娘と話す 非暴力ってなに ジャック・セムラン
いささか個人的なことを書かせていただきますと この本のなかで 「合気道」が「非暴力的に戦えるスポーツ」として紹介されていますので、3年ほど前に 69歳で始めた合気道の道場にこの部分のコピーを持ち込みましたら、師範の方が これを道場の壁に貼ってくださいました。
その時の雑談がご縁で その脇には「非暴力平和隊」のリーフレットも貼ってあります。
娘と話す 非暴力ってなに ジャック・セムラン 山本淑子訳 現代企画室
下手な紹介より 「はじめに」が この本を分りやすく紹介しています。
『「パパ、非暴力ってへんな言葉だね。どういう意味なの?」
二十年来、暴力と非暴力行動について研究している専門家として、13歳と8歳の娘にわかりやすく説明するには、いったいどうしたらいいのだろうか。(中略)
娘たちに知ってほしかったのは、非暴力は受身の行為ではないということだ。もめごとを解決し、不正をなくし、長く続く平和を築きたい、そのためにとるべき態度や行動が非暴力なのだ。(以下略)』
109ページ 新書より一寸大きいサイズ 定価1000円の 標題どうりの読みやすい本です。
著者は 「パリ政経学院教授、フランス国立科学研究センター研究員、現代史、社会心理学、政治学の専門家。」と紹介されています。
鞍田東
朝日・声欄「守る気概欠き、何が愛国心か」に寄せて
(一)
2007年1月29日 標記のような投書が掲載されました。
そこで つぎのような投書をしておきました。
(二)
29日の投書 拝読しました。
私は 日本国憲法第12条が「国民の不断の努力により」「自由及び権利」を守ることを要請しているのは、国民の権利を制限することに熱心な自国の権力者に対してであると同時に 「仮に」攻めてきた「外国の軍隊」に対してでもあるのですから この世論調査の結果に 注目せざるを得ませんでした。
この課題を深めるため いくつか お尋ねしたいことがあります。
(1)
湯浅さんは「国を守る気概」という言葉を使って居られます。
この「気概」によって どのように 「略奪や家族の陵辱」を守ろうとお考えなのでしょうか?
旧満州でご苦労されたという経験をお持ちなのですか いざというと「国体を守るため」と称して 一般人を放置して家族諸共逃亡した旧日本軍のような軍隊に期待しておられるのではないのでしょう。
どのように お考えなのでしょうか?
(2)
湯浅さんは 軍隊が破れ 政府が撤退したあとでも 遺された国民の生命と権利を守るために戦い続けた中国の抗日ゲリラやフランスのマキなどをお考えになっているのでしょうか?
或いは 全国民が 自宅に銃と弾丸を保有しているスイスのような国をイメージしておられるのでしょうか?
このような姿勢を推奨された場合、敗戦以来 事実上日本を軍事占領している米軍と、その米軍支配に抵抗している沖縄など各地の方々との間が どうなるとお考えですか?
(3)
しかし 湯浅さんは 宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」(岩波新書)をお読みになったことがおありでしょうか?
私は 奮戦した沖縄戦の日本軍が 戦争中にも 結果的にも 沖縄の人たちを守れなかったことを 深刻に考えるべきだと思っています。
そして この朝日新聞の世論調査の設問に 欠陥があると感じていました。
「国を守る」のか「国民を守る」のかは混同しないようにして戴きたかったし、大事な選択肢として 第2次世界大戦中のナチスに対するノルウエーのような歴史を持つ「非武装抵抗」が抜け落ちていたことを残念に思っています。
私は 「国(民)を守る気概」を 「いざという場合には徹底的な非武装抵抗をする」という国民合意がの形成へと具体化することにより 「国民を守る」道が開けてくると思っています。
湯浅さんは どう お考えでしょうか?
