した場合,軟禁されて何度もATM等に行かされた例もある。
http://matome.naver.jp/odai/2140854800392860501
ポル・ポトはフランス留学中に、極端な左翼思想に染まっていったと言われている。
ポル・ポトの大虐殺
~総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺~
雲一つない炎天下に広がる朽ち果てた白骨の群れ。殺伐とした荒野には、直径3メートルほどの穴が幾つも並び、その中に数十体の白骨化した遺体が、無造作に投げ込まれている。緑色の汚水にまみれて累々と積み重ねられた腐乱死体からは、ものすごい臭気が漂っている。そこら中、死者の白骨とカサカサになった衣類の切れ端が散らばり、頭上には、人間の毛髪でつくられたと見られる鳥の巣が潅木の茂みに見える・・・この世のものとは思えぬ壮絶な地獄の風景が地の果てまで延々と連なっている。 これは「キリング・フィールド」とい
う映画のワンシーンだが、しかし映画だけの話ではない。豊かで恵まれた農業国と言われ、インドシナのオアシスとうたわれた国で、現実に起こった出来事なのである。ポル・ポト時代のカンボジアでは、まさに、戦慄すべき地獄がこの世に現出したのである。わずか4年間で数えきれないほど多くの人間が殺され、破壊と憎悪が吹き荒れたのだ。生き残った人々でさえ、その心の奥には、永久に拭い去ることの出来ぬ悲しみと苦痛が刻み込まれたのである。 総人口800万足らずのこの小さな国で、実に200万から300万近
くの人間が虐殺されたのだ。正確な死者数は、今尚もってわからない。革命が盛り沢山と言われた20世紀でも、これほど高い比率で虐殺が行われた例は、カンボジアを除いてどこにもない。この前代未聞の大量虐殺は、わずか4年間で達成されたのである。知識人と言われた人々にいたっては、実に6割以上が殺されたという。
不条理で得体の知れない恐怖が、人々を襲い、悪魔にしかなし得ない残酷な行為が行われたのである。猟奇的とも言える大虐殺はいかにして起こったのか?
* ベトナム戦争がもたらしたもの * 19世紀、カンボジアは、ラオス、ベトナムとともに、フランスの植民地であった。ところが、1953年にこれらの国々で独立運動が起こると、それは、第一次インドシナ戦争に発展した。フランスは、敗れ、カンボジアの独立をしぶしぶ承認することとなった。この時、この国は、シアヌーク王が国家元首となって政権を握り、やや左寄りの路線を歩もうとしていた。一方、隣国のベトナムは、共産党の指導する北と親米派の南に分断され、政権争いを始めていた。ラオスでも同様で、親米派と反親米派の対立が続いていた。特にベトナムでは、北と南の対立は、武力衝突にまで発展し、65年、南からの援軍要請を受けたアメリカが参戦すると、今度は、北を中国やソ連が後押しするという全面対決の様相を見せ始めた。
ベトナム戦争は、その後、激化の一途をたどり、アメリカは、どんどんと泥沼に足を踏み入れて行くことになる。 追い詰められ余裕のなくなったアメリカは、北への大規模な爆
撃を開始した。枯れ葉剤、ナパーム弾などありとあらゆる非人道的兵器を無差別に使用していったのである。 左よりの路線を歩むカンボジアは、この頃、中立的立場を取って
いた。しかし、南ベトナムが勝利すると、自国が脅かされる恐れがあった。しかも、南ベトナムは、自由クメールと名乗る反シアヌーク派の拠点にもなっていたのである。 北への執拗な爆撃を繰り返すB52
戦略爆撃機、日によっては50回も出撃した。 そこで、シアヌークは、ベトナム国境寄りのカンボジア領内に北ベトナム軍の補給基地をつくり、軍隊の駐留、移動などを秘密裏に認めていた。 北ベトナム軍にとっ
て、カンボジア領内は、安全地帯となった。ここに留まる以上は、爆撃を受ける心配はなく、同時に、カンボジアの米なども補給出来るのである。しかし、こうした一連の関係は、カンボジアをベトナム戦争に巻き込んでいくことを意味していた。
苛烈化するベトナム戦争、やがて、戦場は、カンボジア国内まで広がった。 アメリカとしては、北ベトナムを完膚なく叩き潰すためには、カンボジアを手なずけ、この方面での爆撃を有利に展開させる必要があった。そこで、アメリカは、親米派のロンノル将軍に巨額の軍資金を提供し、バックアップをすることを約束して、シアヌークを追い出すことを画策したのである。1970年、シアヌークがフランス休暇旅行の最中、クーデターは起き、それは見事成功した。ロンノルは政権を樹立し、追放されたシアヌークは、そのまま北京へ亡命してしまった。 カンボジ
アがロンノル政権になり、もはや、憂慮すべき事態もなくなったアメリカは、気がねなく、北ベトナム軍の補給基地に爆撃を行うことが出来るようになった。その結果、たちまち30万のカンボジア人が死に、200万以上と思われる避難民が発生することとなった。 一方、亡命したシアヌークは、国外からロンノル政権打倒を呼び掛
けていた。これに賛同したのは、北ベトナムと国内に潜伏するカンプチア共産党、つまり後のクメール・ルージュだった。これによって、今まで、平穏だったカンボジアにもついに戦火が飛び火することになる。
ロン・ノル (1913ー1986)シアヌーク政権下では、国防相だった。
ベトナムでは、中国、ソ連などの援助を受けた北ベトナムが、頑強に戦い抜き、史上まれに見る苛烈な局地戦が展開されていた。これに対し、カンボジアでは、クメール・ルージュが国内でゲリラ活動を展開し、ロンノル政権を内部から揺さぶった。かくして、カンボジア国内は、熾烈な戦闘が至る所で繰り返され、5年越しの内戦状態に突入した。 内
戦によって、首都プノンペンは、物や食料の不足は深刻化し、民衆の不満は高まるばかりで、おまけに、テロと陰謀が渦巻き大混乱に陥っていた。国土の6割がたは、解放勢力の手に落ち、主要幹線は、いたるところで切断されている有り様だった。北ベトナム軍は、カンボジア領内に入り込んでいたので、それを追撃してきた南ベトナム軍、アメリカ軍と間で猛烈な戦闘を展開していた。大被害を被ったのは、カンボジア人で、彼らの中には、ベトナム人への憎悪が高まり、ベトナム追い出し政策に火をつけることになった。
クメール・ルージュとベトナム共産軍との間でも、何度も武力衝突が起こり、もはや決裂は明らかとなった。
* ついに放たれた狂気 * やがて、膨大な軍事費と
甚大な被害に疲弊したアメリカは、ベトナムから完全撤退することを決定してしまう。これは、言わば、敗北宣言にも等しいものであった。1975年、アメリカ軍が撤退してしまうと、後ろ楯を失ったロンノル政権はたちまち崩壊していった。
そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。かくして、恐るべきパンドラの箱は、開かれたのである。ギリシア神話で、女神が、誘惑に負けて開いた瓶からは、ありとあらゆる災いが放たれ人々を不幸のどん底に追い落とすという話が現実のものとなったのだ。 1975年4月17日、その日 が恐怖政治の始まりだった。
この日から丸4年間、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れるのである。
今まで常識と思われたことが一切通用しなくなっていくので ある。
この時、まもなく、空前絶後の大虐殺が始まることになろうとは、誰が予想し得たであろうか? トラックに乗ってプノンペンに入城してきたクメール・ルージュの兵 士
この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。
彼らは、すべて十代かそこらの兵士で、黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。
ついに、内戦が終わったと信じた民衆 は、歓声を上げて彼らを笑顔で迎えた。
しかし勝者のはずの彼らには、笑いも開放感もなく、何が気に入らぬのか不機嫌そうに押し黙っているだけであった。
強制退去によって200万人いた首都プノン ペンは、ゴーストタウンと化した。
しかし、まもなく、民衆も歓声どころではなくなった。
全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。
その理由にしてもバラバラで、B52の爆撃があるから疎開させるのだとか、都市では食料が足りないから農村に移すだけだとか、退去は、一時的なものですぐに帰って来られるとかいう支離滅裂な説明がなされるだけだった。
民衆は、着の身着のままで農村部に追い立てられることになった。
これらは、実に迅速に実行されたので、ほとんどの人は国外に逃げることも出来なかった。
そのうち、強制退去の実行それ自体が冷酷極まりないものになっていった。
問答無用となり、もし、少しでも逆らえば、容赦なく殺され 出したのである。
病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。
何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいた が、彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。
瀕死の子供を抱き上げ、泣きながら歩いてゆく父親、両手両足がなく、もがきながら連れて行かれる病人たち・・・それは、まさに絶望的で信じられない光景であった。
クメール・ルージュの兵士たち、ほとんどが、13才程度の子供ばかりだった。
彼らは、わずかな食料と身の回り品だけを携えて、徒歩で移動せねばならなかった。それは絶望的な行進であった。中には、一か月以上も歩かされた集団もあった。こうした無理がたたって、体の弱い赤ちゃんや老人などが、次々と死んでいった。
それと、同時に クメール・ルージュがしたことは、新国家建設のための協力者を集めることだった。
前体制下の将校、医師、教師、技術者、僧侶などは名乗り出るように命じられた。
また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。
カンボジアを理想の国家にするために、君たちの知識、技術力が必要だとかいうスローガンが掲げられ、その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。
これら集まって来た人々は、プノンペンに帰って国家建設のため働いてもらうとか言われトラックに乗せられた。
しかしこれは恐ろしい罠であった。
彼らは、途中で道路上で投げ出され、機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。
留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生たちも殺された。
彼女らは処刑されるために帰って来たようなものであった。
男女の教員を、ひとり残らず、高い絶壁から突き落として殺してしまったこともある。
音楽・映画、恋愛などは、資本主義的行為とされ全面的に禁止され た。
貨幣もなくなり、米がそれに代わるものとなった。
クメール・ルージュは、人々の心に安らぎを与えている仏教すら潰そうとした。
宗教は全面的に禁止され、かつて大事にされていたお坊さんは、寄生虫とか黄色い衣装を着た怠け者とか蔑まれた。
僧侶は強制的に還俗させられ、農作業やダムの工事現場に追いやられた。
そして寺院は、ことごとく豚小屋や集会場に早変わりしてしまい、モスクは倉庫と化した。
押収したコーランはトイレットペーパーになった。
教育も一切必要なかった。
授業はあるにはあったが、一日30分程度、それも革命の歌やスローガンを連呼するための時間だけだった。
国民に課せられた使命は、農作業や土木工事など、ただアリのように黙々と働き続けることだけだったのだ。
* 恐怖の子供 兵士 *
ポル・ポトの目指したものは、一体何だったのか?
彼は、フランス留学中に、極端な左翼思想に染まっていったと言われている。
彼が入党したフランス共産党は、ヨーロッパの 数ある共産党の中でも、最も過激でスターリンの思想に傾倒していたものであった。
絶対的な権力による政治支配、異端者の完全抹殺と有無を言わさぬ政策の押し付けなどは、スターリン特有のものである。スターリンは、1930年代に2千万人という血の粛清を行い、恐怖の政治を現出した独裁者としても知られている。
ポル・ポト
(1925ー1998)
ちょっとした反革命的言動、根も葉もない噂、果てはスターリン個人の好き嫌いのみで、多くの人間が深夜に引き立てられ銃殺されたのである。
当時、人々は、秘密警察による深夜のノックに震えおののいたという。
それは、あたかも、中世ロシアのイワン雷帝のオプリーチニク(親衛隊)の伝統を受け継いでいるようにも見えた。
過去からの一切合切を切り離そうとし ていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて病原菌なのであった。
病原菌は、速やかに駆除しなければならないというのが彼らの理論 だった。
踊り子や歌手を始め、僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者、知識人は、すべて処刑の対象となった。
都市に住みメガネをかけているだけで知識階級と
見なされ殺されたのだ。 泥にまみれて累々と散らばる白骨の群れ
それは、まるで腐った果実は、まとめて処分するように、無造作に一カ所に集められて殺されたのである。 このように知識人だというだけで大量に処刑された例は、世界にも前
例はない。しかし、このような政権が、まともに運営されるはずもなく、やがては行き詰まり、絶望的な中で崩壊していくことはもはや明らかであった。 その結果、頭の中に旧来の知識を全く持たな
い子供だけが重視されるようになっていった。大人は、信用出来ず、信じられるものは、子供だけになった。 子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子
供看守、子供医師という特異な存在が次々と生み出されていったのである。 虐殺革命の正体、
人間の尊厳とは何なのか?
