『レニの光芒 ②』瀬川深~「おれの目をひく女の子、レニとの出会い。」 | 『にゃんころがり新聞』

『にゃんころがり新聞』

「にゃんころがりmagazine」https://nyankorogari.net/
に不具合が発生しました。修正するのに時間がかかるため、「にゃんころがり新聞」に一時的に記事をアップロードすることとしました。
ご迷惑をおかけして申し訳ございません。

▽『レニの光芒 ①』を読んでいない方はこちらから

 

 

 

レニの光芒  

 

 

 

 

 

 

瀬川深

 

 

 

 

 

 朝霧が立ちこめ、汽水湖を囲む丘陵が小島のように見え隠れする湖畔の道を自転車で疾走していると、しだいに靄が晴れ、視界が開けてくる。上りゆく太陽が、この大地がいかに広いものであるかを照らし出してくれる。あれは、無類と言っていい瞬間だった。ほかにいかに憂鬱なことがあろうとも、あのときだけはすべてを忘れることができたんだ。
 そんな朝、おれはふたたびレニを見た。湖畔をめぐる道の起点近くにある水神を祀った小さな公園で、見覚えのあるうしろすがたを認めたのである。水際すれすれ、湖面に向きあって立ち、身じろぎひとつしていない。なにをやっているのかはわからない。祈りを捧げているようにすら見えた。美しいすがたに見惚れた……なんて言えばかっこいいんだろうけど、実際は、困ったことになったなと思っただけだった。いつもその公園でシャワーがわりに水道の水をかぶり、制服に着替えることにしていたからだ。これはよく覚えているんだが、秘密にしていた聖域に邪魔が入ったという気分にすらなった。顔をしかめて立ち去ろうとしたのと、レニが振り返ったのとはほとんど同時だったんじゃないか。
  ――あれ。また自転車?
  ――トレーニングだからね。きみこそ朝っぱらからなにやってんのさ。
 またとはご挨拶だな、と思った。ぶっきらぼうな物言いをしたが、そんな手前勝手な感情が伝わるはずもない。女の子にキミ呼ばわりとは気が利かないもんだが、まあ、あのときのおれはそんなもんだったんだと思ってくれ。
  ――写真よ。
  ――写真?
 レニの答えにおれはまたも驚かされることになる。このあいだ見かけたご大層なやつと打って変わって、掌中に収めていたものは小さな紙箱にしか見えなかったからである。
  ――カメラ、持ってなかったっけ。
  ――持ってるよ、一眼レフのいいやつ。パパのだけど。わたしのはこっち。
 レニはほとんど誇らしげな顔をしていた。その小箱にいかなる秘蹟が隠されているのか、おれに説いて聞かせようとしたのである。いわく、このカメラにはシャッターもなければ絞りもミラーもない。レンズすら付いていない。ただ、光りは、うがたれた小さな孔を通して小箱に飛びこみ、印画紙に倒立した像を焼き付けるのだというのだ。
 わたしが作ったのよ、とレニは言った。こんなにシンプルなのに一つ一つ個性があってねえ、出来のいい子がいれば、ぼんやりしてるくせに味わい深い写真を撮る子もいて。ほんとうに面白いの。もう二十か三十は作ってみたんじゃないかな。手塩にかけた花々を慈しむみたいな口調で、レニは語った。ハイテクをきわめた最新型のカメラともっとも原始的な光学装置、その両方を携えていることこそが重要なのだ、そんなこともレニは力説した。それはつまり右手であって左手であり、アルファでありオメガであって、光りを封じ込める魔術を操るときに忘れてはならない二つの極なのだ……。おれは相当な間抜けづらでそれを聞いていたんじゃないかと思う。
  ――それで、なにが撮れるのさ。
 そう訊ねるのが精一杯だった。
  ――これよ、これ!
 レニは虚空に手をかざしてみせた。
  ――いまここにあるものの全部よ。全部。いま、ここにあるもの、初夏の日の出とか、汽水湖の朝霧、一回こっきりきりでしょ、ありふれているけれど毎日毎日がどこかちがっていて、ぜったいに蘇ることなんかない、この瞬間だけの、まるごと……。
 おれはあっけにとられながらレニの言葉を追いかけていた。想像もしていなかった熱いほとばしりをまともに受けたような気がした。それは、ほんとうならば、心のなかの奥深いところにしまいこまれているようなものだったんじゃないか。
  ――で、どうなの? なんで朝っぱらからこんなところを走ってたの?
 ひととおりの熱を放ち終わったと言わんばかりに、唐突にレニはおれのほうに向き直った。どきりとした。試されているようにも挑まれているようにも思った。鋭いくちばしを持った猛禽と相対したとき、およそ生物はこんな感情を抱くんじゃないか。
  ――それはさ、つまり……。
 意を決しておれは話しはじめた。せめて、レニの熱量にだけは後れを取るまいと念じながら。

 

 

 

 

 

レニの光芒  ③につづく

 

 

 

 

 

 

作者紹介

 

 

 

瀬川深(せがわ しん)

 

1974年生まれ。岩手県生まれ。東京医科歯科大学卒業。同大学院博士課程修了。医学博士。

2007年『mit Tuba』(『チューバはうたう』に改題)で第23回太宰治賞を受賞。

作品に、『ゲノムの国の恋人』、『ミサキラジオ』などがある。

イェール大学で遺伝学・神経生物学研究にたずさわりながら、執筆活動を続けている。

 

 

(作者紹介文は、小学館文庫『ゲノムの国の恋人』などを参考に作成しました。にゃんく)

 

 

 

 

『レニの光芒』①

『レニの光芒』②

『レニの光芒』③

 

 

 

*『レニの光芒』の無断転載を禁じます。作品の著作権は、瀬川深さんに属しています。ネットでの公開権は、『にゃんころがり新聞』のみが有しています。

 

 

 

 

 

 

 

にゃんころがり新聞TOPへ

 

 

「読者登録」もよろしくお願いいたします。