中国残留孤児が辿る
奥の細道紀(27)
福井・大垣
永平寺から路線バスで30分そこそこで福井駅に着いた。このときまで狭い日本といえども県庁所在地に降り立ったことがないというのはここだけ。いつも汽車の車窓から眺めた沿線の民家の黒光りする屋根瓦、一度は降りてみたい。とくに秋になると越前ガニのポスターを目にするたびに、行きたいなあと心が動く。しかしついぞ、その機会がなかった。
今回は蟹でなく、目的は芭蕉である。かれが福井に来てから、旧知の所在を久しぶりに探し当てる話は、現代人にもよくあることだ。その旧知は等栽という。夕飯を済ませてから、街に出た芭蕉は等栽はまだ存命かな、と訪ねてみた。「あやしの小家に、夕顔、へちまの、はえかかりて、鶏頭、はは木々に戸ぼそをかくす。扨は、此うちにこそと、門を叩けば、侘しげなる女の出て・・かれが妻なるべしと、しらる。・・その家に二夜とまりて名月は、つるがの湊にと旅立」。そのとき、等栽は「裾をからしうからげて、道の枝折とうかれ立。」つまり、着物の裾をしゃれた格好に尻からげにして、道案内にと、ウキウキと旅立ったのである。このくだりを読むと、地方の人はなんと親切だろう。いまも変わらなく・・と思う。
この等栽の家は現在の福井駅からそう遠くないところにあったそうだが、北陸新幹線に乗らなければならないので、後ろ髪引かれる思いで帰途についた。
芭蕉が向かった敦賀から先の旅程にある名所は、私は全然訪ねていない。奥の細道に出ているいくつかの名所は私にとって全部は無理かも知れないが、燧が城だけは足腰の動けるうちに行ってみたいと思う。義仲が平氏軍に負けたところだから・・
「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊に晴たり。
月清し遊行のもてる砂の上
「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と・・
案の定、亭主のおっしゃった通り、十五日の夜は「雨降」、名月も台無しになったようだ。
名月や北国日和定なき
この辺の曽良日記を見ると、曽良も宿の出雲屋に泊まったようだ。そして、後から来る芭蕉翁に返したいので亭主に一両をあずけた。どうやら山中温泉で別れるときに翁から2両借りたらしい。伊勢までは見当が付いたから、ここで借金の半分を返したかっただろう。さらに、ここから種(いろ)の浜へ行くのに難路が続くので、翁に舟を手配してあげたらしい。どこまでも師匠思いの曽良であった。
その曽良もまた、大垣に無事到着した芭蕉を迎えにきていた。終着点で地元の門人たちはこぞって師の無事を喜び、芭蕉本人も人一倍安堵したのであろう。その雰囲気は短い文章を読むとじかに伝わってくるのである。
蛤(はまぐり)のふたみに別(わかれ)行秋ぞ
芭蕉はここから二見浦へ向かい、また舟に乗り込んだのである。
私はこの終着の大垣へはだいぶ以前に行ったが、川に舟が浮かんでいるだけの記憶である。
(次回、28章 伊賀・上野へ)
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