子供医師の中には、全く字も読めないような子もいた。
彼らは、名目だけの3か月程度のにわか仕込みの教育を受けて、医療業務をまかされたのである。
子供医師にかかり注射を受けた者の多くは傷口が化膿した。
医療の知識も何もない子供が、ろくに消毒もせずいきなり注射をしようとするのだから当然である。
多くの者は、傷口が紫色に腫れ上がり敗血症になって命を落としていった。
彼らは手術すら行うこともあった。
しかしその実体は、興味本位の人体実験と何ら変わりのないものであった。
生きたまま柱にくくりつけられ、面白半分に大きな切り口をつけられ、傷口を両側に押し広げられて死んだ哀れな患者もいたという。
子どもはスパイとしても使われた。
周囲に誰もいないと油断して、革命への不満を漏らそうものなら命取りとなった。
小さな子供が家の床下などに潜んで聞き耳を立てているかもしれなかったからだ。
うっかり漏らした不平や不満、それを聞いた子供が、組織に通報しようものなら、例え、身に覚えがなくても一巻の終わりなのである。
死は日常の中に入り込んでいた。生活 に死というものが常に密着していた。
なぜ? どうして? という疑問は感じてはならないのだ。
うっかり、英語とかフランス語を口にしようものならそれで殺されるのである。
じゃがいもの袋に入れられて川に沈められるかゴミのように銃の台尻で殴り殺されるかどちらかであった。
正しいこと、常識あること、理性ある行いなど、もうどこを探しても存在しなかった。 ある夜、 囚人全員が連れ出されて処刑されたことがあった。
しかし、その中に、からくも命を取り留めることが出来た囚人が一人だけいた。
それは、なぜか? 彼は、元英語の教師をしていたが、 イソップ物語や童話の話を語って聞かせるのがうまい人物だった。
彼は、十代の子供看守たちを相手に、日頃、これらの話をして聞かせていた。
学校の教育も満足に受けたことのない子供看守た ちにとって、彼の語りかける話は、新鮮で実に興味深い内容だった。
子供たちは、目を輝かせて彼の話に聞き入っていた。
囚人全員を殺せという命令が来ても、殺してしまうのは、もったいないと考えた子供看守たちは、あえて彼を生かしておいたのである。
ツールスレンにあった監獄、ここで多くの人間が殺され、ほとんどが生還しなかった。
ある男が痩せた犬を殺してその肉を食ったことがあった。
男は翌日、少年兵士たちに連行され、犬の肉を食ったという罪で拷問を受け、銃の台尻で殴り殺された。
流行歌を歌っただけでも殺された。
歌いたい時は、回りに誰もいないことを確認して、こっそり歌わねばならなかった。
もし子供や少年兵に聞かれでもしたら最後だった。
有名な歌手や踊り子は、身元がばれ次第殺された。
したがって、彼らは野菜売りだとか農民だったとかと偽って生き延びるしかなかった。
ある踊り子は、過去を偽り、農作業やダム工事などに従事していた。
彼女は、70年の大阪万博の際、特別公園したほどの舞踏の大スターだった。
白魚のようになまめかしい細い指は、ひたすら荒れ土をいじったり、重い石を運び、砕いたりすることにのみ費やされた。
飢えと疲労に悩まされながらも、生きるために必死になって慣れない重労働に苦闘し続けた。
身元がばれそうになると、夜逃げを繰り返した。
一度は、彼女の美しさに目をつけた革命幹部から逃れるために、弟を夫だと偽ったりしてかろうじて難を逃れたこともあったという。
だが、ロン・ノル時代にすでに有名だった歌手には、もうどこにも逃げ道はなかった。
多くのスター歌手や有名人は、ただそれだけで殺されたのである。
ある女性歌手は、知っている歌を歌い続けろと命令されて死ぬまで歌わされたという話が残されている。
彼女は歌う歌がなくなると同時に処刑されたのである。
このような例を挙げると枚挙に暇ない。
ポル・ポトが支配していた4年間は、まさに、このような行為が日常茶飯事に起きていたのである。民衆はポル・ポトに従うしかなかった。
そして、彼の手先となって殺戮を繰り返す少年兵士に怯えた。
彼らはほとんどが13才程度の子供で、徹底的な洗脳によってポル・ポトを神とあがなう狂信的集団に変化していた。
命令があれば肉親でも殺せる集団でもあった。
この 地獄は丸4年間続いた。
しかしポル・ポトが政権を握って、4年目になろうとする頃、ベトナムとの戦争も最終局面を迎えていた。
ポル・ポト打倒を目指すカンボジア救国民族統一戦線がハノイで結成され、この中には、仏教徒代表など知識人を代表する数多くのメンバーも顔を揃えていた。
彼らは、最後の決着をつけようと、大規模な攻撃を画策していたのである。
1978年も終わる頃、ベトナム軍は15万の大軍で、あらゆる方向から侵入して来た。ベトナム軍の進撃の前に子供兵士の多いポル・ポト軍は、とても持ちこたえることが出来ず、カンボジア国内の大部分は、たちまち占領されてしまった。侵攻開始から2週間目、1月6日には、早くも首都プノンペンが包囲され、翌日にはあっけなく陥落してしまうほどだった。
その後も、クメール・ルージュは、森の中で、ゲリラ戦を続けていくことになるが、恐怖の大量虐殺に終止符が打たれたのはこの頃であったと言われている。
* 地獄を生き抜いた少女の話 * ここに、この地獄を生き抜いた一人の少女の体験がある。彼女はその時まだ5才だった。多情多感な彼女にとって、ポルポト時代のカンボジアはどう映っていたのだろうか? その少女の
仕事は、毎朝、川に水を汲みに行くことだった。その日も、バケツを二つ交互にぶら下げた棒を肩に担いで、川岸に来たところが、彼女より少し年上の女の子が腰に手をあてて困ったようなしぐさで、少し離れた川岸を棒でしきりにつついているのが見えた。近寄ってよく見ると、女の子が棒でつついているのは、浅瀬の茂みに引っ掛かっている死体だったのである。それは、大人の男の死体で、死後かなりの時間が経過しているのか、腐乱して驚くほど膨張している。黒い服から出た手足は、白いゴムのように光り、膨らんでいる。その死体は、川の流れに揺らいでいたが、ズボンが浅瀬の小枝に引っ掛かって流れずにいたのである。女の子が棒を突く度に、死体は、ゆらゆらと上下に揺れて波紋が広がるが、一向に動く気配がない。「死体から出る汁がバケツに入るから流してしまいたいの」と女の子は言うのである。結局、二人は相談して、一斉に頭と胴体を押すことで、その死体を流すことにした。それは、うまくいったと見えて死体は、黒い髪をくゆらせながら、ゆっくりと下流に流れて行った。少女は吐き気が込み上げてくるのを堪えてその場を離れたが、目に焼き付いた光景は、その後、何十年も悪夢に出て来ることになった。 労働キャンプでは、決定的に食料が欠乏していた。飢えと
恐怖が人間を敵同士にし、あさましいものに変えていった。どこを探そうが食べる物などどこにもなかった。栄養失調からくる胃の痛み、関節痛、疲労感が家族全員を襲った。母は、お腹が減ったと言って泣き続ける弟を胸に抱きしめている。まだ3才だった弟はすっかり痩せてしまい、ほほ骨が突き出している。ふっくらとしていたほっぺたは、今では骨に皮が張りついているだけで、つぶらな瞳は、輝きを無くし飢えのためにどんよりと曇ってしまった。 少女は、家族のために食べ物を探しに行かなくてはならな
かった。茂みでカエル、コオロギ、バッタと食べられるものは、何でも捕まえようとするが、小さくて体力がなくて動作ののろい彼女には捕まえることは出来ない。ある日のこと、一人のおばあさんの横にお握りが置かれているのを見つけたことがあった。おばあさんは、小柄で白髪が頭にへばりつき、胸で苦しそうに呼吸をしていた。少女は胸をどきどきさせながら、おばあさんの後ろに近寄ると、さっとそれをつかんでポケットに入れた。そして足早にその場を去った。ポケットにお握りの重さを感じながら。一人になって取り出したお握りは、こぶし大の大きさで、それを見つめていると、さきほどのおばあさんを思い出して胸が痛んだ。おばあさんは、きっともう、代わりのお握りがもらえないだろう。彼女はそう思うと涙がボロボロ出て来た。目の前の景色が涙でグニャグニャになった。お握りを口に運んだが、同時にしょっぱい涙が口の中に流れて来るのを止めることが出来なかった。 1978年頃に
なると、粛清がさかんに行われるようになった。虐殺は、無差別化し、少しでも疑われると一般農民でさえも殺されるようになった。少女の母と3才の弟も、この時、クメール・ルージュの手にかかり殺された。
その日、少女 の母と3才の弟は、20人ほどの村人とともに連行され、泥の中にひざまずかされた。
横にいた男は、恐怖のためにその場にうずくまり失禁してしまった。
泣き叫ぶ小さな弟は、兵士によって無理やり母から引き離されてしまった。
必死になって泣き叫び、命ごいをして立ち上がろうとする村人に、突然、ライフルの音が響き渡った。静寂が一瞬訪れた。
弟が、泣きながら泥に顔を埋めてうずくまる母のもとに走り寄って来る。
何が起こったのかわからない弟は、母親の名を呼びながら、懸命に肩をゆすり、ほほや耳にさわり、最後は髪をつかんで泥から顔を起こそうとするが、力が足りない。
何度か繰り返すうちに、小さな手に母の血がべっとりとついた。
数秒後、その弟も撃ち殺され、もう悲鳴を上げる者はいなくなった。
1979年1 月、ベトナム軍が首都プノンペン攻略を開始すると、クメール・ルージュは、山間部に敗走した。
こうして、丸4年クメール・ルージュの手にあったプノンペンは解放されたのである。
まもなく、ベトナム軍が、全国にあった強制労働キャンプを解体し始めると、ようやく人々に生きる希望が戻って来た。
少女は、その後、一番上の兄とともに、アメリカに行 くことを決心した。
戦火で荒廃したプノンペンから、密かに船でメコン川を下り、無事にベトナムにたどり着くことが出来たのである。
そして、彼らはサイゴンで数カ月を過ごした後、闇にまぎれ、航路でタイに逃れたのである。
途中、サメの恐怖や海賊の襲撃で、身に付けていた父の最後の形見すらなくしてしまったが、かろうじて難民キャンプにたどりつくことが出来たのであった。
幸 運にも、身元引受人が見つかった彼女は、兄とともにアメリカに渡り新しい人生を歩み出すことになった。
35年経った現在、彼女は世界の各地で平和を訴え、地雷廃絶キャン ペーンを続けている。
彼女の体験を綴った著書「最初に父が殺された」には、両親、姉、幼い弟などを次々に殺された深い悲しみが込められている。
しかし、その悲しみを乗り越えて、勇敢に 生き抜こうとする不撓不屈の精神は、多くの人々に深い感銘と感動を与え続けている。
あの時の少女は大人になった。アンコールワットで物売りの少女とともに。
「最初に父が殺された」より
* 悪夢のつめ痕 * 20世紀には、確かに驚くほど多くの革命があった。しかし、どのような革命も、カンボジアで起きた悪夢には及びようがない。これほどまでに異常な革命は世界史上類を見ない。一人の男が描いた稚拙で愚かな夢が、権力を掌握した時、それはただの夢ではなくなった。「まさか? 本当に? どうして?」と誰もが思う信 じられないことが、実際に起き、実現されたのだ。
あれから35年が経った。しかし内戦の傷跡は、いたるところに残されたままだ。農村は、荒廃し、未だに立ち直りのきざしさえ見せてはいない。内戦の負の遺産とも言われる数千万個の地雷は、いたるところに埋まったままである。街では、片手片足をなくした幼ない子供たちをよく見かける。彼らは地雷や不発弾のために、片手片足を無惨にも吹き飛ばされたのだ。しかし、満足な義足や義手もないというのに、松葉づえや代わりになる棒を器用に使い、家事や靴磨きなどの仕事に懸命に励んでいる子も多い。
あなたがこの時代のカンボジアに生まれていたら、これはあなたの歴史になっていたかもしれないのだ。
イデオロギーの持つ力は、どんなに愚かしく思えることでも可能に してしまう。それが狂気と結びついた時、計り知れない悲劇が起こるのだ。 ポル・ポトはそれを証明して見せた。
人間の尊厳とは何なのか? 命の尊さとは? 自由とは? 平等とは? ツールスレンの監獄で虐殺された人々 ・・・犠牲となった多くの人々は、もはや何も語ってはくれない。
うず高く積み重ねられた白骨の山を目前にする時、人間がどうしたらこんなに残酷になれるのか、私たちは問わずにはいられない・・・
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_d.html
~総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺~
雲一つない炎天下に広がる朽ち果てた白骨の群れ。殺伐とした荒野には、直径3メートルほどの穴が幾つも並び、その中に数十体の白骨化した遺体が、無造作に投げ込まれている。緑色の汚水にまみれて累々と積み重ねられた腐乱死体からは、ものすごい臭気が漂っている。そこら中、死者の白骨とカサカサになった衣類の切れ端が散らばり、頭上には、人間の毛髪でつくられたと見られる鳥の巣が潅木の茂みに見える・・・この世のものとは思えぬ壮絶な地獄の風景が地の果てまで延々と連なっている。 これは「キリング・フィールド」とい
う映画のワンシーンだが、しかし映画だけの話ではない。豊かで恵まれた農業国と言われ、インドシナのオアシスとうたわれた国で、現実に起こった出来事なのである。ポル・ポト時代のカンボジアでは、まさに、戦慄すべき地獄がこの世に現出したのである。わずか4年間で数えきれないほど多くの人間が殺され、破壊と憎悪が吹き荒れたのだ。生き残った人々でさえ、その心の奥には、永久に拭い去ることの出来ぬ悲しみと苦痛が刻み込まれたのである。 総人口800万足らずのこの小さな国で、実に200万から300万近
くの人間が虐殺されたのだ。正確な死者数は、今尚もってわからない。革命が盛り沢山と言われた20世紀でも、これほど高い比率で虐殺が行われた例は、カンボジアを除いてどこにもない。この前代未聞の大量虐殺は、わずか4年間で達成されたのである。知識人と言われた人々にいたっては、実に6割以上が殺されたという。
不条理で得体の知れない恐怖が、人々を襲い、悪魔にしかなし得ない残酷な行為が行われたのである。猟奇的とも言える大虐殺はいかにして起こったのか?
* ベトナム戦争がもたらしたもの * 19世紀、カンボジアは、ラオス、ベトナムとともに、フランスの植民地であった。ところが、1953年にこれらの国々で独立運動が起こると、それは、第一次インドシナ戦争に発展した。フランスは、敗れ、カンボジアの独立をしぶしぶ承認することとなった。この時、この国は、シアヌーク王が国家元首となって政権を握り、やや左寄りの路線を歩もうとしていた。一方、隣国のベトナムは、共産党の指導する北と親米派の南に分断され、政権争いを始めていた。ラオスでも同様で、親米派と反親米派の対立が続いていた。特にベトナムでは、北と南の対立は、武力衝突にまで発展し、65年、南からの援軍要請を受けたアメリカが参戦すると、今度は、北を中国やソ連が後押しするという全面対決の様相を見せ始めた。
ベトナム戦争は、その後、激化の一途をたどり、アメリカは、どんどんと泥沼に足を踏み入れて行くことになる。 追い詰められ余裕のなくなったアメリカは、北への大規模な爆
撃を開始した。枯れ葉剤、ナパーム弾などありとあらゆる非人道的兵器を無差別に使用していったのである。 左よりの路線を歩むカンボジアは、この頃、中立的立場を取って
いた。しかし、南ベトナムが勝利すると、自国が脅かされる恐れがあった。しかも、南ベトナムは、自由クメールと名乗る反シアヌーク派の拠点にもなっていたのである。 北への執拗な爆撃を繰り返すB52
戦略爆撃機、日によっては50回も出撃した。 そこで、シアヌークは、ベトナム国境寄りのカンボジア領内に北ベトナム軍の補給基地をつくり、軍隊の駐留、移動などを秘密裏に認めていた。 北ベトナム軍にとっ
て、カンボジア領内は、安全地帯となった。ここに留まる以上は、爆撃を受ける心配はなく、同時に、カンボジアの米なども補給出来るのである。しかし、こうした一連の関係は、カンボジアをベトナム戦争に巻き込んでいくことを意味していた。
苛烈化するベトナム戦争、やがて、戦場は、カンボジア国内まで広がった。 アメリカとしては、北ベトナムを完膚なく叩き潰すためには、カンボジアを手なずけ、この方面での爆撃を有利に展開させる必要があった。そこで、アメリカは、親米派のロンノル将軍に巨額の軍資金を提供し、バックアップをすることを約束して、シアヌークを追い出すことを画策したのである。1970年、シアヌークがフランス休暇旅行の最中、クーデターは起き、それは見事成功した。ロンノルは政権を樹立し、追放されたシアヌークは、そのまま北京へ亡命してしまった。 カンボジ
アがロンノル政権になり、もはや、憂慮すべき事態もなくなったアメリカは、気がねなく、北ベトナム軍の補給基地に爆撃を行うことが出来るようになった。その結果、たちまち30万のカンボジア人が死に、200万以上と思われる避難民が発生することとなった。 一方、亡命したシアヌークは、国外からロンノル政権打倒を呼び掛
けていた。これに賛同したのは、北ベトナムと国内に潜伏するカンプチア共産党、つまり後のクメール・ルージュだった。これによって、今まで、平穏だったカンボジアにもついに戦火が飛び火することになる。
ロン・ノル (1913ー1986)シアヌーク政権下では、国防相だった。
ベトナムでは、中国、ソ連などの援助を受けた北ベトナムが、頑強に戦い抜き、史上まれに見る苛烈な局地戦が展開されていた。これに対し、カンボジアでは、クメール・ルージュが国内でゲリラ活動を展開し、ロンノル政権を内部から揺さぶった。かくして、カンボジア国内は、熾烈な戦闘が至る所で繰り返され、5年越しの内戦状態に突入した。 内
戦によって、首都プノンペンは、物や食料の不足は深刻化し、民衆の不満は高まるばかりで、おまけに、テロと陰謀が渦巻き大混乱に陥っていた。国土の6割がたは、解放勢力の手に落ち、主要幹線は、いたるところで切断されている有り様だった。北ベトナム軍は、カンボジア領内に入り込んでいたので、それを追撃してきた南ベトナム軍、アメリカ軍と間で猛烈な戦闘を展開していた。大被害を被ったのは、カンボジア人で、彼らの中には、ベトナム人への憎悪が高まり、ベトナム追い出し政策に火をつけることになった。
クメール・ルージュとベトナム共産軍との間でも、何度も武力衝突が起こり、もはや決裂は明らかとなった。
* ついに放たれた狂気 * やがて、膨大な軍事費と
甚大な被害に疲弊したアメリカは、ベトナムから完全撤退することを決定してしまう。これは、言わば、敗北宣言にも等しいものであった。1975年、アメリカ軍が撤退してしまうと、後ろ楯を失ったロンノル政権はたちまち崩壊していった。
そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。かくして、恐るべきパンドラの箱は、開かれたのである。ギリシア神話で、女神が、誘惑に負けて開いた瓶からは、ありとあらゆる災いが放たれ人々を不幸のどん底に追い落とすという話が現実のものとなったのだ。 1975年4月17日、その日 が恐怖政治の始まりだった。
この日から丸4年間、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れるのである。
今まで常識と思われたことが一切通用しなくなっていくので ある。
この時、まもなく、空前絶後の大虐殺が始まることになろうとは、誰が予想し得たであろうか? トラックに乗ってプノンペンに入城してきたクメール・ルージュの兵 士
この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。
彼らは、すべて十代かそこらの兵士で、黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。
ついに、内戦が終わったと信じた民衆 は、歓声を上げて彼らを笑顔で迎えた。
しかし勝者のはずの彼らには、笑いも開放感もなく、何が気に入らぬのか不機嫌そうに押し黙っているだけであった。
強制退去によって200万人いた首都プノン ペンは、ゴーストタウンと化した。
しかし、まもなく、民衆も歓声どころではなくなった。
全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。
その理由にしてもバラバラで、B52の爆撃があるから疎開させるのだとか、都市では食料が足りないから農村に移すだけだとか、退去は、一時的なものですぐに帰って来られるとかいう支離滅裂な説明がなされるだけだった。
民衆は、着の身着のままで農村部に追い立てられることになった。
これらは、実に迅速に実行されたので、ほとんどの人は国外に逃げることも出来なかった。
そのうち、強制退去の実行それ自体が冷酷極まりないものになっていった。
問答無用となり、もし、少しでも逆らえば、容赦なく殺され 出したのである。
病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。
何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいた が、彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。
瀕死の子供を抱き上げ、泣きながら歩いてゆく父親、両手両足がなく、もがきながら連れて行かれる病人たち・・・それは、まさに絶望的で信じられない光景であった。
クメール・ルージュの兵士たち、ほとんどが、13才程度の子供ばかりだった。
彼らは、わずかな食料と身の回り品だけを携えて、徒歩で移動せねばならなかった。それは絶望的な行進であった。中には、一か月以上も歩かされた集団もあった。こうした無理がたたって、体の弱い赤ちゃんや老人などが、次々と死んでいった。
それと、同時に クメール・ルージュがしたことは、新国家建設のための協力者を集めることだった。
前体制下の将校、医師、教師、技術者、僧侶などは名乗り出るように命じられた。
また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。
カンボジアを理想の国家にするために、君たちの知識、技術力が必要だとかいうスローガンが掲げられ、その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。
これら集まって来た人々は、プノンペンに帰って国家建設のため働いてもらうとか言われトラックに乗せられた。
しかしこれは恐ろしい罠であった。
彼らは、途中で道路上で投げ出され、機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。
留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生たちも殺された。
彼女らは処刑されるために帰って来たようなものであった。
男女の教員を、ひとり残らず、高い絶壁から突き落として殺してしまったこともある。
音楽・映画、恋愛などは、資本主義的行為とされ全面的に禁止され た。
貨幣もなくなり、米がそれに代わるものとなった。
クメール・ルージュは、人々の心に安らぎを与えている仏教すら潰そうとした。
宗教は全面的に禁止され、かつて大事にされていたお坊さんは、寄生虫とか黄色い衣装を着た怠け者とか蔑まれた。
僧侶は強制的に還俗させられ、農作業やダムの工事現場に追いやられた。
そして寺院は、ことごとく豚小屋や集会場に早変わりしてしまい、モスクは倉庫と化した。
押収したコーランはトイレットペーパーになった。
教育も一切必要なかった。
授業はあるにはあったが、一日30分程度、それも革命の歌やスローガンを連呼するための時間だけだった。
国民に課せられた使命は、農作業や土木工事など、ただアリのように黙々と働き続けることだけだったのだ。
* 恐怖の子供 兵士 *
ポル・ポトの目指したものは、一体何だったのか?
