学習ノート 粟裕将軍の非凡な生涯を語る(20)上海解放 | 中島幼八

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    粟裕将軍の非凡な生涯(20) 

            上海解放

 

上海解放戦役は、回顧録の中で「京・滬・杭戦役実施要綱」に定められた渡江戦役の第二段階と位置づけている。

この写真は1949年7月6日、上海解放祝賀大会のもの。左から陳毅、𩜙漱石、粟裕。この戦役では粟裕の補佐役に張震将軍が務めていた。また、この日に陳毅が上海市政府に登庁し市長の椅子に座った。

 

戦闘は5月12日に宝山から始まった。宝山というと今日ではかの有名な日中協力のモデルケースである宝山製鉄所の所在地である。70年前ここから上海解放の砲声が上がったのだ。当初主要な戦場はこの一帯の呉淞だった。揚子江の河口に近く、国民党にとっては海上の退路を確保したかった。共産党の方針としても上海というと街に損傷をもたらさないで解放したかった。陳毅の言葉で言うと「骨董店内でのネズミ取り」作戦になる。左の地図でわかるように呉淞・宝山ではかなり激戦が展開された。なかなか勝負がつかない。

5月16日粟裕は思い切り戦術を換え、それまでの大軍団を小分けして敵の陣地を分断して、突破口を作って敵陣の奥へ切り込んでゆくようにした。正面の呉淞に対し、うらの高橋からも挟み撃ちにした。また東の海上に迫る敵艦隊に大砲を撃ち込み、敵艦7艘を撃沈し、国民党軍の海上封鎖を崩した。

同時に市街地の敵が手薄なので、市内へ攻撃したかったが、一方の都市接収作業の準備との絡み合いをにらみながら進行を指揮しなければならなかった。23日敵将湯恩伯が呉淞口外の軍艦へ逃走した情報をキャッチし、敵軍が撤退体制に入ったと判断。接収作業のめども付いたと指示を受けて、市街地へ総攻撃を開始した。

 

市街戦でとくに手を焼いたのは四川路の蘇州河の橋にある郵政ビルだった。当時ここに国民党軍の指揮所があり、機関銃掃射で近づけられなかった。大砲を撃てば問題ないが、建物保護優先で小銃しか使えなかった。犠牲者が多く出たので、「建物優先か兵士の命が優先か」と不満が出るほどだった。済南戦役の司令員だった聶鳳智が居ても立っても居られなかった。その時、地元党組織のメンバーが蘇州河側に排水口を見つけた。そこから潜入してビル内に入り、内外から挟み撃ちで敵を一掃した。

1924年の建物はいまも立派に構えている。

 

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写真は外白渡橋を渡る解放軍の騎馬隊、バックは上海大厦(ブロードウエーマンション)。

人口600万の上海は開戦以来一週間の間にライフラインの電気、水は止まることもなく、市民生活に影響がなかったそうだ。粟裕の部隊も雨期にも拘わらず、路上で寝泊まりして、3日目には治安維持以外の部隊は全部街から撤退した。

 

粟裕は回顧録の最後に「京・滬・杭戦役実施要綱」に定められた第三野戦軍の任務はすべて完成した。」と締めくくっている。

どんなにほっとした気持ちだっただろう。あの祝賀大会の壇上におけるかれの喜びようを思うと、こっちまで達成感が伝わってくる。

 

昨年(2019年)、上海戦役の70周年を記念して、当時最初の砲声がとどろいた宝山で記念の集会があったそうだ。そこで、粟裕将軍の銅像が建立されて、除幕式が行われたとのこと。

 台座の文字は「上海解放戦役総指揮 粟裕」と書かれている。

   

        (次回(21)へ続く)

 

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