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更新が遅くなり申し訳ありません。

夫が先に、ブログを更新していますので、そちらから読んでいただけると幸いです。

 

 

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ヨハネ第一の手紙 第3

 

わたし達が神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことかよく考えてみなさい、わたし達はすでに神の子なのである、世がわたし達を知らないのは父を知らなかったからである、愛する者達よ、わたし達は今や神の子である、しかしわたし達がどうなるのかまだ明らかではない、イエスキリストが現れる時にわたし達は、自分達がイエスキリストに似るものとなることを知っている、その真実の御姿を見るからである、イエスキリストについてこの

望みを抱いている者は皆、イエスキリストが清くあられるように、自らを清くする、すべて罪を犯す者は、不法を行うものである、罪は不法であるあなた方が知っている通り、イエスキリストは罪を取り除くために現れたのであってイエスキリストには何らの罪がない、すべてイエスキリストにおる者は罪を犯さない、すべて罪を犯す者はイエスキリストを見たこともなく知ったこともない者である、子達よ、誰も惑わされてはならない、イエスキリストが義人であると同様に、義を行う者は義人である、罪を犯す者は悪魔から出た者である、悪魔は初めから罪を犯しているからである、神の子が現れたのは悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである、すべて神から生まれた者は罪を犯さない、神の種が、その人の中にとどまっているからである、またその人は神から生れた者であるから、罪を犯すことが出来ない、神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである、すなわち、すべて義を行わない者は神から出た者ではない、兄弟を愛さない者も同様である、わたし達は互いに愛し合うべきである、これがあなた方の初めから聞いていた福音である、カインのようになってはいけない、カインは悪しき者から出てその兄弟を殺したのである、なぜ兄弟を殺したのか、彼の行いが悪くそのアベルの行いは正しかったからである、兄弟達よ、世があなた方を憎んでも驚くには及ばない、わたし達は兄弟を愛しているので、死から命へ移って来たことを知っている、愛さない者は死の中にとどまっている、あなた方が知っている通り、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり人殺しはすべてその人の中に永遠の命をとどめてはいない、イエスキリストはわたし達のために命を捨てて下さった、それによってわたし達は愛ということを知った、それゆえにわたし達もまた兄弟のためにいのちを捨てるべきである、世の富を持っていながら兄弟が困っているのを見てあわれみの心を閉じる者にはどうして神の愛がその人の中にあろうか、子達よ、わたし達は言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか、それによってわたし達が真理から出た者であることが証明される、そして神のみ前に心を安じていよう、なぜなら、たとえわたし達の心に責められるようなことがあっても、神はわたし達の心よりもおおいなる方であって、すべてをご存知だからである、愛する者達よ、もし心に責められるようなことがなければ、わたし達は神に対して確信を持つことが出来る、そして願い求めるものは何でも頂けるのである、それは、わたし達が神の戒めを守りみ心に叶うことを行っているからである、その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたし達に命じられた様に、互いに愛し合うべきことである、神の戒めを守る人は神におり、神もまたその人にいます、そして、神がわたし達の中にいますことは、神がわたし達に賜わった御霊によって知るのである

 

ヨハネ第一の手紙 第3章の反芻

 

どんなに大きな愛で、父がイエス様をわたしたちに贈ってくださったのか、よく考えてみることです。わたしたちは、罪深い塵であり灰であり、価値もない者、ろくでもない者、死ぬ者、滅びる者、何もできない、分からない阿呆なのに、誰一人として失いたくないというお気持ちで、命を捨ててまでもイエス様を派遣して、救いのチャンスをくださいました。

 

その父のお気持ちをないがしろにしたのが、イエス様を苦しめて十字架のかけ殺したことです。

 

わたし達はイエス様を信じる者ですが、どうなるのかはまだ明らかではありません。終わりの時、最後まで耐え忍んだ者に永遠の命が与えられます。

だから、十字架でわたし達の罪が取り除かれたのではありません。

 

イエス様は、神の御子のあかしである御名で罪を許し、世の罪を取り除くために現れられたのであり、イエス様には何の罪もありません。

罪とは、神に背くことです。

義を行うとは、神に最後まで忠実に従うことです。

イエス様は、最後まで忠実に従われた唯一の義なる方です。

イエス様が最後まで耐え抜かれたところに栄光があります。

 

わたし達は、イエス様が耐え抜いた信仰を信じることです。

 

わたし達は、義人になろうとか、神の子になろうとか、愛もないのでイエス様が命を捨てられたように、命を捨てることもできません。世の富で、兄弟に手を差し伸べることもできません。兄弟を愛するとは、口先だけです。何もできません。

 

すべて神のようになろうとすることは、悪魔から来ています。

人の教えを広めて、神のようになることも悪魔からです。

十字架による罪の救いでは、救われません。

 

最後まで耐え抜かれたイエス様をほめたたえること。

イエス様の信仰に栄光があります。

 

できなくても、イエス様の戒めは心にとどめておくこと。

 

悪魔は、兄弟に更なる罪を科して、重荷の上に重荷を乗せ、手を貸そうともしないのです。自分では良いことをしていると思って、実は自分も穴に落ち、兄弟も穴に落ちることになるのです。

十字架で救われると言う偽善の教えを広めないこと。

偽善の教えを広めることは、救われない教えなので、兄弟を愛する戒めに反するのです。

 

イエス様のような愛で兄弟を愛することが実践できないと思っても、イエス様の戒めを心にとどめておくことは最後までかろうじてできることかもしれません。

 

これまでの偽善の教えでは救われない事に気づいた者から、イエス様の福音を世に広めること。