中国残留孤児が辿る
奥の細道紀行(28)
伊賀上野
私は亀井勝一郎(1907〜66)の「大和古寺風物誌」の文庫本を持って、年に一回は奈良へ行く。この本との出会いは中華学校の時代に恩師江田先生に薦められて読み始めた。まだ日本語も十分に身に付いてない時である。それでも文章の良さにすっかり魅了された。私にとってそれがまた日本美術への啓蒙書でもあった。次の一節があった。
「ちょうど夕方であったが、木津川へさしかかる前、菜の花の咲き乱れた遠い涯に、伊賀の古城が夕映をうけて紫色に燃えているのを見た。」
本来、奈良へ行くときに米原経由で京都を回って行くコースが定番のはずだが、なぜ「伊賀の古城」つまり上野城が見えるのか、疑問に思った。調べたら、名古屋を出て桑名を経て、奈良へ行くコースもある。どうやら、新幹線のない時代はこの方が早いのだ。それで「旧東海道」という標識も見かけた。
それなら、このコースで行ってみようと、夏休みの時期にJRの青春18きっぷで伊賀上野駅に向かった。のんびりと8時間もかかって、夕映えをうけて紫色に見えた上野城に登った。真っ白の天守閣が立派にでんと構えると、夕暮れの色(紫色)に映えていたであろう。雄大に見える城壁の上に立って眺めると、だんだんと眼下の町並みが夕闇に沈んで行くに従い、なんとなくうら寂しい気分になる。
伊賀の地は一般的に忍者の郷で知られている。焼き物としても伊賀焼・信楽焼が知られている。もちろん松尾芭蕉が生まれた場所としても有名。そのために奥の細道を旅する芭蕉を隠密だと考える向きもある。
このお城は芭蕉が俳諧の道へ大きな影響を及ぼした藤堂家の居城だ。構内に芭蕉翁記念館がある。やはり芭蕉の故郷にある記念館として、ほかのどこの記念館よりも充実していると思った。「自然」という二文字だけの掛け軸があって、芭蕉の到達した思想が集約されている言葉であった。
生家は市街地のメインストリートに面して、木造の家だった。よこに庭もあったが、奥の離れは帰郷の時に使っていたそうで、質素な雰囲気だった。ここの家は29歳の時に江戸へ出て行くまで住んでいたそうだ。
私は俳聖としての松尾芭蕉がどのようにできあがっていったのか、名が忠左衞門と名乗った時期のことに非常に興味を持っている。もちろん、江戸へ出る前に桃青という俳号で俳諧の作品をたくさん書いたが、その感性はどのように身についたのか、興味を持つ。当時藩主高虎家の料理人だったとネットで紹介されているが、江戸に出てから一時神田川の上水工事にも従事していたようだ。しかも、工事を請け負うほどの能力を持っていたとかテレビで紹介されていた。いずれにしても生計を立てる手段として持った職業であったが、その傍ら一貫して俳諧に励み、江戸で数年後に立机するように、プロの俳諧師として独立することになる。
当ブログの冒頭に深川の芭蕉庵を紹介したが、それが俳諧の拠点であったようだ。
(次回、29章 膳所・義仲寺へ)
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