ご意見が伺えれば 幸甚です。 合掌
(三)
1月29日の投書に対し 2月4日 「戦わずに逃げる それが愛国的」という投書が掲載されました。
そこで 再度 下記のような投書をしておきました。
(四)
「逃げる」しかないでしょう、しかし「降参する」ことには反対です
1月29日の湯浅さん、2月4日の小林さんの投書を拝読しての 私の意見です。
日本は 戦時中でも スイスのように全国民に武器を配布しておくということをしませんでしたし、「国民保護法」も その真意はさておき 国民が戦うことを期待していません。
旧満州では かの精強な関東軍さえ 民間人を放置して逃げたのですから、「逃げる」のは 唯一の選択肢でしょう。
しかし、もしも 自衛隊が降伏したとしても 国民は降伏してはならないと思います。
憲法は 第九条で戦争放棄を定めていますが、同時に第12条で「自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と規定しています。これは 一方において 政府が国民の自由と権利を制約しようとする場合の国民の姿勢を定めているとともに、「仮に外国の軍隊が攻めて」来て 国民の自由と権利を侵害しようとしたときの国民の基本的な姿勢を示していると思います。
私は 日本の人たちが、「外国から攻められないようなをつくる」ことが何よりだと思いますが、同時に かって朝鮮半島の人たちが日韓併合後も三・一万歳事件のような執拗な抵抗をしたように、ノルウエーなど欧州諸国の人たちがナチスドイツの強力な支配に対して裁判官・牧師・教員などの辞任などあらゆる非暴力抵抗を続けた事例に学んで、一時 戦火から「逃げ」ても、あくまで「降参」せずに「抵抗を続ける」覚悟を持つようになることを 願っています。
2007,2,5
【ブログ発見】「非暴力情報を発信してる日本語サイトは少ないみたいなんで、」
私が このブログを立ち上げたのは まさに このような想いからでした!
ところが 今朝 ふと 「非暴力防衛」をキーワードに検索してみますと このサイトに出会えたのです。
感激しました。どんな方なのでしょう!
http://ameblo.jp/nvd/entry-10009479100.html 一輪庵
一部 紹介させていただきます。
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July 10, 2004
非暴力で安全保障!その1
成り行きで非暴力強化月間みたいになってますが、非暴力情報を発信してる日本語サイトは少ないみたいなんで、もうちょっとがんばってみます。
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国民規模での非暴力防衛を安全保障の主軸に据えるという議論を、寡聞にして護憲派から聞いたことがないんだけど、世論がここまで来る前に、声のデカイ議員さんたちの口から聞きたかったなぁ。
今すぐ脱武装→非暴力防衛のみ、なんてことではなく、市民はあくまでも積極的な非暴力抵抗で戦い、既存の軍事力は領土防衛に限定、その上で、非軍事的防衛に比重を移していく努力をする、くらいだったら、これまでの日本の政策と、ほとんど摩擦がないと思う。このまま徴兵制まで行き着くくらいなら、国民全員に非暴力トレーニング義務化の方がいいと思うなぁ。
非暴力防衛を高らかに宣言しちゃえば、逆説的に、抑止力となることも考えられます。永世中立国に侵略するのが憚られるように、非暴力防衛国に侵略するのは、もっと憚られるでしょ?