彼は、フランス留学中に、極端な左翼思想に染まっていったと言われている。
彼が入党したフランス共産党は、ヨーロッパの 数ある共産党の中でも、最も過激でスターリンの思想に傾倒していたものであった。
絶対的な権力による政治支配、異端者の完全抹殺と有無を言わさぬ政策の押し付けなどは、スターリン特有のものである。スターリンは、1930年代に2千万人という血の粛清を行い、恐怖の政治を現出した独裁者としても知られている。
ポル・ポト
(1925ー1998)
ちょっとした反革命的言動、根も葉もない噂、果てはスターリン個人の好き嫌いのみで、多くの人間が深夜に引き立てられ銃殺されたのである。
当時、人々は、秘密警察による深夜のノックに震えおののいたという。
それは、あたかも、中世ロシアのイワン雷帝のオプリーチニク(親衛隊)の伝統を受け継いでいるようにも見えた。
過去からの一切合切を切り離そうとし ていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて病原菌なのであった。
病原菌は、速やかに駆除しなければならないというのが彼らの理論 だった。
踊り子や歌手を始め、僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者、知識人は、すべて処刑の対象となった。
都市に住みメガネをかけているだけで知識階級と
見なされ殺されたのだ。 泥にまみれて累々と散らばる白骨の群れ
それは、まるで腐った果実は、まとめて処分するように、無造作に一カ所に集められて殺されたのである。 このように知識人だというだけで大量に処刑された例は、世界にも前
例はない。しかし、このような政権が、まともに運営されるはずもなく、やがては行き詰まり、絶望的な中で崩壊していくことはもはや明らかであった。 その結果、頭の中に旧来の知識を全く持たな
い子供だけが重視されるようになっていった。大人は、信用出来ず、信じられるものは、子供だけになった。 子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子
供看守、子供医師という特異な存在が次々と生み出されていったのである。 虐殺革命の正体、
人間の尊厳とは何なのか?
子供医師の中には、全く字も読めないような子もいた。
彼らは、名目だけの3か月程度のにわか仕込みの教育を受けて、医療業務をまかされたのである。
子供医師にかかり注射を受けた者の多くは傷口が化膿した。
医療の知識も何もない子供が、ろくに消毒もせずいきなり注射をしようとするのだから当然である。
多くの者は、傷口が紫色に腫れ上がり敗血症になって命を落としていった。
彼らは手術すら行うこともあった。
しかしその実体は、興味本位の人体実験と何ら変わりのないものであった。
生きたまま柱にくくりつけられ、面白半分に大きな切り口をつけられ、傷口を両側に押し広げられて死んだ哀れな患者もいたという。
子どもはスパイとしても使われた。
周囲に誰もいないと油断して、革命への不満を漏らそうものなら命取りとなった。
小さな子供が家の床下などに潜んで聞き耳を立てているかもしれなかったからだ。
うっかり漏らした不平や不満、それを聞いた子供が、組織に通報しようものなら、例え、身に覚えがなくても一巻の終わりなのである。
死は日常の中に入り込んでいた。生活 に死というものが常に密着していた。
なぜ? どうして? という疑問は感じてはならないのだ。
うっかり、英語とかフランス語を口にしようものならそれで殺されるのである。
じゃがいもの袋に入れられて川に沈められるかゴミのように銃の台尻で殴り殺されるかどちらかであった。
正しいこと、常識あること、理性ある行いなど、もうどこを探しても存在しなかった。 ある夜、 囚人全員が連れ出されて処刑されたことがあった。
しかし、その中に、からくも命を取り留めることが出来た囚人が一人だけいた。
それは、なぜか? 彼は、元英語の教師をしていたが、 イソップ物語や童話の話を語って聞かせるのがうまい人物だった。
彼は、十代の子供看守たちを相手に、日頃、これらの話をして聞かせていた。
学校の教育も満足に受けたことのない子供看守た ちにとって、彼の語りかける話は、新鮮で実に興味深い内容だった。
子供たちは、目を輝かせて彼の話に聞き入っていた。
囚人全員を殺せという命令が来ても、殺してしまうのは、もったいないと考えた子供看守たちは、あえて彼を生かしておいたのである。
ツールスレンにあった監獄、ここで多くの人間が殺され、ほとんどが生還しなかった。
ある男が痩せた犬を殺してその肉を食ったことがあった。
男は翌日、少年兵士たちに連行され、犬の肉を食ったという罪で拷問を受け、銃の台尻で殴り殺された。
流行歌を歌っただけでも殺された。
歌いたい時は、回りに誰もいないことを確認して、こっそり歌わねばならなかった。
もし子供や少年兵に聞かれでもしたら最後だった。
有名な歌手や踊り子は、身元がばれ次第殺された。
したがって、彼らは野菜売りだとか農民だったとかと偽って生き延びるしかなかった。
ある踊り子は、過去を偽り、農作業やダム工事などに従事していた。
彼女は、70年の大阪万博の際、特別公園したほどの舞踏の大スターだった。
白魚のようになまめかしい細い指は、ひたすら荒れ土をいじったり、重い石を運び、砕いたりすることにのみ費やされた。
飢えと疲労に悩まされながらも、生きるために必死になって慣れない重労働に苦闘し続けた。
身元がばれそうになると、夜逃げを繰り返した。
一度は、彼女の美しさに目をつけた革命幹部から逃れるために、弟を夫だと偽ったりしてかろうじて難を逃れたこともあったという。
だが、ロン・ノル時代にすでに有名だった歌手には、もうどこにも逃げ道はなかった。
多くのスター歌手や有名人は、ただそれだけで殺されたのである。
ある女性歌手は、知っている歌を歌い続けろと命令されて死ぬまで歌わされたという話が残されている。
彼女は歌う歌がなくなると同時に処刑されたのである。
このような例を挙げると枚挙に暇ない。
ポル・ポトが支配していた4年間は、まさに、このような行為が日常茶飯事に起きていたのである。民衆はポル・ポトに従うしかなかった。
そして、彼の手先となって殺戮を繰り返す少年兵士に怯えた。
彼らはほとんどが13才程度の子供で、徹底的な洗脳によってポル・ポトを神とあがなう狂信的集団に変化していた。
命令があれば肉親でも殺せる集団でもあった。
この 地獄は丸4年間続いた。
しかしポル・ポトが政権を握って、4年目になろうとする頃、ベトナムとの戦争も最終局面を迎えていた。
ポル・ポト打倒を目指すカンボジア救国民族統一戦線がハノイで結成され、この中には、仏教徒代表など知識人を代表する数多くのメンバーも顔を揃えていた。
彼らは、最後の決着をつけようと、大規模な攻撃を画策していたのである。
1978年も終わる頃、ベトナム軍は15万の大軍で、あらゆる方向から侵入して来た。ベトナム軍の進撃の前に子供兵士の多いポル・ポト軍は、とても持ちこたえることが出来ず、カンボジア国内の大部分は、たちまち占領されてしまった。侵攻開始から2週間目、1月6日には、早くも首都プノンペンが包囲され、翌日にはあっけなく陥落してしまうほどだった。
その後も、クメール・ルージュは、森の中で、ゲリラ戦を続けていくことになるが、恐怖の大量虐殺に終止符が打たれたのはこの頃であったと言われている。
* 地獄を生き抜いた少女の話 * ここに、この地獄を生き抜いた一人の少女の体験がある。彼女はその時まだ5才だった。多情多感な彼女にとって、ポルポト時代のカンボジアはどう映っていたのだろうか? その少女の
仕事は、毎朝、川に水を汲みに行くことだった。その日も、バケツを二つ交互にぶら下げた棒を肩に担いで、川岸に来たところが、彼女より少し年上の女の子が腰に手をあてて困ったようなしぐさで、少し離れた川岸を棒でしきりにつついているのが見えた。近寄ってよく見ると、女の子が棒でつついているのは、浅瀬の茂みに引っ掛かっている死体だったのである。それは、大人の男の死体で、死後かなりの時間が経過しているのか、腐乱して驚くほど膨張している。黒い服から出た手足は、白いゴムのように光り、膨らんでいる。その死体は、川の流れに揺らいでいたが、ズボンが浅瀬の小枝に引っ掛かって流れずにいたのである。女の子が棒を突く度に、死体は、ゆらゆらと上下に揺れて波紋が広がるが、一向に動く気配がない。「死体から出る汁がバケツに入るから流してしまいたいの」と女の子は言うのである。結局、二人は相談して、一斉に頭と胴体を押すことで、その死体を流すことにした。それは、うまくいったと見えて死体は、黒い髪をくゆらせながら、ゆっくりと下流に流れて行った。少女は吐き気が込み上げてくるのを堪えてその場を離れたが、目に焼き付いた光景は、その後、何十年も悪夢に出て来ることになった。 労働キャンプでは、決定的に食料が欠乏していた。飢えと
恐怖が人間を敵同士にし、あさましいものに変えていった。どこを探そうが食べる物などどこにもなかった。栄養失調からくる胃の痛み、関節痛、疲労感が家族全員を襲った。母は、お腹が減ったと言って泣き続ける弟を胸に抱きしめている。まだ3才だった弟はすっかり痩せてしまい、ほほ骨が突き出している。ふっくらとしていたほっぺたは、今では骨に皮が張りついているだけで、つぶらな瞳は、輝きを無くし飢えのためにどんよりと曇ってしまった。 少女は、家族のために食べ物を探しに行かなくてはならな
かった。茂みでカエル、コオロギ、バッタと食べられるものは、何でも捕まえようとするが、小さくて体力がなくて動作ののろい彼女には捕まえることは出来ない。ある日のこと、一人のおばあさんの横にお握りが置かれているのを見つけたことがあった。おばあさんは、小柄で白髪が頭にへばりつき、胸で苦しそうに呼吸をしていた。少女は胸をどきどきさせながら、おばあさんの後ろに近寄ると、さっとそれをつかんでポケットに入れた。そして足早にその場を去った。ポケットにお握りの重さを感じながら。一人になって取り出したお握りは、こぶし大の大きさで、それを見つめていると、さきほどのおばあさんを思い出して胸が痛んだ。おばあさんは、きっともう、代わりのお握りがもらえないだろう。彼女はそう思うと涙がボロボロ出て来た。目の前の景色が涙でグニャグニャになった。お握りを口に運んだが、同時にしょっぱい涙が口の中に流れて来るのを止めることが出来なかった。 1978年頃に
なると、粛清がさかんに行われるようになった。虐殺は、無差別化し、少しでも疑われると一般農民でさえも殺されるようになった。少女の母と3才の弟も、この時、クメール・ルージュの手にかかり殺された。
その日、少女 の母と3才の弟は、20人ほどの村人とともに連行され、泥の中にひざまずかされた。
横にいた男は、恐怖のためにその場にうずくまり失禁してしまった。
泣き叫ぶ小さな弟は、兵士によって無理やり母から引き離されてしまった。
必死になって泣き叫び、命ごいをして立ち上がろうとする村人に、突然、ライフルの音が響き渡った。静寂が一瞬訪れた。
弟が、泣きながら泥に顔を埋めてうずくまる母のもとに走り寄って来る。
何が起こったのかわからない弟は、母親の名を呼びながら、懸命に肩をゆすり、ほほや耳にさわり、最後は髪をつかんで泥から顔を起こそうとするが、力が足りない。
何度か繰り返すうちに、小さな手に母の血がべっとりとついた。
数秒後、その弟も撃ち殺され、もう悲鳴を上げる者はいなくなった。
1979年1 月、ベトナム軍が首都プノンペン攻略を開始すると、クメール・ルージュは、山間部に敗走した。
こうして、丸4年クメール・ルージュの手にあったプノンペンは解放されたのである。
まもなく、ベトナム軍が、全国にあった強制労働キャンプを解体し始めると、ようやく人々に生きる希望が戻って来た。
少女は、その後、一番上の兄とともに、アメリカに行 くことを決心した。
戦火で荒廃したプノンペンから、密かに船でメコン川を下り、無事にベトナムにたどり着くことが出来たのである。
そして、彼らはサイゴンで数カ月を過ごした後、闇にまぎれ、航路でタイに逃れたのである。
途中、サメの恐怖や海賊の襲撃で、身に付けていた父の最後の形見すらなくしてしまったが、かろうじて難民キャンプにたどりつくことが出来たのであった。
幸 運にも、身元引受人が見つかった彼女は、兄とともにアメリカに渡り新しい人生を歩み出すことになった。
35年経った現在、彼女は世界の各地で平和を訴え、地雷廃絶キャン ペーンを続けている。
彼女の体験を綴った著書「最初に父が殺された」には、両親、姉、幼い弟などを次々に殺された深い悲しみが込められている。
しかし、その悲しみを乗り越えて、勇敢に 生き抜こうとする不撓不屈の精神は、多くの人々に深い感銘と感動を与え続けている。
あの時の少女は大人になった。アンコールワットで物売りの少女とともに。
「最初に父が殺された」より
* 悪夢のつめ痕 * 20世紀には、確かに驚くほど多くの革命があった。しかし、どのような革命も、カンボジアで起きた悪夢には及びようがない。これほどまでに異常な革命は世界史上類を見ない。一人の男が描いた稚拙で愚かな夢が、権力を掌握した時、それはただの夢ではなくなった。「まさか? 本当に? どうして?」と誰もが思う信 じられないことが、実際に起き、実現されたのだ。
あれから35年が経った。しかし内戦の傷跡は、いたるところに残されたままだ。農村は、荒廃し、未だに立ち直りのきざしさえ見せてはいない。内戦の負の遺産とも言われる数千万個の地雷は、いたるところに埋まったままである。街では、片手片足をなくした幼ない子供たちをよく見かける。彼らは地雷や不発弾のために、片手片足を無惨にも吹き飛ばされたのだ。しかし、満足な義足や義手もないというのに、松葉づえや代わりになる棒を器用に使い、家事や靴磨きなどの仕事に懸命に励んでいる子も多い。
あなたがこの時代のカンボジアに生まれていたら、これはあなたの歴史になっていたかもしれないのだ。
イデオロギーの持つ力は、どんなに愚かしく思えることでも可能に してしまう。それが狂気と結びついた時、計り知れない悲劇が起こるのだ。 ポル・ポトはそれを証明して見せた。
人間の尊厳とは何なのか? 命の尊さとは? 自由とは? 平等とは? ツールスレンの監獄で虐殺された人々 ・・・犠牲となった多くの人々は、もはや何も語ってはくれない。
うず高く積み重ねられた白骨の山を目前にする時、人間がどうしたらこんなに残酷になれるのか、私たちは問わずにはいられない・・・
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_d.html
「クメール・ルージュ」という俗称はシハヌークがつけた呼称である
クメール・ルージュ
クメール・ルージュ
クメール語: ខ្មែរក្រហម カンボジア内戦、カンボジア・ベトナム戦争に参加
民主カンボジアの旗
アンコールワットが描かれている 活動期間 1968年–1996年 活動目的 農村社会主義(英語版)
クメール・ナショナリズム(英語版)
左派ナショナリズム 指導者 サロット・サル(ポル・ポト) 本部 プノンペン 関連勢力 アメリカ、中国、民主カンボジア、カンプチア共産党、カンプチア国家統一党
敵対勢力 ベトナム、ソ連、カンプチア救国民族統一戦線、カンプチア人民共和国、カンボジア王国
クメール・ルージュ(フランス語: Khmer Rouge、クメール語: ខ្មែរក្រហម、中国語:紅色高棉)は、かつて存在したカンボジアの政治勢力、及び武装組織。民主カンプチアにおけるカンプチア共産党とサロット・サル(ポル・ポト)による独裁体制を支え、民主カンプチア崩壊後はカンプチア人民共和国やカンボジア王国への抵抗を行った勢力の総称として用いられる。
「クメール・ルージュ」(赤色のクメール)という俗称はロン・ノル政権前のノロドム・シハヌーク時代、反サンクムの武闘左翼勢力をさしてシハヌークがつけた呼称である[1]。その後、内戦時代を経てカンプチア共産党を初めとする諸政党を粛清したサロット・サル(ポル・ポト)が率いる政治勢力と同義語となった。他勢力との類似や混同を混乱を避けるためにポル・ポト派とも呼ばれる。
1953年、ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアが独立すると、極左武装勢力クメール・ルージュは反シハヌーク闘争を開始した。
1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は局地的にとどまり、食糧は輸出するほど豊富で大量の国内避難民も発生していなかった。
