勉強ノート  奥の細道を辿る(29)膳所・義仲寺 | 中島幼八

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中国残留孤児が辿る

 

         奥の細道紀行(29) 

                  膳所・義仲寺

 

膳所というところに義仲寺がある。義仲寺に松尾芭蕉の墓所がある。そもそも膳所という地名は関西以外では知られていない。読み方すら知らない方が多いのではないだろうか。私もその一人で、義仲寺にある芭蕉のお墓にお詣りするために、「ぜぜ」駅を降りた。歩いてほどなく、「ぎちゅうじ」に到着。

 

芭蕉の最期について、芥川龍之介は「枯野抄」を書いた。そのうちの一節を引用させてもらう。

「うす痘痕(いも)のある顔は、顴骨ばかり露に痩せ細って、皺に囲まれた唇にも、とうに血の気はなくなってしまった。殊に傷ましいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮かべながら、まるで屋根の向こうにある、際限ない寒空でも望むように、徒に遠い所を見やっている。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のように漂っていたのかも知れない。」

 

芭蕉は最期まで旅の夢を見ながら、しかも枯れ野を駆けめぐってはさまようなかで終わろうとしていた。仏陀の涅槃図さながら、門弟に囲まれて、末期の水を取るセレモニーが進められていた。一椀の水と一本の羽根楊子で唇を浸す、このやり方は関西の方で古来こうであったのか、一度経験した者にとって、この場面を始めて理解できた。元禄七(1694)年十月十二日の午後、大阪御堂前南久太郎町における出来事であった。

このとき、河合曽良はその場に居たか、気になるところだ。きっと、居たに違いない。

 

その後、芭蕉の亡骸は膳所の義仲寺に埋葬された。本人の遺言だったとか。

義仲寺の小さな門からあまり広くない境内に入ると、中程はほとんどが墓地に占められている。その真ん中に木曽義仲の墓がでんと構えている脇に添えるように松尾芭蕉のお墓があった。

 

      木曽殿と背中合わせの寒さかな    又玄(芭蕉門人)

 

                木曽義仲墓         松尾芭蕉墓

 

芭蕉は生前なぜこれまで木曽義仲を慕っていたのか、わからない。芭蕉を書いた芥川龍之介も子供時代から義仲に惚れ込んだらしい。

 

        義仲の寝覚めの山か月悲し    芭蕉

 

この膳所の近くに粟津というところがある。

「平家物語」では、義仲が巴御前と僅かな配下と共に宇治川の戦いに敗れて、琵琶湖畔の粟津まで逃れてきた。乱戦のなかの、巴御前の凄まじい姿と、義仲のむごい最期を無限の迫力でえがかれている。東国へ逃れた巴御前は91歳まで生きて、いまは義仲と同じところに眠っている。ともにあっぱれな戦いぶりだった。

 

上の句は奥の細道で越前の燧が城を通るときに作った句のようだ。

 

 

         (次回、30章 京都・嵯峨野へ)

 

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