学習ノート 粟裕将軍の非凡な生涯を語る(17) 淮海戦役第三段階 | 中島幼八

中島幼八

ブログの説明を入力します。

中国残留孤児が語る

 

    粟裕将軍の非凡な生涯(17) 

        淮海戦役第三段階

 

毛沢東選集第四巻によると、第三段階は1949年1月6日〜10日、場所:陳官庄地区。

 

この段階の淮海戦役は主戦場が徐州の西にある陳官庄である。時期は真冬の時期で南方とは言え、やはり寒い。でも一般的に毛皮の帽子までかぶる習慣がない。このとき東北地方からの支援物資を受けて、野戦軍の兵士たちが着用するようになった。これを見た国民党軍は震い上がった。なぜかというと、この淮埠会戦で続けて2連敗、その前に東北地方の遼瀋戦役でも負けて、それを経験した杜聿明は「まさか林彪の部隊がやって来たのでは?}と恐れおののいたようだ。まるで日本の源平合戦の富士川の役みたいな話だ。この帽子の由来について、後日語ることにする。

さて、この写真は左から粟裕司令員代理、張震参謀長らが杜聿明との作戦を検討しているところ、決して林彪部隊ではない。

 

粟裕の相手になる国民党側の将校を紹介しよう。

4人とも同じく黄埔軍官学校の卒業生で蒋介石の愛弟子、しかしこの戦場におけるそれぞれの結末は四人四様であった。

 

杜聿明(左上 といつめい)は遼瀋戦役の四平戦で林彪と勝負がつかず、林彪が長春へ撤退している間に、彼は蒋介石に呼び戻され、徐州剿共本部副長官として、一兵も持たない身でありながら、三つの兵団の指揮を命じられた。

邱清泉(左下 きゅうせいせん)は第二兵団を率いる。気性が激しく、あだ名が邱瘋子(瘋癲)、暴れん坊将軍というところ、ほかの部隊と協調性に欠ける。

孫元良(右上 そんげんりょう)第十六兵団4個師団を率いて包囲を突破しようとしたが華東野戦軍にまず殲滅され、本人も戦死。

李弥(右下 りや)は第十三兵団を率いるが、うまく逃走した。

 

毛沢東選集第四巻に杜聿明らに投降を勧告する文章があるが、それぞれを将軍と呼んでいる。

 

このブログにぜひもう一人登場させたい。

名は郭汝瑰(1907〜97 かくじょかい)、肩書きは中華民国国防部作戦庁長(左)、晩年の写真は中国人民解放軍の軍服姿。

 

前掲の淮海戦役第一段階の期間はわずか4日間で終わっているが、しかし粟裕にとっては、すでにその前、12月初から開始していた。

粟裕に毛沢東から指示が届く。杜聿明は徐州から撤退する。コースは南東方向という情報。粟裕は繰り返し分析したが、南東へのコースはあり得ない。水郷地帯で河川が多い。戦車などは移動に難しい。可能性は西方向では・・と思うが、しかし毛の情報にはしっかりした根拠があるはずだ。その情報源は郭汝瑰の流したものに違いない。郭は蒋介石の作戦計画を作成する役目で、彼自身は極秘の共産党員。情報に手違いはあるはずがない。粟裕としては、中央の指示に従わざるを得ない。

一方、郭は確かに作戦計画を作り、蒋介石にも認められた。それを極秘ルートに流した。しかし、杜聿明が南京の会議に顔を出したが、かれはかねてから郭に疑いを掛け、うさんくさいと思った。会議の後、蒋介石を別の部屋に呼び、自分の別のルートを提示し、蒋に認めさせた。そしてそれを誰にも伏せてほしいと付け加えた。

1948年11月末、杜聿明は北側の野戦軍に攻撃を見せかけながら、月を改めた1日に突如西へ大軍を動かした。粟裕がその動きをキャッチするや、ただちに西へ追撃の手を打つ。自分の考えに基づいてある程度準備をしてたのがよかった。杜聿明の方は重装備の大軍だけでなく、市民も巻き込んでの大移動、道路の混雑で速く進むことができない。さらに兵の疲労がひどく、途中で一日休養した。その間、野戦軍は真正面からその進行を阻止する形で囲み、ついに陳官庄あたりに杜を完全に包囲した。

一方、中央からの粟裕に指令がくだり、杜聿明を包囲したままにすること、戦わずにして生殺しにしたところで、頃合いを見て壊滅にするということ。雪が降る寒さの中で一ヶ月も野営する杜の三兵団が兵糧攻めに苦しむ。仕舞いには逃亡が絶えなく、しかも集団逃亡が増えるばかり。粟裕軍の陣地へ逃げ込むのが多くなったので、投降兵士接待所まで開設するほどになった。

そんな状態が続く中で杜陣営は内部瓦解が進み、新年を過ぎて、1月6日に粟裕は総攻撃の開始を号令した。忽ち、杜聿明陣営の瓦解が加速し、10日明け方、杜聿明の率いる三つの兵団が全滅になった。杜聿明自身が捕虜になり、邱清泉が自殺し、李弥だけは仮装して逃げ切った。孫元良はその前にすでに戦死している。このように四人は四様で終わったのである。

杜聿明は生け捕りされた際に、いきなり石ころで自分の頭を打ち続けて自殺を図ろうとしたが、周りから「長官が大変だ」と騒ぎになり、はじめて杜聿明だとばれてしまったようである。

 

写真:捕虜になった時の杜聿明。

 

その後、1959年に特赦で戦犯管理所から釈放され、周恩来らの厚遇を受けた。一度人民代表大会(国会)の代表にも選ばれ、77歳他界されるまで台湾の同級生や元同僚たちに平和統一を呼びかけたとのこと。

 

例の蒋介石の作戦計画を担当した「頭号臥底」と言われる郭汝瑰は、最後に、蒋介石の一軍長として、蒋が1949年12月10日に成都を離れ、台湾に向かったが、彼は宜賓で部下を引率して蜂起し、大陸に残ったのである。ところで、「臥底」という中国語は、これまで私も知らなかったが、底に潜むというからには蒋介石の底なので、並みの神経では務まれなかったであろう。

毎回の当ブログではそういう人物が登場するが、一体どのぐらいいたか、全体像がわからない。というのはかなりの人は貝になって、社会主義の下でも自分の過去を明かさないらしい。それがかつて鉄則でもあったし、またそれが習慣にもなってしまったようだ。

 

      (次回(18)へ続く)

 

 

//////////////:::::::::///////////::::::::::///////////::::::::::://////////

 

自分のコマーシャルをお許しください。

僕は中国残留孤児として生き残った者です。5年ほど前に体験記を日中両言語で出版しました。ご購入していただければ幸いです。

発売元の亜東書店をご利用ください。

 

亜東書店:https://www.ato-shoten.co.jp/ 

 

 

日本語版:「一中国残留孤児がつづる  この生あるは」

               幼学堂刊 418頁
亜東書店webショップ 
https://www.ato-shoten.co.jp/index.php/product-25887.html
 

中国語版:「一个日本遗孤的回忆 何有此生」

                北京三聯書店刊 376頁

亜東書店webショップ

https://www.ato-shoten.co.jp/index.php/product-16749.html

 

 ///////////////::::::::::::::////////////////:::::::::::::///////////////