で、私としては、自衛隊にも非暴力トレーニングをしてもらって、世界最強の非暴力平和部隊になって、人道支援のプロとして世界で活躍してもらうのがイイかもと思います。
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【書籍紹介】白夜の国々 武田龍夫
白夜の国々 武田龍夫 中公新書 1985年
著者の武田さんは 北欧に勤務したことのある外交官で、「私的見解」として わが国の「非武装中立」は「実現性はほとんど非現実的」で、「日米安全保障体制」は「望み得る最善の政策」と考えている方です。
それだけに この本の 「4 NATOの槍 ノールウエー」のなかの「果敢な対独レジスタンス」「クイスリング傀儡政権」「レジスタンスの悲惨と栄光」「恵まれた抵抗運動」の節の記事は 今後の具体的論議の足がかりとして 参考になると思います。
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史実としては
軍事抵抗:「他のどの大陸諸国よりも長期間ドイツ軍の電撃占領に抵抗」「63日間」「フランスは39日」
レジスタンス:「全国的な強力なレジスタンス」「ロンドン亡命政権と『国内戦線』との協力」「国内の地下軍隊は1万3千人に上り」「武装抵抗組織は4万人」
非暴力抵抗:「最高裁判事全員の辞職」「699人の牧師中645人が辞職」「オスロ大学セイプ学長初め多数の教授が逮捕され、収容所に」「1万数千人の公立学校教員中1万2千人がナチス教育への非協力を表明して、千三百人の指導者が逮捕」
その他が 紹介されています。
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私は 凶暴なナチスの暴力支配に対しノルウエーの人たちが非暴力抵抗を繰り広げたことを
「非暴力」阿木幸男 現代書館 83ページ
「平和を造り出す力」L・S・アプシー 新教出版社 78ページ
で知り、本当に驚きました。
この武田さんの本は
「この2冊の本の記事を 違う立場の人が裏付けているということが出来る」
とともに
「日本では 軍事的抵抗・武装レジスタンスなどと【非武装抵抗】との関係を どう考えるべきか」
ということを考える上で 参考になる点があると思います。
【文章紹介】「第三の道・非暴力抵抗」 古沢宣慶
「非暴力防衛」「非武装防衛」をキーワードにインターネットを漁っていましたが 「紹介」はあっても「具体的な方法論」はおろか「主張」さえ見当たらず 「どうゆうことなのだろうか?」と思っていたとき この文章に出会いました。
干天の慈雨 という思いでした。
書かれた古沢さんに連絡を取りたかったのですが 果たせず よって お許しを得ないまま 掲載させていただきます。
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第三の道・非暴力抵抗――海老坂武「反軍備派宣言」批判………古沢宣慶
いつになったら、「暴力抵抗」に「無抵抗」を対持させるという、単純な発想から抜け出すことができるのだろう?
海老坂武の、侵略に対して「無抵抗に降伏すること」は、武力防衛や武力抵抗の単なる裏返しにすぎない。戦争体験者たちの「戦争はイヤだ」に始まり、ロンドン在住の森嶋通夫によって運動とは全く無縁のところで主張され、自衛隊への対抗論理としては全く役に立たなかったものである。
同じころ、憲法学者の小林直樹が、憲法九条にかなった対抗論理として、「非武装抵抗」を提示したが、「護憲」絶叫者たちには採用されなかった。
私たちは、森嶋みたいなことを言っているよりも、「防災」を口実に総力戦体制をすすめるという、自衛隊の具体的な動きと闘うべきだと主張していたが、これまた、「平和」運動の主力には相手にされなかった。私は『軍事民論』の一六号と一八号で、こちら側の「自主防災」を提言した。怠慢のツケは、阪神大震災で明らかになった。
世は「反核」ブームとなり、「非暴力」というタームが流行した。しかし、非暴力抵抗と憲法九条とを結びつけよう、などと考えた者はいなかった。ブームが過ぎるとすべでが忘れ去られ、侵略への「無抵抗」が復活した。「茶番」にはついて行けない。
『思想の冬の時代に』しか私は読んでいないが、そこで海老坂は、「私はむしろ、フランツ・ファノンにならって暴力はわれわれの存在そのものを構成しているとさえ考えている」と言っている。それがなぜ、侵略に対しては「無抵抗」となるのか?
