果てしなく暗い闇と黄金にかがやく満月の物語
ー㉛ー
にゃんく
何かしら怒気に満ちたものを四辺に発散させながら、空を切り裂くように、尋常でない速さで飛ぶ物体がありました。それは凄い顔をして箒に跨り南のロゴーク村へ向かっているリーベリでした。
青く澄んだ清々しい一日だった筈なのに、何時の間にか、太陽は暗い雲に覆われていました。緑の木々やカラフルな鳥たちですら、奇妙なことに今や灰色に染まって、そらぞらしく黙り込んでいるのでした。
リューシーとミミが仲睦まじく手を繋いでいた?
リーベリが思い出していたのは、「この男の子は目覚めて初めに見た女性を愛することになる」という、夢かうつつか定かでないジュリアの予言でした。
ベッドの中で、リーベリがリューシーに寄り添おうとすると、リューシーがさりげなく自分から離れて行くような素振りを見せ、違和感を感じたことをリーベリは今更ながら思い出していました。
リーベリは何度も首を振ってミミが自分のリューシーを奪ってしまうだろうという考えを振り払おうと努力しましたけれど、その考えは消え去りもせずにしつこく頭の中にまとわりついて来ました。
大切なリューシーを奪われることを想像すると、リーベリは自分が気が狂ってしまうような気がしました。
洞窟からものの二十分もしないうちに村に着きました。
リーベリはしばらく上空を旋回して見下ろしてみましたけれど、リューシーらしい人影は見当たりませんでした。
三角の屋根を持った実家の上空に来ると、リーベリは箒を持って戸口に降り立ちました。
扉には中から閂がかけられていました。魔法を唱えて胸の前で右の指を十字に切ると、音もなく閂は内側で抜け落ちました。そっと扉を開いて中に這入りました。
奥の居間の方から軋むベッドの音が聞こえて来ました。誰かがくぐもった声で、溜め息を漏らすような声も聞こえて来ました。その声はケイの声ではありませんでした。ミミの声らしいのです。不審に思いながらも、板張りの床の上を静かに歩いて居間の方に近付いて行きました。
リーベリはしばらく居間のとば口の壁に寄りかかって、呆然と信じられない光景を目にしながら立ち尽くしていました。
ふたりとも、リーベリが見ていることにも気が付かないほど熱心に、昼間からベッドの上で裸で抱き合っているのです。
「愛している。毎日、君のことしか、考えられない。出会った時から、君のことが、頭から離れなかった。此処でぼくらが出会ったのは運命だと思う。君は、ぼくのことをどう思う?」
くすっと笑うミミの声が聞こえました。
「愛してるわ」
とミミが答えました。
「あなたに負けないくらい」
「ふたりだけで、幸せに暮らさないか。この国ではない、他の国で。此処ではない、遠い国で。誰もぼくたちの邪魔を出来ないくらい、遠い場所で。おじいさんとおばあさんになるまで、ずっとそこで、幸せに暮らすんだ」
ミミが体の向きを変え、その顔がリーベリからも見えました。「ええ、いいわよ。リューシーが、それを望むなら。ついていくわ。色んなハードルはあると思うけれど」
ミミの顔は紅潮して薄い桃色に染まっていました。
リーベリの頭の中で、リューシーはあたしのもの、あたしが見つけて来たんだから、決してだれにも奪われてはならないの。そのような想念がぐるぐると巡りはじめ、地震でもないのに地面がグラグラ揺れているような気がしました。四辺が真っ暗になり、何も見えなくなってしまったほどです。でもふたりの姿だけは嫌にくっきりとリーベリの目の前に迫って来るのです。
「誰?」
ミミの声が居間の中に響きました。リューシーも人の気配に気付いて、自分とミミの身体をタオルケットで隠しています。
「ミミ、あなたがリューシーを誑かしたのね?」
ミミとリューシーは困ったように顔を見合わせています。裏切られた。ふたりが自分のことを嘲笑っているとリーベリは思いました。
「何のこと?」
リーベリは怒りと悲しみのために、整然と自分の気持ちを言葉に出来ませんでした。何しろ、今すぐにでも、涙が溢れてしまいそうなほどだったのです。ですから、云いたいことはたくさんある筈なのに、リーベリが発したのは、
「すぐ此処から出て行って」
という言葉だけでした。
けれどもいくら待ってみても、ミミはタオルケットに包まって、重いお尻を上げる気配もないのでした。リューシーはリューシーで、まるでリーベリのことを頭の狂った人間が闖入して来たかのように睨みつけ、ミミを庇うように、彼女の身体を自分の身体で隠して守るような素振りを見せています。
リーベリの頭の中で、何かが弾けたような音がしました。
リーベリは自分の髪の毛の一本を抜いて、それに素早く呪文をかけると、ふたりに近付いて行って、リュシエルを押しのけ、ミミの目の前に立ちはだかりました。そうしてミミの顔に何かを描くような動作をしました。リーベリの髪の毛は黒い光を放つメドューサの蛇のようにぐねぐねと蠢いていました。その不気味な黒い光が、ミミの顔に化粧を施すようにしばらく這っていましたが、時を置かず、痛々しいミミの叫び声が上がりました。ミミはベッドから転げ落ちて、両手で目を覆ってもがき苦しんでいます。やがて間もなくミミの声が止み、死んだように両手が床に落ちました。ミミの顔は、両目を中心にしたかなり広範囲の皮膚が、詛いの焼き鏝(ごて)を当てたように焼け爛れ、目をそむけたくなるほど黒く変色しています。
「何するんだ!」
リュシエルがリーベリを突き飛ばしました。リーベリは仰向けに倒れて強く体を床にぶつけました。リーベリは悲鳴をあげました。取り落とした箒が、からんという空虚な音を立てて床に落ちました。けれども、リューシーはミミの周囲で狼狽えているばかりで、ちっともリーベリを気に掛けていませんでした。リーベリはその様子を悲しげに見つめていました。
リュシエルはいったいどう対処すれば良いかも分からずに、予想外の事態にただおろおろするばかりでした。そのうちリーベリが泣きじゃくりながら居間から飛び出して行ってしまいました。リュシエルは奇妙に思いながらリーベリを見送っていましたが、この事態を収拾することが出来るのはリーベリただひとりだということに気付くと、彼女を引き留めなければならないことに思い至りました。しかし、リュシエルが衣を身に纏い、往来に飛び出た時にはもうリーベリの姿は見えず、見上げた空の向こうに、彼女が箒に跨り吸い込まれるように遠ざかっていくばかりでした。