この当時クメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。
1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる[2][3]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも安かったのである[4]。サムロート周辺の掃討作戦は数ヶ月間続き、左右の衝突が増え、共産主義者への弾圧が強化される。
1970年、アメリカに支持されたロン・ノルのクーデターで王政が廃位された直後、アメリカ軍と南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。
さらにこれまで局地的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民化した[5]。
とくに東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた[6]。
この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成、反米・反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかける。
1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌークを支持する暴動が起きたが、武力鎮圧された。
当時の州知事によればこの地域だけで2-3万人の農民が共産主義の影響を受けていた[7]。
その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州の州都で同様の蜂起が起こるも、武力で鎮圧された。
クメール・ルージュ勢力が伸張した背景には、シハヌークがロン・ノルにより追放された後、クメール・ルージュ側についたことで国王を慕う農民層がクメール・ルージュを支持するようになったこと、及びロン・ノル政権の腐敗に対する大衆の反発と、冷戦下における中華人民共和国の中国共産党による支援があった。
また当時、ウィリアム・ウェストモーランド将軍が率いるアメリカ軍は、第二次世界大戦で日本に投下した総量の3倍もの爆弾をカンボジアに投下し、数十万の農民が犠牲となった。これにより農業インフラは徹底的に破壊され、カンボジアは食糧輸出国から輸入国へ転落した。
カンボジアの食糧生産は1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、1974年には耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した[8]。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している[9]。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。
クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ撤退後の反植民地主義と極端な毛沢東思想を組み合わせたものである。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中に、そうした思想に親しんだ。またカンボジアの共産主義者の間には、ベトナム人への長い服従に対する反感があった。彼らは政権を握った時、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」として賞賛した[疑問点 – ノー
ト]。
民主カンプチア[編集]
「完全な共産主義社会」[編集]
クメール・ルージュは、カンボジアの国名を「カンボジア王国」から「民主カンボジア」に変更した。こうしたなか、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告[34]し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測[35]していた。こうした事態のなか、クメール・ルージュは食糧増産を図る為、プノンペンなど大都市住民、資本家、技術者、知識人など知識階級から一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させ農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。さらに一切の近代科学を否定した。クメール・ルージュはこれを「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」と称した。
移住させられた人々は、「集団農場」で農業に従事させられる一方、知識人階級は「反乱を起こす可能性がある」とされ殺害された。親ベトナム派や反乱の可能性を疑われたクメール・ルージュ内の人間も殺された。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も、殺された。子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。
戦争で国内が疲弊し海外からの食糧援助がすべて打ち切られた状態の中、クメール・ルージュはソ連やベトナムとも断交し、高度な専門知識、工業、貨幣制度をも否定した。そして原始共産制社会を理想とする極端な重農政策を強行したが、非現実・非科学的な政策はカンボジア全土に一層深刻な食糧危機をもたらした。
大量殺戮[編集]
クメール・ルージュ犠牲者
この政策は、強制労働および飢饉を通じて、カンボジア人の大量死に至った。クメール・ルージュ政権は、更に旧政権関係者、富裕層、各種専門家および知識人への関係を持った者および親ベトナム派の党員、ベトナム系住民を殺戮した。
クメール・ルージュによって殺戮された人々の数が、さまざまな立場で検討されている。ヘン・サムリン政権は330万人が死んだと主張した(これはのちに下方修正された)。CIAは5万から10万人がクメール・ルージュによって殺害されたと推測したが、これには飢餓による死者数を含まない。アメリカ国務省、アムネスティ・インターナショナル、イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトの3者は、それぞれ120万人、140万人および170万人と推計している。これらの機関は内戦時代の爆撃や戦闘による死者数については数字を出していない。 フィンランド政府の調査団
は、ポルポト以前の死者(戦闘・爆撃による)を60万人、ポルポト以後の死者を100万人としている。カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態がつかめていないために、こうした諸推計にも大きく開きが出ている。
クメール・ルージュ支配下のカンボジアに残留した日本人女性は7名。そのうち5名は死亡または行方不明。内藤泰子(歌手の内藤やす子とは無関係の別人。夫と2人の子は死亡)と細川美智子(夫は死亡。2人の子とともに日本へ)の2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国[36][37]。
1978年5月にはポル・ポトへの反乱が疑われた東部軍管区のクメール・ルージュがポル・ポト配下の南西部のクメール・ルージュの攻撃を受け、東部地域の将兵が大量に処刑されるという事態が起きた(五月決起)。その結果ベトナム領には東部地区から十数万人の避難民が流入した。数年間の国境紛争およびベトナムへの大量の難民流入の結果、カンボジアとベトナムの関係は戦争寸前まで悪化した。クメール・ルージュは同年の4月にベトナムに侵入し、バ・チューク村の住民のほとんどを虐殺していた(村民3,157名のうち生き残ったものは僅か2名)。
同年の12月25日、ベトナム軍は10個師団もの兵力を国境に集め、カンボジアからの避難民から組織されたカンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS) を先頭にカンボジアに侵攻した。カンボジア・ベ
トナム戦争の発生である。
ベトナム軍は「カンボジアをクメール・ルージュの魔手から解放しようとしているKNUFNSを後方から支援しているだけ」という立場をとっており、ベトナム正規軍はカンボジアにいないと言い張っていたが事実は異なっていた(実際は累計15万を超える正規軍が派遣されており、KNUFNSの構成員は2万人程度だった)。3年前まで続いたベトナム戦争を戦い抜き、実戦経験が豊富な将兵に事欠かず、装備の点でも優れるベトナム軍は粛清による混乱で脆弱となっていたクメール・ルージュの抵抗を難なく排し、驚異的な進軍速度でカンボジア領内を進み、わずか半月でプノンペンを占領、1979年1月7日にポル・ポト政権を追放した。
当時ベトナムに亡命した東部地区の軍民は、ベトナム軍による政権奪取後はヘン・サムリン政権の中心的基盤を形成した。クメール・ルージュは西へ退き、タイによって支援され、ルビーと材木の密輸による資金で長年タイ国境付近の領域を支配し続けた。1985年にはキュー・サムファンが公式にクメール・ルージュのリーダーとしてポル・ポトを継いだ。
クメール・ルージュは、ベトナムとのゲリラ戦状態に至ると、タイやアメリカ(レーガン政権)やイギリス(サッチャー政権)から資金援助を受けた。カンボジア西部に多く埋められている地雷は、この期にクメール・ルージュが埋めた物だと言われる。(東部には内戦時の爆撃の不発弾が多い。)
カンボジア侵攻に関してソ連は一貫してベトナムを支持する一方、中国は一貫してカンボジア(クメール・ルージュ)を支持していた。すなわち、クメール・ルージュとベトナムの対立は、中ソ対立の代理戦争の様相を呈していたのである。反ベトナムで結束するアメリカやタイをはじめとする西側諸国はクメール・ルージュの国連でのカンボジア代表権を支持・承認した。このため、クメール・ルージュによる大量虐殺などの暴挙は国際的非難を免れることとなった。
中国は、カンボジアを占領しクメール・ルージュを追放したベトナムを激しく非難した。この対立は中越戦争で火を噴くことになるが、この時も実戦経験で勝るベトナム軍が中国軍に煮え湯を飲ませている。
クメール・ルージュは、バタンバン州のパイリンなどを拠点とし、タイの黙認のもとルビーや木材を密貿易により売却し続け、1980年代を通じ、地域一体で資金に裏付けられた支配力は維持された。1991年、全てのカンボジアの政治勢力は、選挙と武装解除を行う条約に調印した。しかしクメール・ルージュは1993年の国連監視の総選挙にも参加せず、選挙結果を拒絶し、戦闘を継続した。1996年にナンバー2のイエン・サリを含む多量離脱があり、残された兵士は半数の約4000人だった。1997年の党派の争いはクメール・ルージュ自身によるポル・ポトの監禁および裁判に結びついた。ポル・ポトは裁判で終身刑を宣告され、翌1998年4月15日に死去した。キュー・サムファンは1998年12月に投降した。クメール・ルージュの残りのリーダーは、1998年12月29日に、1970年代の大量殺戮に対して謝罪した。1999年までに、大半のメンバーは投降あるいは拘束された。
クメール・ルージュ特別法廷[編集]
「カンボジア特別法廷」も参照
自国民大虐殺、人道に対する罪などで元指導者達を裁く裁判(クメール・ルージュ裁判)は、国際連合をはじめとする国際社会の働きかけがある一方で、2006年7月3日に開始されるまで引き延ばされてきた[38]。この間、ポル・ポトが1998年に、タ・モク元軍参謀長・最高司令官が2006年に死亡するなどし、また存命中の指導者の高齢化も進みつつある。若いカンボジア人の多くは、30年近く前に起きた暗黒の歴史には無知のままである。
起訴、審理ともにカンボジア人と外国人の司法官が共同でおこなうが、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷などとは違って、当事者による裁判官の指名を認めるなど、「国際水準なみの国内法廷」という独特の法廷に関する国際連合の関与は限定されている。
二審制であり、最高刑は終身刑である。日本は、運営予算5600万ドルのうち2160万ドルを拠出している。
訴追対象者は、ヌオン・チア元人民代表議会議長やイエン・サリ元副首相ら5-10人の元最高幹部らが訴追される可能性が高いとされている。しかし、現政権はこれらの訴追対象者と司法取引を行い恩赦を与えているなど、この訴追に消極的であることが批判を受けている[39][40]。
訴追対象者も「自分は虐殺はしていない」などと強弁し、イエン・サリの妻のイエン・チリトに至っては検察官に暴言を吐くなど、自分の罪に対する反省の色が見られない。
2010年7月26日、カン・ケク・イウS21収容所元所長に対して一審では禁錮35年(求刑禁錮40年)判決を言い渡したが、2012年2月3日の上訴審判決で一審の禁錮35年を破棄して最高刑の終身刑を言い渡した。
犠牲者の救済[編集]
義捐金支援[編集]
長年カンボジアで支援活動を継続している、日本人の半田晴久が「クメール・ルージュによるジェノサイドの犠牲者への補償、および追悼のためのDr.HANDA 基金」を設立し、犠牲者を救済するための支援を
行っている[41]。2009年2月までに、クメール・ルージュの遺族3,703世帯が義捐金を受けた[42]。同基金は義捐金を手渡しで犠牲者へ贈る授与式を5度行い、同時に遺族の体験を記録する活動を行っている。
~~~~~~~~~~~
カンボジアの歴史、酷過ぎ。田舎に追いやられて農業につくように指導された知識人の6割がクメール・ルージュに殺された。
クメール・ルージュ
クメール語: ខ្មែរក្រហម カンボジア内戦、カンボジア・ベトナム戦争に参加
民主カンボジアの旗
アンコールワットが描かれている 活動期間 1968年–1996年 活動目的 農村社会主義(英語版)
クメール・ナショナリズム(英語版)
左派ナショナリズム 指導者 サロット・サル(ポル・ポト) 本部 プノンペン 関連勢力 アメリカ、中国、民主カンボジア、カンプチア共産党、カンプチア国家統一党
敵対勢力 ベトナム、ソ連、カンプチア救国民族統一戦線、カンプチア人民共和国、カンボジア王国
クメール・ルージュ(フランス語: Khmer Rouge、クメール語: ខ្មែរក្រហម、中国語:紅色高棉)は、かつて存在したカンボジアの政治勢力、及び武装組織。民主カンプチアにおけるカンプチア共産党とサロット・サル(ポル・ポト)による独裁体制を支え、民主カンプチア崩壊後はカンプチア人民共和国やカンボジア王国への抵抗を行った勢力の総称として用いられる。
「クメール・ルージュ」(赤色のクメール)という俗称はロン・ノル政権前のノロドム・シハヌーク時代、反サンクムの武闘左翼勢力をさしてシハヌークがつけた呼称である[1]。その後、内戦時代を経てカンプチア共産党を初めとする諸政党を粛清したサロット・サル(ポル・ポト)が率いる政治勢力と同義語となった。他勢力との類似や混同を混乱を避けるためにポル・ポト派とも呼ばれる。
1953年、ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアが独立すると、極左武装勢力クメール・ルージュは反シハヌーク闘争を開始した。
1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は局地的にとどまり、食糧は輸出するほど豊富で大量の国内避難民も発生していなかった。
この当時クメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。
1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる[2][3]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも安かったのである[4]。サムロート周辺の掃討作戦は数ヶ月間続き、左右の衝突が増え、共産主義者への弾圧が強化される。
1970年、アメリカに支持されたロン・ノルのクーデターで王政が廃位された直後、アメリカ軍と南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。
さらにこれまで局地的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民化した[5]。