大学闘争世代の私には、知識人なんてみんなそんなものさ、ですましてしまうこともできる。非暴力主義者としては、しよせん「暴力」なんて言うやつは、こと実践になるといくじのないものだ、と笑うこともできる。
一国の防衛と、存在次元での個人の暴力はちがうという論理は成り立つ。しかし、海老原の「母国」フランスでは、そういった個人のレベルから、対独レジスタンスがなされたのではなかったのか? 「自衛隊違憲」をうたった長沼一審判決が、「群民蜂起」を例示したのも、対独レジスタンスが何ほどか念頭にあったろう。
それが現実的でないとしても、短絡的に「無抵抗」を言ってしまわないで、できうる限りの方法を考えれば良いではないか。ガンジーやM・L・キングの事例があり、一九六八年のチェコスロバキアがある。
海老坂の「無抵抗」の主張は、ガンジーやキング、ジーン・シャープ、宮田光雄、小林直樹らの書を読んでの上のことなのか?
説教「強い意志とやさしい心」で、キングは次のように言う。
「あるフランスの哲学者は『自分の性格の中に、はっきり目立ったアンティテーゼを持たない人間は強くない』といっている。強い人間とは、はっきり目立った対立物をそのまま混合して持っているものである。」
暴力抵抗か無抵抗という分け方はまちがっている、とキングは言うのだ。両者は、プラスの方向に統合されなければならない。
「われわれが自由を追求する場合、残されている第三の道がある。すなわち、非暴力的な抵抗の道で、これは意志の強さと心のやさしさを結び合わせたものであり、しかも、意志の弱さから発する自己満足や怠惰、心の無情さから来る暴力や激しさを避けたものである。」
ガンジーは『わたしの非暴力』で、無抵抗よりは暴力抵抗を選ぶとした上で、次のように言う。
「けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。」
ガンジーを「無抵抗主義者」だなどと誤解ないし曲解してはならない。
侵略に対しては、「持ち物はくれてやるが、侵略者には協力しない」のと、「侵略者の意志に服従するよりはいさぎよく死んでゆく」という、二つの道がある。後者は極端だが、暴力によらない抵抗にはこういったものがあるのだ、ということは知っておいてもらいたい。
シャープの『武器なき民衆の抵抗』は、このような非暴力抵抗の実践の現実化をはかるため、過去の事例を集積・整理し、今後の闘いに有効な方法・技術を分析・研究したものである。方法・技術を学び、訓練を重ね、行動者の組織化につとめるならば、非暴力を基盤とした圧政・侵略への抵抗も可能となるだろう。
小林『憲法第九条』は、このシャープの研究に依拠しつつ、「非武装抵抗」の九条との適合性、現実に対する有効性を説いた。
小林は、「無抵抗降伏」を「白旗論」と呼び、「国民の生命を軽視した国防論よりは、はるかに賢明で現実的な選択だ」とした上で、次のように言う。
「しかし、白旗論は一歩誤ると、無法・非道な侵略者に対し、何の抵抗もなく〝降参〝し服従するという、無気力な敗北主義になるおそれがある。それでは、自由や正義を求める民主主義の精神に反し、また民族としての自立と自尊心も失うことになろう。さらに自主的精神のバックボーンのない無抵抗主義は、諸外国の軽蔑を受け、国際的支持を失い、その結果として侵略の誘惑を高めることにもなりかねない。非武装平和主義は、無法な力を用いる外国のいいなりになるような屈従を意味するものであってはならないであろう。」
宮田『非武装国民抵抗の思想』は言う。
「非暴力抵抗の精神は、仮想敵にたいする官庁的に組織化された《調練》によって形成されるのではなく、むしろデモクラシーの社全体制を脅かす現実の危険にたいする自発的な市民の反対行動からのみ生み出されるであろう。デモクラシーを守り、さらにそれをいっそう実質的に民主化するための日常闘争にまさる国民抵抗の修練はありえない。……そうした日常行動を通して、政治的に目覚めた市民や集団の間に、万一、生ずる不法な侵略や権力奪取にたいして、抵抗運動の組織核が形成されていくのである。
「現実の」聞いを行う者は、侵略に「無抵抗」ではありえない。
(ふるさわ のぶよし・日蓮宗僧侶・自衛官と連帯し習志野基地を解体する会)
【書籍紹介】「きみたちと現代 生きる意味をもとめて」宮田光雄
