レニの光芒 ①
瀬川深
暗い部屋のなかにいる。かすかに酸のにおいがただよう。現像液のなか、ゆっくりと浮かび上がり、秒針が時をきざむごとに色濃いものになってゆく。古い時代の古い光りが焼きつけた影だ。慎重に静かに印画紙を揺らしつづける。液のむこうに歪む像がなんであるのか、たしかめたいとはやる気持ちを抑えながら。
1.
レニの名前を知ってはいたんだ。成績は市でトップ、父親は市立病院の外科部長。そんな目立つ女の子が入ってくるということは、高校入学のときにすでにうわさになっていたからね。もっとも、クラスもサークルもちがえば接点なんかない。ときおり、すらりと背の高いロングヘアが視界のすみをかすめるぐらい。二年生になって同じクラスになりはしたが、それだけのことだった。そんなレニに、おれはあらためて「出会った」ということになる。
沖浦という小さな町でのことだ。 広大な汽水湖のかたすみの、古い商都。いまになれば懐かしくもあるけれど、当時はぜんぜんそんなことはなかった。水運で栄えたのは百年も昔のこと、古い建物と細い路地だらけで、そのくせ住民のプライドはむやみに高い。中学校のはんぱな時期に引っ越してきたんで、ともだちもできやしない。どこにも居場所がなくてね。
唯一の気晴らしになったのが自転車だった。自転車を漕いでいるときだけは、家のことも学校のことも忘れることができたからな。高校に入ってバイトをはじめて小マシなスポーツサイクルに買い換えて、狭い町の路地裏を巡るのにも飽きたら汽水湖のほとりへと漕ぎ出していった。広大なものに向きあっていると、胸の奥に風が吹きわたっていくような気分になるもんだ。がむしゃらに自転車を漕ぎ、やみくもに汗をかく。そうやって自分の肉体を鍛えていくことが、あのころは楽しくてしかたなかったんだ。
そんな途上でのことだったと思う。旧市街の、冷たい水の流れる堀割沿いでのことだ。おれはレニを見たんだ。意外なすがたではあった。不釣り合いなぐらいに大きなカメラをどこへかとむけて構えている。黙って通り過ぎようとしたけれど、振り返ったレニと目が合った。
――なに撮ってんの?
唐突にそんなことを訊いたのに、レニは落ち着き払っていた。
――蔵よ。むかしは米屋さんだったんですって。
――へえ……。
おれは気が抜けたような返事をした。この界隈にいくらでもあるようなボロ屋にしか見えなかったからだ。かつて着物や酒や薬品を商いながら、時の流れに取り残されてしまった建物たち。二度とよみがえりそうにない、老いさらばえた街路。そんなものを撮ってなにが楽しいんだろうとしか思えなかった。
――いいでしょ。古いのよ、これ。うんざりするぐらい古いの。
思わずレニの顔を見たことをおぼえている。レニの声は静かなのに揺るぎなくて、なによりも喜びに満ちていたからだ。
このときは、これだけだった。しかしそれからしばらくたった六月のこと、おれはふたたびレニに出会う。このころになるとおれの自転車狂いも少々念が入ってきて、汽水湖のほとりを半周してから登校するのが日課のようになっていた。汽水湖ってのは不思議なもんでね。低地に海が流れ込んで淡水と混じり合った水域だ。湖のようにも湾のようにも見える。舐めればかすかに塩辛いはずだ。かつてはエイやサメがこのあたりにまで遡上し、悠々と遊遊弋弋(ゆうゆうよくよく)するすがたを見せていたのだと聞いたことすらある。
レニの光芒 ②につづく
作者紹介
瀬川深(せがわ しん)
1974年生まれ。岩手県生まれ。東京医科歯科大学卒業。同大学院博士課程修了。医学博士。
2007年『mit Tuba』(『チューバはうたう』に改題)で第23回太宰治賞を受賞。
作品に、『ゲノムの国の恋人』、『ミサキラジオ』などがある。
イェール大学で遺伝学・神経生物学研究にたずさわりながら、執筆活動を続けている。
(作者紹介文は、小学館文庫『ゲノムの国の恋人』などを参考に作成しました。にゃんく)
『レニの光芒』①
『レニの光芒』②
『レニの光芒』③
*『レニの光芒』の無断転載を禁じます。作品の著作権は、瀬川深さんに属しています。ネットでの公開権は、『にゃんころがり新聞』のみが有しています。
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