とくに東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた[6]。
この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成、反米・反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかける。
1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌークを支持する暴動が起きたが、武力鎮圧された。
当時の州知事によればこの地域だけで2-3万人の農民が共産主義の影響を受けていた[7]。
その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州の州都で同様の蜂起が起こるも、武力で鎮圧された。
クメール・ルージュ勢力が伸張した背景には、シハヌークがロン・ノルにより追放された後、クメール・ルージュ側についたことで国王を慕う農民層がクメール・ルージュを支持するようになったこと、及びロン・ノル政権の腐敗に対する大衆の反発と、冷戦下における中華人民共和国の中国共産党による支援があった。
また当時、ウィリアム・ウェストモーランド将軍が率いるアメリカ軍は、第二次世界大戦で日本に投下した総量の3倍もの爆弾をカンボジアに投下し、数十万の農民が犠牲となった。これにより農業インフラは徹底的に破壊され、カンボジアは食糧輸出国から輸入国へ転落した。
カンボジアの食糧生産は1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、1974年には耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した[8]。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している[9]。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。
クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ撤退後の反植民地主義と極端な毛沢東思想を組み合わせたものである。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中に、そうした思想に親しんだ。またカンボジアの共産主義者の間には、ベトナム人への長い服従に対する反感があった。彼らは政権を握った時、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」として賞賛した[疑問点 – ノー
ト]。
民主カンプチア[編集]
「完全な共産主義社会」[編集]
クメール・ルージュは、カンボジアの国名を「カンボジア王国」から「民主カンボジア」に変更した。こうしたなか、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告[34]し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測[35]していた。こうした事態のなか、クメール・ルージュは食糧増産を図る為、プノンペンなど大都市住民、資本家、技術者、知識人など知識階級から一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させ農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。さらに一切の近代科学を否定した。クメール・ルージュはこれを「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」と称した。
移住させられた人々は、「集団農場」で農業に従事させられる一方、知識人階級は「反乱を起こす可能性がある」とされ殺害された。親ベトナム派や反乱の可能性を疑われたクメール・ルージュ内の人間も殺された。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も、殺された。子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。
戦争で国内が疲弊し海外からの食糧援助がすべて打ち切られた状態の中、クメール・ルージュはソ連やベトナムとも断交し、高度な専門知識、工業、貨幣制度をも否定した。そして原始共産制社会を理想とする極端な重農政策を強行したが、非現実・非科学的な政策はカンボジア全土に一層深刻な食糧危機をもたらした。
大量殺戮[編集]
クメール・ルージュ犠牲者
この政策は、強制労働および飢饉を通じて、カンボジア人の大量死に至った。クメール・ルージュ政権は、更に旧政権関係者、富裕層、各種専門家および知識人への関係を持った者および親ベトナム派の党員、ベトナム系住民を殺戮した。
クメール・ルージュによって殺戮された人々の数が、さまざまな立場で検討されている。ヘン・サムリン政権は330万人が死んだと主張した(これはのちに下方修正された)。CIAは5万から10万人がクメール・ルージュによって殺害されたと推測したが、これには飢餓による死者数を含まない。アメリカ国務省、アムネスティ・インターナショナル、イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトの3者は、それぞれ120万人、140万人および170万人と推計している。これらの機関は内戦時代の爆撃や戦闘による死者数については数字を出していない。 フィンランド政府の調査団
は、ポルポト以前の死者(戦闘・爆撃による)を60万人、ポルポト以後の死者を100万人としている。カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態がつかめていないために、こうした諸推計にも大きく開きが出ている。
クメール・ルージュ支配下のカンボジアに残留した日本人女性は7名。そのうち5名は死亡または行方不明。内藤泰子(歌手の内藤やす子とは無関係の別人。夫と2人の子は死亡)と細川美智子(夫は死亡。2人の子とともに日本へ)の2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国[36][37]。
1978年5月にはポル・ポトへの反乱が疑われた東部軍管区のクメール・ルージュがポル・ポト配下の南西部のクメール・ルージュの攻撃を受け、東部地域の将兵が大量に処刑されるという事態が起きた(五月決起)。その結果ベトナム領には東部地区から十数万人の避難民が流入した。数年間の国境紛争およびベトナムへの大量の難民流入の結果、カンボジアとベトナムの関係は戦争寸前まで悪化した。クメール・ルージュは同年の4月にベトナムに侵入し、バ・チューク村の住民のほとんどを虐殺していた(村民3,157名のうち生き残ったものは僅か2名)。
同年の12月25日、ベトナム軍は10個師団もの兵力を国境に集め、カンボジアからの避難民から組織されたカンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS) を先頭にカンボジアに侵攻した。カンボジア・ベ
トナム戦争の発生である。
ベトナム軍は「カンボジアをクメール・ルージュの魔手から解放しようとしているKNUFNSを後方から支援しているだけ」という立場をとっており、ベトナム正規軍はカンボジアにいないと言い張っていたが事実は異なっていた(実際は累計15万を超える正規軍が派遣されており、KNUFNSの構成員は2万人程度だった)。3年前まで続いたベトナム戦争を戦い抜き、実戦経験が豊富な将兵に事欠かず、装備の点でも優れるベトナム軍は粛清による混乱で脆弱となっていたクメール・ルージュの抵抗を難なく排し、驚異的な進軍速度でカンボジア領内を進み、わずか半月でプノンペンを占領、1979年1月7日にポル・ポト政権を追放した。
当時ベトナムに亡命した東部地区の軍民は、ベトナム軍による政権奪取後はヘン・サムリン政権の中心的基盤を形成した。クメール・ルージュは西へ退き、タイによって支援され、ルビーと材木の密輸による資金で長年タイ国境付近の領域を支配し続けた。1985年にはキュー・サムファンが公式にクメール・ルージュのリーダーとしてポル・ポトを継いだ。
クメール・ルージュは、ベトナムとのゲリラ戦状態に至ると、タイやアメリカ(レーガン政権)やイギリス(サッチャー政権)から資金援助を受けた。カンボジア西部に多く埋められている地雷は、この期にクメール・ルージュが埋めた物だと言われる。(東部には内戦時の爆撃の不発弾が多い。)
カンボジア侵攻に関してソ連は一貫してベトナムを支持する一方、中国は一貫してカンボジア(クメール・ルージュ)を支持していた。すなわち、クメール・ルージュとベトナムの対立は、中ソ対立の代理戦争の様相を呈していたのである。反ベトナムで結束するアメリカやタイをはじめとする西側諸国はクメール・ルージュの国連でのカンボジア代表権を支持・承認した。このため、クメール・ルージュによる大量虐殺などの暴挙は国際的非難を免れることとなった。
中国は、カンボジアを占領しクメール・ルージュを追放したベトナムを激しく非難した。この対立は中越戦争で火を噴くことになるが、この時も実戦経験で勝るベトナム軍が中国軍に煮え湯を飲ませている。
クメール・ルージュは、バタンバン州のパイリンなどを拠点とし、タイの黙認のもとルビーや木材を密貿易により売却し続け、1980年代を通じ、地域一体で資金に裏付けられた支配力は維持された。1991年、全てのカンボジアの政治勢力は、選挙と武装解除を行う条約に調印した。しかしクメール・ルージュは1993年の国連監視の総選挙にも参加せず、選挙結果を拒絶し、戦闘を継続した。1996年にナンバー2のイエン・サリを含む多量離脱があり、残された兵士は半数の約4000人だった。1997年の党派の争いはクメール・ルージュ自身によるポル・ポトの監禁および裁判に結びついた。ポル・ポトは裁判で終身刑を宣告され、翌1998年4月15日に死去した。キュー・サムファンは1998年12月に投降した。クメール・ルージュの残りのリーダーは、1998年12月29日に、1970年代の大量殺戮に対して謝罪した。1999年までに、大半のメンバーは投降あるいは拘束された。
クメール・ルージュ特別法廷[編集]
「カンボジア特別法廷」も参照
自国民大虐殺、人道に対する罪などで元指導者達を裁く裁判(クメール・ルージュ裁判)は、国際連合をはじめとする国際社会の働きかけがある一方で、2006年7月3日に開始されるまで引き延ばされてきた[38]。この間、ポル・ポトが1998年に、タ・モク元軍参謀長・最高司令官が2006年に死亡するなどし、また存命中の指導者の高齢化も進みつつある。若いカンボジア人の多くは、30年近く前に起きた暗黒の歴史には無知のままである。
起訴、審理ともにカンボジア人と外国人の司法官が共同でおこなうが、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷などとは違って、当事者による裁判官の指名を認めるなど、「国際水準なみの国内法廷」という独特の法廷に関する国際連合の関与は限定されている。
二審制であり、最高刑は終身刑である。日本は、運営予算5600万ドルのうち2160万ドルを拠出している。
訴追対象者は、ヌオン・チア元人民代表議会議長やイエン・サリ元副首相ら5-10人の元最高幹部らが訴追される可能性が高いとされている。しかし、現政権はこれらの訴追対象者と司法取引を行い恩赦を与えているなど、この訴追に消極的であることが批判を受けている[39][40]。
訴追対象者も「自分は虐殺はしていない」などと強弁し、イエン・サリの妻のイエン・チリトに至っては検察官に暴言を吐くなど、自分の罪に対する反省の色が見られない。
2010年7月26日、カン・ケク・イウS21収容所元所長に対して一審では禁錮35年(求刑禁錮40年)判決を言い渡したが、2012年2月3日の上訴審判決で一審の禁錮35年を破棄して最高刑の終身刑を言い渡した。
犠牲者の救済[編集]
義捐金支援[編集]
長年カンボジアで支援活動を継続している、日本人の半田晴久が「クメール・ルージュによるジェノサイドの犠牲者への補償、および追悼のためのDr.HANDA 基金」を設立し、犠牲者を救済するための支援を
行っている[41]。2009年2月までに、クメール・ルージュの遺族3,703世帯が義捐金を受けた[42]。同基金は義捐金を手渡しで犠牲者へ贈る授与式を5度行い、同時に遺族の体験を記録する活動を行っている。
~~~~~~~~~~~
カンボジアの歴史、酷過ぎ。田舎に追いやられて農業につくように指導された知識人の6割がクメール・ルージュに殺された。
シアヌーク殿下の日本軍の映画
シアヌーク殿下の日本軍の映画
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」を読んだ。『滞日50年、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていたジャーナリスト』と帯にある。そんなストークスさんが、東京裁判は勝者の復讐であり、南京大虐殺があり得なかったこと、日本には日本の正義があると考え方が大きく変わっていく過程と、影響を及ぼした三島由紀夫との出会いや、命を懸けてでも三島が守りたかったものについての考察等、興味深いテーマを扱っている。大変読みやすく一気に読める。また、アジアのリーダー達についての著者の率直なコメントも面白い。中でも、カンボジア独立の父と言われるシアヌーク殿下制作主演した、日本軍を描いた映画「ボコールの薔薇」についての記述を読むと、シアヌーク殿下が日本軍と日本軍人をどう見ていたかがよく分かる。以下にその部分を抜粋した。なお、映画はカンボジアから追放されていたシアヌーク殿下が滞在先の北朝鮮で制作したものだという。
『シアヌークは昔から劇映画を制作して、自分が監督し、主演もする趣味を持っていた。1969年にシアヌークが作った「ボゴールの薔薇』という、作品がある。平壌の撮影所で撮ったものだ。
はじめ金日成の肖像と、金日成をたたえる字幕が出てくる。台詞はすべて、朝鮮語に吹き替えられている。
映画はカンボジアのボコールに、民衆が総出で沿道に並んで歓迎するなかを、日本軍が進駐する場面から始まる。シアヌークが日本軍の指揮官・長谷川一郎大佐を演じ、モニク王妃が町の有力者の娘で、大佐の恋人を演じている。シアヌークがカンボジアを解放した日本に、深く感謝していたことが感じ取れる。
映画の中の日本軍は、実に規律正しい。日本兵の役は、朝鮮人民軍の兵士がエキストラとして動員され、演じている。
日本軍が来ると、民衆が『解放者」として驚喜して迎える。フランス軍司令部の屋上から、フランス国旗が降ろされ、『君が代」が吹奏されるなかで、日の丸があがる。長谷川大佐は軍装に軍刀を吊り、凛々しい日本軍人として描かれている。
抜刀の礼を行う長谷川大佐が率いる、日本軍人を演じる数百人の朝鮮人民軍の兵士たちが、日の丸に対して捧げ銃を行うのは、奇観だった。
日本軍とフランス軍が交戦して、フランスの司令官が戦死すると、丘の上の小さな教会で葬儀が催される。長谷川大佐が参列し、棺が埋められるのを、挙手の礼で見送る。日本軍人は敵にも手厚いのだ。
長谷川大佐の執務室の机の上には、軍装で白馬を駆られる天皇のご真影が飾られている。
副官が広島に原爆が投下されたことを報告すると、副官が去った後に、大佐が慟哭する。
日本が降伏したという通信を受けると、大佐は町の恋人の家を訪れて、ピアノで「さくらさくら」を弾く。その旋律が流れるなかで、爛漫と桜が咲き誇る日本の春、紅葉に染まった秋の山河、白雪に覆われた冬の日本の風景が、次々と映し出される。
シアヌークは戦争に敗れても、日本の気高い精神が少しも変わらないということを、訴えた。
この映画の試写会には、金日成が長男の正日をともなってやってきた。上映が終わると、二人がシアヌークに「素晴らしい作品だ」と、口を揃えて褒めそやした。
私はこの話をシアヌークの側近から聞いた。その映画も見たが、金日成も金正日も、東南アジアの国々が、日本に感謝していることを、学んだに違いない。』
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」から抜粋
http://yorunohito2014.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