「きみたちと現代 生きる意味をもとめて」宮田光雄 岩波ジュニア新書
1980年発行 1996年第32刷
「非武装国民抵抗の思想」に感激していたところ、会員のK子さん(元教員)に「宮田さんの若い人向けの本を読んだが良かった」と教えられましたので、図書館で検索し、この本を借り出しました。
「ジュニア新書」など 中学生かせいぜい高校生が読むものだと思い込んでいましたが、今の私には とても有難い本でした。
内容は ( )内の講演に「手を加えて、まとめたもの」だそうです。
Ⅰ 生きるということ(仙台の高校での講演)
Ⅱ 現代社会に生きる(沖縄での岩波文化講演会)
Ⅲ みんなと生きる(学生聖書研究会修養会での講演)
Ⅳ 平和をつくりだすもの(恵泉女学院創立50周年祈念講演)
何れも 内容の濃い、宮田さんの熱い心が伝わってくる文章です。
とくに「Ⅳ 平和をつくりだすもの」は 「非武装国民抵抗の思想」を要約して述べて居られると言って良いのでしょう。
以下の4節からなっています。
1 剣をとるものは剣で滅びる
再軍備が進みつつある中で、戦争経験を受け止めて「平和憲法」を採択した経緯と意義が 語られています。
見出しは「軍国主義教育の中で」「敗戦と平和への決意」「戦争をしたくなければ平和の備えをせよ」「戦争体験の風化」
2 武器をとらない若もの
ドイツの良心的兵役拒否を紹介し、すすんで 日本国憲法は「日本国民一人びとりが非武装を、良心的兵役拒否を誓った」ものであり 「日本国民一人びとりがするどい良心による自覚を持つことなしには、この憲法の平和主義は、そもそもなりたたない」のだと 熱く説いておられます。
見出しは「徴兵制とウオークマン」「良心による兵役拒否」「国民的兵役拒否」
3 非暴力のたたかい
次のような見出しのもとに 具体的な例を引いて「非暴力行動・抵抗」について 述べておられます。
「非武装平和は降参ではない」
「伊江島のたたかい」
「『非理法権天』の思想」
4 平和をつくりだすもの
見出しは
「消極的平和と積極的平和」
「平和憲法を読みなおす」
「みんなと平和に生きる」
です。
この見出しで分かるように、先ず 「どの国家も国民も、いわば自分たちにとっての平和を望んでいる」こと、「生きる上での平等なチャンスを奪われ、社会的な差別や不正が支配して」状態を平和と呼ぶことが厳しく批判されています。
そして「積極的平和」を「造りだす」ことへの参加が 呼びかけられています。
多くの若い方々に、そして 所謂「平和運動」「護憲運動」の何所かに 何か 飽き足りないものをお感じの方々に お勧めしたいと思いました。
アンナ・ポリトコフスカヤ女史の暗殺を悼んで
あるメーリングリストに このような記事がありました。
かって この方の著書を読み 感動したことを思い出しました。
ひとつの すばらしい・・・残念な結果となった・・・「非暴力行動」のケースとして 記録に残しておきたいと思います。
「2006年10月7日、チェチェン戦争を追っていたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ女史が、モスクワで何者かに暗殺されました。彼女は99年以来、毎月のようにチェチェンに通い、軍事侵攻によって虐げられた人々についての地道な報道をかさねており、その報道は、プーチン政権への厳しい批判となっていました。日本でも「チェチェン やめられない戦争」などの訳書によって知られている彼女を悼む声は、強くなるばかりです。
ジャーナリズムや平和、人権の運動でチェチェンに関わってきた私たちは、彼女の突然の死を悼み、この暗殺に抗議するための緊急追悼集会を企画しました。(以下略)」
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【著書紹介】
プーチニズム 報道されないロシアの現実 アンナ・ポリトコフスカヤ 鍛原多恵子訳 日本放送出版協会 2005,6,25 2,100円 1980年
(著者略歴)モスクワ大ジャーナリズム学科卆 モスクワの新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙評論員、1999年夏以来チェチェンに通う
(私の読後感)
多くの人に読んで欲しいと思いました!
