中国残留孤児が語る
粟裕将軍の非凡な生涯(22)
人民共和国の成立
1949年10月1日、毛沢東は全世界に向け、中華人民共和国の成立を宣言した。
4月30日、天安門広場で人民英雄記念碑の起工式が行われた。鍬入れに毛沢東、朱徳、賀竜に続き、4番目に粟裕が鍬を持つ順位で進められた。賀竜の右側の陰に写っているのが粟裕将軍だが、常に目立たない存在だった。
天安門広場のど真ん中に立つ人民英雄記念碑は9年間かかって1958年に完成。
周囲にアヘン戦争からの各歴史時期における革命運動をレリーフで表現。写真は渡江戦役を表現したレリーフ。
済南戦役の前に行われた曲阜会議の出席者。
その中から、1949年の全国政治協商会議に出席した第三野戦軍代表団の粟裕団長と団員の戦友たち。
粟裕は9月12日ころに北京入り、10月1日天安門に登り、国慶節に出席、10月23日南京に戻る。共産党の初代南京市長になる。
南京に戻った粟裕は台湾解放のプログラムにとりかかった。しかし、翌年の1950年6月25日に朝鮮戦争が始まった。できたての人民共和国は台湾解放を同時にできないので、抗米援朝を優先するようにした。そこで、毛沢東は朝鮮戦争の指揮に粟裕を指名した。当時粟裕は体調を崩し、青島で治療していた。それでも毛は3回時間を延ばして、彼の健康回復を待っていた。いよいよ決めなければならないので、羅瑞卿に見舞いを兼ねて様子を見てもらった。メニエル病がもっともひどいときだったので、毛は諦めて、林彪にと思ったが、林は援朝そのものに反対だったし、健康を理由に断ってきた。やむを得ず、毛は彭徳懐を西安から呼び戻して、大任を任せたのである。
その後、粟裕は家族とともにモスクワへ治療にでかけた。この時の家族団らんは粟裕とご家族にとって、久しぶりの幸せのひとときだったと中国メディアが強調する。
「そうだよな」と私もつくづくそう思った。
(次回(23)へ続く)
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