2009年07月 : シアヌーク映画の夢と現実
秋山 民雄
インターネットで見つけたカンボジアのシアヌーク前国王個人の公式サイトには殿下が監督、主演した映画を紹介しているコーナーがある。そのなかに40年たっても記憶に残っているタイトルがあった。シアヌーク殿下が旧日本軍将校役を演じる「ボコールのバラ」と、試写会で涙のラストシーンが思わぬ笑いを誘った「クレピュスキュール(たそがれ)」である。「たそがれ」の方は苦い思い出とも結びついている。
映画の製作はどちらも1969年。翌年のシアヌーク追放クーデターで戦争が始まり、さらにはポル・ポト派による大虐殺で苦しんだこの国が平和だった最後の年であり、殿下が映画を作った最後の年でもある。
隣国ベトナムで激戦が続く一方で、「ポストベトナム」をめぐる動きが始まっていた。中立主義外交は行き詰まり、国内では左派を追放したためにシアヌーク政治に批判的な右派の勢力が強くなっていた。
そんな内外の情勢をよそにシアヌーク殿下は映画作りを楽しみ、プノンペン国際映画祭(68,69年の2回で立ち消えになった)を開催したりしていた。活躍の場を狭められて、映画以外にやることがなかったというのが実情だったらしい。
◇
「ボコールのバラ」を撮影していると聞いて、ボコール平原に出かけて行った。撮影現場を探しているところへ突然、軍服姿の殿下が姿を見せた。
旧日本軍の軍服にしてはどこかおかしいような気がしたが、殿下は「この衣装は似合うかな」とにこやかだった。撮影現場にはジープ型の車があり、バンパーに「森部隊」と漢字で書かれていた。よく見ると中国の簡体字だった。
この映画はカンボジアに進駐した日本軍将校と「ボコールのバラ」と呼ばれる現地の美しい女性(演じるのはもちろんシアヌーク夫人のモニクさんである)の愛の物語である。
シアヌーク殿下は1941年に18歳で王位に就いた。日米開戦の年だが、日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐した年でもある。即位式の場に日本軍がいる写真を見た記憶がある。フランス植民地軍を追い払った日本軍に若い殿下は強い印象を受けただろう。その殿下がこの時期に日本の将校を主人公にした映画を製作した動機は何だったのだろうか。日本に何かを期待していたのではないか、といまでも気になるときがある。
それというのも、映画以外にも動きがあったからである。日本の若者をこの国に集団入植させるという構想をひそかに日本側に打診したのである。日本人を中核にして農村を立て直し、それを基礎に国力を高め、共産主義ベトナムに対抗するという狙いだったとされている。打診を受けた日本側は具体的に対応を考えるような内容ではないとの判断だった。その反応を見た殿下の方もすぐに話を引っ込めたという。結局、どこまで本気だったのかわからないまま、いつものシアヌーク流だと受け取られて、相手にされずに終わったようだ。
日本はその後の1990年代には和平会議の東京開催、PKO活動への陸上自衛隊派遣など、カンボジアに対して積極的に関与する方針をとった。だがこの当時はそんな時代ではなかった。国際情勢も違うし、仮に現実味のある構想を提案されたとしても、残念ながら前向きに対応できる状況ではなかっただろう。
1992年に現地で陸上自衛隊を取材した時の雑談で、派遣期間終了後もカンボジアに残って、親しくなった女性と理髪店を営むという隊員がいることを聞いた。その時にこの話を思い出したのだが、すべての雰囲気がすっかり変わっていたので、古い話を持ち出す気にはならなかった。
◇
「たそがれ」の方は王宮での試写会に招かれ、それまでに入ったことのない趣味のよい調度の部屋で、この国にしては華やかな雰囲気のなかで見た。
こういう場合はそれなりの服装で行かなければならないのがシアヌーク時代のカンボジアだった。映画なら室内なので問題はないのだが、屋外になると熱帯の太陽の下で背広にネクタイという服装は苦行だった。それにクメール語で始まり、フランス語、英語に切り替わっていく演説(全体がわかるのは本人だけだったかもしれない)を聴かされるのだから、肉体的、精神的忍耐力を試されているようなものだった。
試写会では演説もなかった。その代わり、印象的な現実の場面を目撃することになった。
ストーリーはすっかり忘れてしまったが、最後のシーンは海に沈む夕日を眺めながら主人公が追憶にふけり、涙を流す場面である。ところが場内が静まりかえるはずのこの場面で、笑い声が起こった。笑ったのは閣僚や有力政治家、王族など上流階級のカンボジア人だった。失笑というようなものではなく、遠慮のない笑いだった。
外国人もいる前で国家元首に対して失礼ではないかと驚いたが、正直なところ笑うのも無理はなかった。小柄で小太り、童顔の殿下がいくら思い入れたっぷりに悲しそうな顔をしても、全くさまにならないのである。殿下の方を見ると、こちらは照れたような苦笑いのような表情だった。
それにしても国民の間で人気の高い殿下に対する態度としては、異様な情景に感じられた。古い伝統が残っていて、殿下の前では有力者でも卑屈にも見えるような姿勢をとることが多かったので、なおさらそう感じたのかもしれない。
この場面のことはいろいろな人と話をした。もともと大らかな社会であり、互いに親密な関係なのだから笑いたいときは笑うのは当たり前だと言う人もいたが、殿下の権威が失墜している証拠だと言う人もいた。
その後で現実にクーデターが起きたのだから、殿下の威信低下が思わぬ場面で露呈したと考えるのが正しかったのだろう。そういえば、笑った人たちのなかには、クーデターの首謀者ロン・ノル将軍やシリク・マタク殿下もいたはずである。「たそがれ」というタイトル自体がシアヌーク時代の終わりが近いことを予感しているからではないか、という陰口もささやかれていた。
◇
この時点でクーデターの予兆を感じ取っていれば自慢できるのだが、実際にやったことはその逆になってしまった。恥ずかしいことに、クーデターの2カ月前に殿下が外遊に出発したとき、「これで政争は当面休戦の見通し」という情勢報告を本社に送っていたのだ。記事ではないので誤報とはいわれなかったが、実質は誤報のようなものである。いま考えても身の縮む思いだ。
当時の私にはクーデターの可能性は考えられなかった。シアヌーク政治には多くの問題があったのは事実だが、殿下なしではこの国は収拾のつかない大混乱に陥ることは確実だった。
クーデター後の20年ほどの間に起こったことはまさにその大混乱だったと思う。だがシアヌーク殿下は独特の政治感覚でこの時期を生き抜き、最初の即位から半世紀以上を経て王位に返り咲いた。いまは高齢で病気療養中の身だが、国民の人気はなお絶大のようである。(元共同通信 2009年7月記)
http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00011900/
必読の書 連合国戦勝歴史観の虚妄
2014-03-03 03:54:26 | 読書と映画
私は月に5~6冊の本を読む。話題の小説もあるが、近頃は評論書と言えば言いのか、解説書と言うのかその種の本が多い。
月間で定期購読しているのはWILLであり、これは六年目に入っただろうか。
さて、この二ヶ月ほどは話題の「永遠の0」同じ作者の「黄金のバンタムを破った男」を読んだし「呆韓論」「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」「同盟国アメリカに日本の戦争の異議を説く時がきた」等々を読んだ。
しかし、同時に読んだ今日のテーマ「英国人記者が見た 連合国戦勝歴史観の虚妄(祥伝社新書)」ほど、共鳴し感動した書物はない。
筆者のヘンリー・S・ストークス氏は英国人で『フィナンシャル・タイムズ』『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』各東京支局長を歴任した。
奥様は日本人であるが、歴代の外国人マスコミ担当で最長の勤務をし、三島由紀夫氏との親交も深いなど異色の経歴の持ち主である。
英国人の彼は、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていた。しかし、この大物ジャーリストは、以降歴史観を180度転換してゆく、何故か? この推移が興味深い。
「戦勝国史観」は、有色人種を蔑視した白人優位主義から発している。それなのに、日本国民の多くが、なぜ、そのような史観を信じているのか、理解に苦しんでいる。さらに著者は「戦勝国史観」は歴史をあざむいており、日本は侵略国家ではなかったと反論する。いわゆる「南京大虐殺」や「慰安婦」問題についても、日本がいわれのない非難を蒙(こうむ)っていることを、証している。
例えば「南京大虐殺」、今は日本軍が南京で三十万人を虐殺したことになっている。しかしこれは中国のプロパガンダ(諜略宣伝)であって、その理由を具体的事実をもって証明している。そして、韓国の光州事件を引き合いに局地で起こった事件(暴動)の実態解明がどれほど複雑怪奇で難しいかを解説している。
また大物ジャーナリストとして色々なリーダーと会っている、その描写も興味深い。
金大中、金日成、シアヌーク殿下、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘等々の人物評価も、意外な事実に驚く。また、1943年に東京で開かれた「大東亜会議」にも触れ、”日本はアジアの希望の光”であったことを詳細に語っている。
私の生涯の愛読の書となるであろう、
以下はこの本を読んだ読者の感想文のコピペである。
「私は日本が大英帝国の植民地を占領したことに、日本の正義があると思った。それを戦後になって、まるで戦勝国が全能の神であるかのように、日本の罪を裁くことに違和感を感じた」。
イギリス人ジャーナリストの立場から、それぞれの国から見た太平洋戦争の正義の意味が異なることを指摘し、日本はどのように歴史と向かい合い、「戦後レジームからの脱却」を位置づけるべきかについての自説を述べた本。著者は『フィナンシャル・タイムズ』『エコノミスト』の東京特派員、『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長を務めてきた経歴を持つ。
「侵略が悪いことなら、世界史で、アジア、アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略してきたのは、西洋諸国だ。しかし、今日まで、西洋諸国がそうした侵略を謝罪したことはない。どうして日本だけが欧米の植民地を侵略したことを、謝罪しなければならないのか」。
日本人は、太平洋戦争で戦った相手というとまずアメリカを思い浮かべるが、実はイギリスがこの戦争をきっかけに失ったものは実に膨大だった。著者が子供の頃に地球儀を使って説明されたという栄光の大英帝国の基盤の要はアジアの植民地であり、しかし、日本の快進撃とともにその数百年の支配が一気に崩れ、その後これらの地域が独立に向かって大英帝国は消えることになった。そこに、日本軍捕虜収容所での英兵の扱いの問題が加わり、イギリスの日本への戦後の国民感情は相当ひどいものであったそうだ。同様に、オランダ、フランス、アメリカもアジアの植民地を失った。著者は、そのような歴史を振り返りながら、引用した上記のようなごく基本的な問いかけを行っている。他にも、南京や朝鮮半島における歴史的争点や、靖国神社参拝といったことについて、著者の見解が次々と書き連ねられている。
50年間の長きにわたって欧米を代表する一流紙の記者であったため、たくさんの有名人に会っていて、その思い出話を披露しているのも本書の特徴である。特に親交が深かった三島由紀夫については多くのページを割いており、三島が命を賭けて伝えようとしていたものを今を生きる日本人に改めて問いかけている。他にも戦後の重要人物が目白押しである。田中角栄、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘、白洲次郎、麻生和子、シアヌーク、スカルノ、金大中、金日成。例えば、シアヌーク殿下が、みずから日本軍将校を主役にした映画を監督・主演して作って、金日成・正日親子の前で上映して賞賛されたというようなエピソードも登場する。また、駆け出しのころには、後にイギリスの首相になるエドワード・ヒースにも会っているし、戦後日本を世界に紹介する上で大きな貢献を果たしたドナルド・キーン、エドワード・サイデン・ステッカー、アイヴァン・モリスのことも語っている。
これは本文において著者が書いているだけでなく、解説部分において加藤英明氏も全く同じことを書いているが、敗戦国であるという以外に日本が誤解を受けている理由として、日本から正しい情報があまり発信されていない点を上げているのは気になった。現在、日本が中国や韓国から非難を受けているあの時代の論点のいくつかは、元をたどれば日本のメディアが火付け役になっているものだ。また、著者は「日本の主張が、英語で発信されてこなかったことが大きい」とも述べている。
内容を要約すると、大東亜戦争はアジア解放戦争だった、
南京大虐殺や慰安婦はただの捏造、東京裁判は無効。
亡命中の故シアヌーク殿下が「ボゴールの薔薇」という映画を撮影、
自ら日本軍将校を演じ、日本軍を解放軍として描いた・・・
北朝鮮兵が演じる日本兵が「捧げ銃」をする姿は奇観・・・
という小話がかなり気に入った。
歴史の予備知識がなくとも読めるので幅広い方々にお勧めする。
色々な意味で優れたジャーナリストだなぁと思う。
日本人には持ち得ない新鮮な視点で、元々フェアな人が、より一層フェアであろうと努力して、書き上げたと感じられた。
youtube「ハリー杉山 Henry Scott-Stokes 息子へのまなざし」がいい。
こんな人を父に持った人は、さぞ誇らしいだろうなぁと思う。
(他人に誇るのではなく、胸の内、密かに誇る誇らしさ)
優れたレビューが既に幾つもついており、付け加えたいことなどほとんどない。
本筋ではないけれども、既についたレビューの中で、あまり触れられていない事柄に、クエーカー教徒のことがあった。
p.209
私(筆者)が・・・、日本人に親しみを感じるのは、クエーカー教徒だからかもしれない。
クエーカー教徒も差別を受けてきた。・・・役人にも、軍人にも、法律家にもなれなかった。土地も所有できなかった。キリスト教新教の一派だが・・・・。
特色は、権威に対して頭を下げないことだ。自由と独立を信条としている。・・・一方で真摯で、礼儀正しいことで知られる。
少数派・・・。
クエーカー教には神職がいない。集まって瞑想し、霊感を受けた者が、立ち上がって感じたままを話す。
一人が話しすぎた場合は先達が穏やかな語り口調で終えるよう促す。賛美歌を歌うこともない。教義を押しつけることもなく個人が霊感することを尊重する。一人ひとりが良心と向き合う。
クエーカーの集会所は、木で建築され、派手な装飾が一切ない。素朴なところが、神道の神社と結びつく。聖書も丸呑みにすることがない。キリストを信仰するが、盲信よりも、「いったいキリストは、どういう方か」と問い続ける。形式や教義がない。
戦中までのドナルド・キーン氏の経歴に触れた箇所も、面白かった。
禍福は糾える縄の如し(Good luck and bad luck alternate like the strands of a
rope.)だなと思った。
p.211
戦後の日本兵の気高さに打たれたドナルド・キーン
エドワード・サイデンステッカー、アイヴァン・モリスの三人が、日本文学を世界に紹介するうえで、大きな貢献をした外国人として、よく知られている。
http://blog.goo.ne.jp/arashigeru3/e/38bc3b147a4b1944413fcf385eadcb0c
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」を読んだ。『滞日50年、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていたジャーナリスト』と帯にある。そんなストークスさんが、東京裁判は勝者の復讐であり、南京大虐殺があり得なかったこと、日本には日本の正義があると考え方が大きく変わっていく過程と、影響を及ぼした三島由紀夫との出会いや、命を懸けてでも三島が守りたかったものについての考察等、興味深いテーマを扱っている。大変読みやすく一気に読める。また、アジアのリーダー達についての著者の率直なコメントも面白い。中でも、カンボジア独立の父と言われるシアヌーク殿下制作主演した、日本軍を描いた映画「ボコールの薔薇」についての記述を読むと、シアヌーク殿下が日本軍と日本軍人をどう見ていたかがよく分かる。以下にその部分を抜粋した。なお、映画はカンボジアから追放されていたシアヌーク殿下が滞在先の北朝鮮で制作したものだという。
『シアヌークは昔から劇映画を制作して、自分が監督し、主演もする趣味を持っていた。1969年にシアヌークが作った「ボゴールの薔薇』という、作品がある。平壌の撮影所で撮ったものだ。
はじめ金日成の肖像と、金日成をたたえる字幕が出てくる。台詞はすべて、朝鮮語に吹き替えられている。
映画はカンボジアのボコールに、民衆が総出で沿道に並んで歓迎するなかを、日本軍が進駐する場面から始まる。シアヌークが日本軍の指揮官・長谷川一郎大佐を演じ、モニク王妃が町の有力者の娘で、大佐の恋人を演じている。シアヌークがカンボジアを解放した日本に、深く感謝していたことが感じ取れる。
映画の中の日本軍は、実に規律正しい。日本兵の役は、朝鮮人民軍の兵士がエキストラとして動員され、演じている。
日本軍が来ると、民衆が『解放者」として驚喜して迎える。フランス軍司令部の屋上から、フランス国旗が降ろされ、『君が代」が吹奏されるなかで、日の丸があがる。長谷川大佐は軍装に軍刀を吊り、凛々しい日本軍人として描かれている。
抜刀の礼を行う長谷川大佐が率いる、日本軍人を演じる数百人の朝鮮人民軍の兵士たちが、日の丸に対して捧げ銃を行うのは、奇観だった。
日本軍とフランス軍が交戦して、フランスの司令官が戦死すると、丘の上の小さな教会で葬儀が催される。長谷川大佐が参列し、棺が埋められるのを、挙手の礼で見送る。日本軍人は敵にも手厚いのだ。
長谷川大佐の執務室の机の上には、軍装で白馬を駆られる天皇のご真影が飾られている。
副官が広島に原爆が投下されたことを報告すると、副官が去った後に、大佐が慟哭する。
日本が降伏したという通信を受けると、大佐は町の恋人の家を訪れて、ピアノで「さくらさくら」を弾く。その旋律が流れるなかで、爛漫と桜が咲き誇る日本の春、紅葉に染まった秋の山河、白雪に覆われた冬の日本の風景が、次々と映し出される。
シアヌークは戦争に敗れても、日本の気高い精神が少しも変わらないということを、訴えた。
この映画の試写会には、金日成が長男の正日をともなってやってきた。上映が終わると、二人がシアヌークに「素晴らしい作品だ」と、口を揃えて褒めそやした。
私はこの話をシアヌークの側近から聞いた。その映画も見たが、金日成も金正日も、東南アジアの国々が、日本に感謝していることを、学んだに違いない。』
ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」から抜粋
http://yorunohito2014.blog.fc2.com/blog-entry-252.html
2009年07月 : シアヌーク映画の夢と現実
秋山 民雄
インターネットで見つけたカンボジアのシアヌーク前国王個人の公式サイトには殿下が監督、主演した映画を紹介しているコーナーがある。そのなかに40年たっても記憶に残っているタイトルがあった。シアヌーク殿下が旧日本軍将校役を演じる「ボコールのバラ」と、試写会で涙のラストシーンが思わぬ笑いを誘った「クレピュスキュール(たそがれ)」である。「たそがれ」の方は苦い思い出とも結びついている。
映画の製作はどちらも1969年。翌年のシアヌーク追放クーデターで戦争が始まり、さらにはポル・ポト派による大虐殺で苦しんだこの国が平和だった最後の年であり、殿下が映画を作った最後の年でもある。
隣国ベトナムで激戦が続く一方で、「ポストベトナム」をめぐる動きが始まっていた。中立主義外交は行き詰まり、国内では左派を追放したためにシアヌーク政治に批判的な右派の勢力が強くなっていた。
そんな内外の情勢をよそにシアヌーク殿下は映画作りを楽しみ、プノンペン国際映画祭(68,69年の2回で立ち消えになった)を開催したりしていた。活躍の場を狭められて、映画以外にやることがなかったというのが実情だったらしい。
◇
「ボコールのバラ」を撮影していると聞いて、ボコール平原に出かけて行った。撮影現場を探しているところへ突然、軍服姿の殿下が姿を見せた。
旧日本軍の軍服にしてはどこかおかしいような気がしたが、殿下は「この衣装は似合うかな」とにこやかだった。撮影現場にはジープ型の車があり、バンパーに「森部隊」と漢字で書かれていた。よく見ると中国の簡体字だった。
この映画はカンボジアに進駐した日本軍将校と「ボコールのバラ」と呼ばれる現地の美しい女性(演じるのはもちろんシアヌーク夫人のモニクさんである)の愛の物語である。
シアヌーク殿下は1941年に18歳で王位に就いた。日米開戦の年だが、日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐した年でもある。即位式の場に日本軍がいる写真を見た記憶がある。フランス植民地軍を追い払った日本軍に若い殿下は強い印象を受けただろう。その殿下がこの時期に日本の将校を主人公にした映画を製作した動機は何だったのだろうか。日本に何かを期待していたのではないか、といまでも気になるときがある。
それというのも、映画以外にも動きがあったからである。日本の若者をこの国に集団入植させるという構想をひそかに日本側に打診したのである。日本人を中核にして農村を立て直し、それを基礎に国力を高め、共産主義ベトナムに対抗するという狙いだったとされている。打診を受けた日本側は具体的に対応を考えるような内容ではないとの判断だった。その反応を見た殿下の方もすぐに話を引っ込めたという。結局、どこまで本気だったのかわからないまま、いつものシアヌーク流だと受け取られて、相手にされずに終わったようだ。
日本はその後の1990年代には和平会議の東京開催、PKO活動への陸上自衛隊派遣など、カンボジアに対して積極的に関与する方針をとった。だがこの当時はそんな時代ではなかった。国際情勢も違うし、仮に現実味のある構想を提案されたとしても、残念ながら前向きに対応できる状況ではなかっただろう。
1992年に現地で陸上自衛隊を取材した時の雑談で、派遣期間終了後もカンボジアに残って、親しくなった女性と理髪店を営むという隊員がいることを聞いた。その時にこの話を思い出したのだが、すべての雰囲気がすっかり変わっていたので、古い話を持ち出す気にはならなかった。
◇
「たそがれ」の方は王宮での試写会に招かれ、それまでに入ったことのない趣味のよい調度の部屋で、この国にしては華やかな雰囲気のなかで見た。
こういう場合はそれなりの服装で行かなければならないのがシアヌーク時代のカンボジアだった。映画なら室内なので問題はないのだが、屋外になると熱帯の太陽の下で背広にネクタイという服装は苦行だった。それにクメール語で始まり、フランス語、英語に切り替わっていく演説(全体がわかるのは本人だけだったかもしれない)を聴かされるのだから、肉体的、精神的忍耐力を試されているようなものだった。
試写会では演説もなかった。その代わり、印象的な現実の場面を目撃することになった。
ストーリーはすっかり忘れてしまったが、最後のシーンは海に沈む夕日を眺めながら主人公が追憶にふけり、涙を流す場面である。ところが場内が静まりかえるはずのこの場面で、笑い声が起こった。笑ったのは閣僚や有力政治家、王族など上流階級のカンボジア人だった。失笑というようなものではなく、遠慮のない笑いだった。
外国人もいる前で国家元首に対して失礼ではないかと驚いたが、正直なところ笑うのも無理はなかった。小柄で小太り、童顔の殿下がいくら思い入れたっぷりに悲しそうな顔をしても、全くさまにならないのである。殿下の方を見ると、こちらは照れたような苦笑いのような表情だった。
それにしても国民の間で人気の高い殿下に対する態度としては、異様な情景に感じられた。古い伝統が残っていて、殿下の前では有力者でも卑屈にも見えるような姿勢をとることが多かったので、なおさらそう感じたのかもしれない。
この場面のことはいろいろな人と話をした。もともと大らかな社会であり、互いに親密な関係なのだから笑いたいときは笑うのは当たり前だと言う人もいたが、殿下の権威が失墜している証拠だと言う人もいた。
その後で現実にクーデターが起きたのだから、殿下の威信低下が思わぬ場面で露呈したと考えるのが正しかったのだろう。そういえば、笑った人たちのなかには、クーデターの首謀者ロン・ノル将軍やシリク・マタク殿下もいたはずである。「たそがれ」というタイトル自体がシアヌーク時代の終わりが近いことを予感しているからではないか、という陰口もささやかれていた。
◇
この時点でクーデターの予兆を感じ取っていれば自慢できるのだが、実際にやったことはその逆になってしまった。恥ずかしいことに、クーデターの2カ月前に殿下が外遊に出発したとき、「これで政争は当面休戦の見通し」という情勢報告を本社に送っていたのだ。記事ではないので誤報とはいわれなかったが、実質は誤報のようなものである。いま考えても身の縮む思いだ。
当時の私にはクーデターの可能性は考えられなかった。シアヌーク政治には多くの問題があったのは事実だが、殿下なしではこの国は収拾のつかない大混乱に陥ることは確実だった。
クーデター後の20年ほどの間に起こったことはまさにその大混乱だったと思う。だがシアヌーク殿下は独特の政治感覚でこの時期を生き抜き、最初の即位から半世紀以上を経て王位に返り咲いた。いまは高齢で病気療養中の身だが、国民の人気はなお絶大のようである。(元共同通信 2009年7月記)
http://www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00011900/
必読の書 連合国戦勝歴史観の虚妄
2014-03-03 03:54:26 | 読書と映画
私は月に5~6冊の本を読む。話題の小説もあるが、近頃は評論書と言えば言いのか、解説書と言うのかその種の本が多い。
月間で定期購読しているのはWILLであり、これは六年目に入っただろうか。
さて、この二ヶ月ほどは話題の「永遠の0」同じ作者の「黄金のバンタムを破った男」を読んだし「呆韓論」「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」「同盟国アメリカに日本の戦争の異議を説く時がきた」等々を読んだ。
しかし、同時に読んだ今日のテーマ「英国人記者が見た 連合国戦勝歴史観の虚妄(祥伝社新書)」ほど、共鳴し感動した書物はない。
筆者のヘンリー・S・ストークス氏は英国人で『フィナンシャル・タイムズ』『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』各東京支局長を歴任した。
奥様は日本人であるが、歴代の外国人マスコミ担当で最長の勤務をし、三島由紀夫氏との親交も深いなど異色の経歴の持ち主である。
英国人の彼は、来日時には「日本=戦争犯罪国家」論、「南京大虐殺」を疑うことなく信じていた。しかし、この大物ジャーリストは、以降歴史観を180度転換してゆく、何故か? この推移が興味深い。
「戦勝国史観」は、有色人種を蔑視した白人優位主義から発している。それなのに、日本国民の多くが、なぜ、そのような史観を信じているのか、理解に苦しんでいる。さらに著者は「戦勝国史観」は歴史をあざむいており、日本は侵略国家ではなかったと反論する。いわゆる「南京大虐殺」や「慰安婦」問題についても、日本がいわれのない非難を蒙(こうむ)っていることを、証している。
例えば「南京大虐殺」、今は日本軍が南京で三十万人を虐殺したことになっている。しかしこれは中国のプロパガンダ(諜略宣伝)であって、その理由を具体的事実をもって証明している。そして、韓国の光州事件を引き合いに局地で起こった事件(暴動)の実態解明がどれほど複雑怪奇で難しいかを解説している。
また大物ジャーナリストとして色々なリーダーと会っている、その描写も興味深い。
金大中、金日成、シアヌーク殿下、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘等々の人物評価も、意外な事実に驚く。また、1943年に東京で開かれた「大東亜会議」にも触れ、”日本はアジアの希望の光”であったことを詳細に語っている。
私の生涯の愛読の書となるであろう、
以下はこの本を読んだ読者の感想文のコピペである。
「私は日本が大英帝国の植民地を占領したことに、日本の正義があると思った。それを戦後になって、まるで戦勝国が全能の神であるかのように、日本の罪を裁くことに違和感を感じた」。
イギリス人ジャーナリストの立場から、それぞれの国から見た太平洋戦争の正義の意味が異なることを指摘し、日本はどのように歴史と向かい合い、「戦後レジームからの脱却」を位置づけるべきかについての自説を述べた本。著者は『フィナンシャル・タイムズ』『エコノミスト』の東京特派員、『ロンドン・タイムズ』『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長を務めてきた経歴を持つ。
「侵略が悪いことなら、世界史で、アジア、アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略してきたのは、西洋諸国だ。しかし、今日まで、西洋諸国がそうした侵略を謝罪したことはない。どうして日本だけが欧米の植民地を侵略したことを、謝罪しなければならないのか」。
日本人は、太平洋戦争で戦った相手というとまずアメリカを思い浮かべるが、実はイギリスがこの戦争をきっかけに失ったものは実に膨大だった。著者が子供の頃に地球儀を使って説明されたという栄光の大英帝国の基盤の要はアジアの植民地であり、しかし、日本の快進撃とともにその数百年の支配が一気に崩れ、その後これらの地域が独立に向かって大英帝国は消えることになった。そこに、日本軍捕虜収容所での英兵の扱いの問題が加わり、イギリスの日本への戦後の国民感情は相当ひどいものであったそうだ。同様に、オランダ、フランス、アメリカもアジアの植民地を失った。著者は、そのような歴史を振り返りながら、引用した上記のようなごく基本的な問いかけを行っている。他にも、南京や朝鮮半島における歴史的争点や、靖国神社参拝といったことについて、著者の見解が次々と書き連ねられている。
50年間の長きにわたって欧米を代表する一流紙の記者であったため、たくさんの有名人に会っていて、その思い出話を披露しているのも本書の特徴である。特に親交が深かった三島由紀夫については多くのページを割いており、三島が命を賭けて伝えようとしていたものを今を生きる日本人に改めて問いかけている。他にも戦後の重要人物が目白押しである。田中角栄、岸信介、安倍晋太郎、中曽根康弘、白洲次郎、麻生和子、シアヌーク、スカルノ、金大中、金日成。例えば、シアヌーク殿下が、みずから日本軍将校を主役にした映画を監督・主演して作って、金日成・正日親子の前で上映して賞賛されたというようなエピソードも登場する。また、駆け出しのころには、後にイギリスの首相になるエドワード・ヒースにも会っているし、戦後日本を世界に紹介する上で大きな貢献を果たしたドナルド・キーン、エドワード・サイデン・ステッカー、アイヴァン・モリスのことも語っている。
これは本文において著者が書いているだけでなく、解説部分において加藤英明氏も全く同じことを書いているが、敗戦国であるという以外に日本が誤解を受けている理由として、日本から正しい情報があまり発信されていない点を上げているのは気になった。現在、日本が中国や韓国から非難を受けているあの時代の論点のいくつかは、元をたどれば日本のメディアが火付け役になっているものだ。また、著者は「日本の主張が、英語で発信されてこなかったことが大きい」とも述べている。
内容を要約すると、大東亜戦争はアジア解放戦争だった、
南京大虐殺や慰安婦はただの捏造、東京裁判は無効。
亡命中の故シアヌーク殿下が「ボゴールの薔薇」という映画を撮影、
自ら日本軍将校を演じ、日本軍を解放軍として描いた・・・
北朝鮮兵が演じる日本兵が「捧げ銃」をする姿は奇観・・・
という小話がかなり気に入った。
歴史の予備知識がなくとも読めるので幅広い方々にお勧めする。
色々な意味で優れたジャーナリストだなぁと思う。
日本人には持ち得ない新鮮な視点で、元々フェアな人が、より一層フェアであろうと努力して、書き上げたと感じられた。
youtube「ハリー杉山 Henry Scott-Stokes 息子へのまなざし」がいい。
こんな人を父に持った人は、さぞ誇らしいだろうなぁと思う。
(他人に誇るのではなく、胸の内、密かに誇る誇らしさ)
優れたレビューが既に幾つもついており、付け加えたいことなどほとんどない。
本筋ではないけれども、既についたレビューの中で、あまり触れられていない事柄に、クエーカー教徒のことがあった。
p.209
私(筆者)が・・・、日本人に親しみを感じるのは、クエーカー教徒だからかもしれない。
クエーカー教徒も差別を受けてきた。・・・役人にも、軍人にも、法律家にもなれなかった。土地も所有できなかった。キリスト教新教の一派だが・・・・。
特色は、権威に対して頭を下げないことだ。自由と独立を信条としている。・・・一方で真摯で、礼儀正しいことで知られる。
少数派・・・。
クエーカー教には神職がいない。集まって瞑想し、霊感を受けた者が、立ち上がって感じたままを話す。
一人が話しすぎた場合は先達が穏やかな語り口調で終えるよう促す。賛美歌を歌うこともない。教義を押しつけることもなく個人が霊感することを尊重する。一人ひとりが良心と向き合う。
クエーカーの集会所は、木で建築され、派手な装飾が一切ない。素朴なところが、神道の神社と結びつく。聖書も丸呑みにすることがない。キリストを信仰するが、盲信よりも、「いったいキリストは、どういう方か」と問い続ける。形式や教義がない。
戦中までのドナルド・キーン氏の経歴に触れた箇所も、面白かった。
禍福は糾える縄の如し(Good luck and bad luck alternate like the strands of a
rope.)だなと思った。
p.211
戦後の日本兵の気高さに打たれたドナルド・キーン
エドワード・サイデンステッカー、アイヴァン・モリスの三人が、日本文学を世界に紹介するうえで、大きな貢献をした外国人として、よく知られている。
http://blog.goo.ne.jp/arashigeru3/e/38bc3b147a4b1944413fcf385eadcb0c
2015年12月8日の記事
世界は今や「戦争がなければ経済が回らない」第二次世界大戦前夜に似ている
2015年12月8日
経済を立て直したい米と、体制維持のために愛国心を利用したいロシアが中東の戦火を拡大させる―。こう解説するのは『国際戦略コラム有料版』の著者・津田慶治さん。もはや中東大戦争が避けられない時点にまで来ていると分析しています。
世界の経済状況
米国のFRBが12月に利上げをするのは、11月雇用統計が予想より良いのでほぼ確実である。しかし、株価が日米欧ともに高いのは、金融緩和でインフレを心配して株に資金をシフトしているからである。本当に経済が良いわけではない。米国は比較的景気が良いので、金融相場から抜けて実績相場にしようとしている。この転換点を作るのが、12月の利上げである。
しかし、FRBも景気が非常に良いからではなく、高金利のハイイールド債(昔のジャンク債)に投資が集まり、この債券の暴落を気にしているのである。米銀行は、債権部門の利益率が落ちて、リスクのあるハイイールド債にシフトしているので、この債券が暴落すると、また2008年のような状況になると心配している。
世界景気が落ちたのは、2008年のリーマンショクによる株価の暴落で資金がなくなったことで、中央銀行は金融緩和で資金を市場に出して、資金を供給してきた。この資金の行き場が株であり、債券なのである。
もう1つが中国の成長加速で、世界から資源を買い、資源国が豊かになり、資源国や新興国が消費を伸ばしたので、世界はやっと回復したのであるが、中国の成長が止まり、世界経済は急落すると心配された。しかし、中国の消費は落ちずに維持しているので、日本も2万円の株価を狙える経済状態にある。
世界経済は、しかし供給過剰・需要不足の状態が継続している。この状態が続くと、本格的な景気の回復は起こらない。また、デフレ経済に陥りやすい。中国の赤字輸出で鉄鋼業は世界の殆どの企業が赤字になっている。
石油も米国のシェールオイルの生産で供給量が増えたのに、中国の減速で需要が不足して、価格が40ドル程度と数年前の100ドル以上と比べると1/2程度以下になっている。
1929年のウォール街暴落から1939年の第2次世界大戦まで継続的に景気が悪かった状態に似ている。継続的に需要不足が起こっていた。長期停滞が起こり、貧富の差が拡大した。これと同じことが現在起こっているのである。
この需要不足を解消するためには、1つには技術革新で今までの製品を時代遅れにして、全く新しい製品群に置き換えることである。もう1つが、戦争を起こして大量の破壊により、今と同じ商品を売ることである。
この2つが、今の世界経済の供給過剰・需要不足を解決する方法であるが、1つ目の技術革新でもエネルギー革命を起こして、石油から電気に主役を変える試みが世界的に行われようとしている。
地球温暖化による二酸化炭素の排出量の規制である。
内燃機関からモーターへのシフトであり、エネルギーの主役を石油から電気にシフトさせ、その電気を自然エネルギーから取り出す方向にしようとしている。
次の世界経済の転換を世界で引き起こそうとしているのだ。
これが現在、パリで開かれているCOP21の役割である。
次ページ>>国民の愛国心を利用するプーチン・ロシアの思惑
ロシアの中東戦略は
もう1つが、中東での戦争であり、その戦争をプーチンが利用し始めた。現在のロシア経済は最悪である。欧米からの経済制裁により、ロシアからの輸出が制限され、かつロシアの欧州への逆制裁により生鮮食料品の値上げがきびしい。ルーブルの価値は落ち、石油や天然ガス価格は下落している。
このような時、国民は経済的な不満で政権を倒す行動に出るが、それをプーチン大統領は、ロシアの栄光を取り戻すとして、国民の愛国心を利用して乗り切るようである。このために、ロシアの偉大さを国民にアピールするために、東ウクライナが必要であったし、シリアが必要なのである。
これと同じ道をとったのが、ドイツのヒットラーであるが、国民は歓喜することを知っているようである。政権を保持するためには必要なこととして、プーチンは認識しているのであろう。国内政治のために海外に出ていく。しかし、この結果は悲惨であろうと思う。
この戦争で何を目的とするかの戦略がない。国民受けだけを狙っていることで、利害対立がある国際政治の真っ只中に出ていくには、あまりにも検討不足のような気がした。
案の定、トルコがシリア反政府勢力をサポートしているが、それへの空爆を敵対視していたが、この原因でロシア爆撃機を撃墜した。プーチンとしては、ロシアの栄光に傷が付いたことで、国民の反発を抑える必要があり、トルコの謝罪がないことで、トルコへの軍事的な報復を行う可能性がある。経済的な報復では、国民感情が納得しない。
プーチンは戦術家としては優秀であるが、戦略家としては失格であるとタルボット氏が言っていたが、まさにその通りになっている。
米国の戦略
トルコはNATOに加盟しているし、事前協議を米国と行っているはずで、この撃墜は米国も了承している。欧州はロシアとの関係を復活したいが、米国はロシアとの関係を復活したくない。ロシアとの関係を悪化させて、米国はイスラエルとの関係を正常化させている。
米国の中東戦略は今まで失敗続きであり、今後の戦略も期待できないが、戦争経済を大きくして、経済を復活させるつもりである。ロシアもそうである。国内景気を上げるには戦争特需が一番手っ取り早く経済を立ち直させることができる。
米国は戦争を拡大させる気のようである。米国自体はなるべく戦争の当事者にならずに、戦争に必要は兵器の供給を行う方向のようである。戦争の当事者を多くしたほうが、言い換えると大規模な破壊を多くした方が、供給量を増やせるので、ロシア対トルコなど中東各国を巻き込んだほうが戦争経済は大きくできる。
もう1つが、米国の軍事費は、この数年共和党茶会派とオバマ大統領が減額してきたが、中東イスラム国への戦争拡大でやっと軍事費の増額ができるようになりそうである。その上にロシアが出てきたことで、これも巻き込むとより大きくできる。
米国経済を活性化させるには戦争経済しかない。やっと米国中枢の要人たちも合意したようである。オバマも渋々了承した。
今まで米国経済を牽引してきたのが、新興国経済の拡大で建設機械や自動車などであったが、この新興国経済が急減したことで、戦争経済に活路を見出すしかないのである。
中東大戦争へ
その結末は、悲惨なものになる予感がする。戦争は始まると予測不能になる。利害対立や感情的な憤激などで、今までは起こりえないと思うことが起こる。
何が起こるかは、その場にならないとわからない。核兵器の使用がいつか起こるのではないかと心配している。
イスラム国は、サダム・フセインが残した軍事組織とイスラム教のピュアーなワハープ主義が結合して、できた組織であり組織自体は非常に近代化されている。スパイや同調者も世界に拡散している。
核兵器や核ゴミを手にいれる可能性があるので、心配である。
もし、核兵器が使用されると、核の応酬が起きて、中東地域全体が人間が住めない地域になる可能性が出てくる。
さあ、どうなりますか?
『国際戦略コラム有料版』より一部抜粋
著者/津田慶治
国際的、国内的な動向をリアリスト(現実主義)の観点から、予測したり、評論したりする。読者の疑問点にもお答えする。日本文化を掘り下げて解析して、今後企業が海外に出て行くときの助けになることができればと思う。
戦争特需でしか活路が見い出せない米国経済
http://www.mag2.com/p/news/130482
2015年12月8日
経済を立て直したい米と、体制維持のために愛国心を利用したいロシアが中東の戦火を拡大させる―。こう解説するのは『国際戦略コラム有料版』の著者・津田慶治さん。もはや中東大戦争が避けられない時点にまで来ていると分析しています。
世界の経済状況
米国のFRBが12月に利上げをするのは、11月雇用統計が予想より良いのでほぼ確実である。しかし、株価が日米欧ともに高いのは、金融緩和でインフレを心配して株に資金をシフトしているからである。本当に経済が良いわけではない。米国は比較的景気が良いので、金融相場から抜けて実績相場にしようとしている。この転換点を作るのが、12月の利上げである。
しかし、FRBも景気が非常に良いからではなく、高金利のハイイールド債(昔のジャンク債)に投資が集まり、この債券の暴落を気にしているのである。米銀行は、債権部門の利益率が落ちて、リスクのあるハイイールド債にシフトしているので、この債券が暴落すると、また2008年のような状況になると心配している。
世界景気が落ちたのは、2008年のリーマンショクによる株価の暴落で資金がなくなったことで、中央銀行は金融緩和で資金を市場に出して、資金を供給してきた。この資金の行き場が株であり、債券なのである。
もう1つが中国の成長加速で、世界から資源を買い、資源国が豊かになり、資源国や新興国が消費を伸ばしたので、世界はやっと回復したのであるが、中国の成長が止まり、世界経済は急落すると心配された。しかし、中国の消費は落ちずに維持しているので、日本も2万円の株価を狙える経済状態にある。
世界経済は、しかし供給過剰・需要不足の状態が継続している。この状態が続くと、本格的な景気の回復は起こらない。また、デフレ経済に陥りやすい。中国の赤字輸出で鉄鋼業は世界の殆どの企業が赤字になっている。
石油も米国のシェールオイルの生産で供給量が増えたのに、中国の減速で需要が不足して、価格が40ドル程度と数年前の100ドル以上と比べると1/2程度以下になっている。
1929年のウォール街暴落から1939年の第2次世界大戦まで継続的に景気が悪かった状態に似ている。継続的に需要不足が起こっていた。長期停滞が起こり、貧富の差が拡大した。これと同じことが現在起こっているのである。
この需要不足を解消するためには、1つには技術革新で今までの製品を時代遅れにして、全く新しい製品群に置き換えることである。もう1つが、戦争を起こして大量の破壊により、今と同じ商品を売ることである。
この2つが、今の世界経済の供給過剰・需要不足を解決する方法であるが、1つ目の技術革新でもエネルギー革命を起こして、石油から電気に主役を変える試みが世界的に行われようとしている。
地球温暖化による二酸化炭素の排出量の規制である。
内燃機関からモーターへのシフトであり、エネルギーの主役を石油から電気にシフトさせ、その電気を自然エネルギーから取り出す方向にしようとしている。
次の世界経済の転換を世界で引き起こそうとしているのだ。
これが現在、パリで開かれているCOP21の役割である。
次ページ>>国民の愛国心を利用するプーチン・ロシアの思惑
ロシアの中東戦略は
もう1つが、中東での戦争であり、その戦争をプーチンが利用し始めた。現在のロシア経済は最悪である。欧米からの経済制裁により、ロシアからの輸出が制限され、かつロシアの欧州への逆制裁により生鮮食料品の値上げがきびしい。ルーブルの価値は落ち、石油や天然ガス価格は下落している。
このような時、国民は経済的な不満で政権を倒す行動に出るが、それをプーチン大統領は、ロシアの栄光を取り戻すとして、国民の愛国心を利用して乗り切るようである。このために、ロシアの偉大さを国民にアピールするために、東ウクライナが必要であったし、シリアが必要なのである。
これと同じ道をとったのが、ドイツのヒットラーであるが、国民は歓喜することを知っているようである。政権を保持するためには必要なこととして、プーチンは認識しているのであろう。国内政治のために海外に出ていく。しかし、この結果は悲惨であろうと思う。
この戦争で何を目的とするかの戦略がない。国民受けだけを狙っていることで、利害対立がある国際政治の真っ只中に出ていくには、あまりにも検討不足のような気がした。
案の定、トルコがシリア反政府勢力をサポートしているが、それへの空爆を敵対視していたが、この原因でロシア爆撃機を撃墜した。プーチンとしては、ロシアの栄光に傷が付いたことで、国民の反発を抑える必要があり、トルコの謝罪がないことで、トルコへの軍事的な報復を行う可能性がある。経済的な報復では、国民感情が納得しない。
プーチンは戦術家としては優秀であるが、戦略家としては失格であるとタルボット氏が言っていたが、まさにその通りになっている。
米国の戦略
トルコはNATOに加盟しているし、事前協議を米国と行っているはずで、この撃墜は米国も了承している。欧州はロシアとの関係を復活したいが、米国はロシアとの関係を復活したくない。ロシアとの関係を悪化させて、米国はイスラエルとの関係を正常化させている。
米国の中東戦略は今まで失敗続きであり、今後の戦略も期待できないが、戦争経済を大きくして、経済を復活させるつもりである。ロシアもそうである。国内景気を上げるには戦争特需が一番手っ取り早く経済を立ち直させることができる。
米国は戦争を拡大させる気のようである。米国自体はなるべく戦争の当事者にならずに、戦争に必要は兵器の供給を行う方向のようである。戦争の当事者を多くしたほうが、言い換えると大規模な破壊を多くした方が、供給量を増やせるので、ロシア対トルコなど中東各国を巻き込んだほうが戦争経済は大きくできる。
もう1つが、米国の軍事費は、この数年共和党茶会派とオバマ大統領が減額してきたが、中東イスラム国への戦争拡大でやっと軍事費の増額ができるようになりそうである。その上にロシアが出てきたことで、これも巻き込むとより大きくできる。
米国経済を活性化させるには戦争経済しかない。やっと米国中枢の要人たちも合意したようである。オバマも渋々了承した。
今まで米国経済を牽引してきたのが、新興国経済の拡大で建設機械や自動車などであったが、この新興国経済が急減したことで、戦争経済に活路を見出すしかないのである。
中東大戦争へ
その結末は、悲惨なものになる予感がする。戦争は始まると予測不能になる。利害対立や感情的な憤激などで、今までは起こりえないと思うことが起こる。
何が起こるかは、その場にならないとわからない。核兵器の使用がいつか起こるのではないかと心配している。
イスラム国は、サダム・フセインが残した軍事組織とイスラム教のピュアーなワハープ主義が結合して、できた組織であり組織自体は非常に近代化されている。スパイや同調者も世界に拡散している。
核兵器や核ゴミを手にいれる可能性があるので、心配である。
もし、核兵器が使用されると、核の応酬が起きて、中東地域全体が人間が住めない地域になる可能性が出てくる。
さあ、どうなりますか?
『国際戦略コラム有料版』より一部抜粋
著者/津田慶治
国際的、国内的な動向をリアリスト(現実主義)の観点から、予測したり、評論したりする。読者の疑問点にもお答えする。日本文化を掘り下げて解析して、今後企業が海外に出て行くときの助けになることができればと思う。
戦争特需でしか活路が見い出せない米国経済
http://www.mag2.com/p/news/130482