チェチェンで伝えられるような行動をしているロシア、この本に書かれているようなロシアに 「何者かに毒を盛られ意識不明の重態陥」りながら このような報道を続けている方がいてくださることは 私共の救いだと思いました。
しかも 矛先が プーチンとその仲間だけではなく 「黄色い星を縫い付け」ることをせず 苦しんでいる人たちをはじき出そうとしているロシアの一般市民に向けられていることに 感銘がありました。
内容も 多くのテーマについて 詳細に取材してあり 記者というお仕事に渾身の努力を注いでいることが良く分かります。
(テーマ)ロシア軍兵士とその母たち わが友の行方 公金横領を政府に黙認させる法 地方で起こっていること ロシアの戦争犯罪者たち 「ノルド・オスト」-絶滅作戦現代史 プーチン再選
「平良牧師の非暴力抵抗」に思う
「平良牧師の非暴力抵抗」に思う
出来事は 「沖縄タイムス」の記事(抜粋)によると 以下のようです。
2006年9月25日(月)米軍普天間飛行場代替施設建設に伴う名護市キャンプ・シュワブ内の兵舎移転に伴い、名護市教育委員会は二十五日午前、移転候補地の埋蔵文化財の分布状況などを確認する現地踏査に着手した。
名護署は同日午前、基地内に入ろうとした市教委の車両を実力で阻止したとして、移設反対派の一人を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。
市教委の職員九人は同日午前十時ごろ、同基地のメーンゲートに到着。移設反対派約二十人が話し合おうと、市教委の車両を止め話し合いを求めた後、名護署員が反対派ともみ合いになった。
施設局職員も早朝、同基地内に入り調査に立ち会っている。
「頼む。この現状をみんなに知らせて!」。
米軍普天間飛行場移設問題で初の逮捕者が出た。
二十五日午前、警察車両で連行される平和市民連絡会の平良夏芽牧師(44)は、顔や手から血を流しながら叫んだ。
名護市キャンプ・シュワブ内の文化財調査で、同市教育委員会調査団の車両を止めようとした牧師は公務執行妨害で逮捕された。
この日集まった反対派メンバー約二十人のうち数人が調査団の車の前に身を投げ出すなど必死に止めようとしたが、倍近い人数がいる警察に次々と排除された。
現場は怒号と悲鳴が入り交じり、騒然となった。
午前十時、名護市教育委員会文化課のワゴン車がキャンプ・シュワブ第一ゲートに到着すると、反対派市民らが話し合いを持つため、車を止めようとした。
だが、これまでとは違い、職員が乗った車の窓は閉じられたまま。
警察が反対派を制する中、職員らは緊張した面持ちで基地内に入ろうとした。
反対派住民らは車の前に身を投げ出したり、ゲート入り口の路上に座り込んだりして抵抗。警察官らが住民らの手足を抱え、力ずくで排除すると、「痛い」「止めて」などの怒声や悲鳴が響いた。
車の下にもぐりこんだ平良牧師は顔などを負傷。公務執行妨害の現行犯で警察に連行された。
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私は この出来事を 幾つかのメーリングリストで知りましたが、新聞・テレビ(福島県在住)では 全く報じられなかったと思います。
このブログで この出来事に触れるのは この頃「非武装自衛」を現実的なものとするためには 「非暴力抵抗」の積み重ねがひつようなのではないだろうか と思うようになっているからです。
この国では 「自衛」というと、一方は「自衛隊強化(~自衛軍昇格!)」~「日米同盟堅持~強化」へとショートしてしまい、他方は「自衛の必要の生じない外交」と論点を外すことがパターンになっているようです。
この双方に欠けて」いるのは 「誰か」・・・米軍か 自衛隊か 政府か・・・に依存することしか考えず、自分で自分たちの生活なり 権利なりを守ろうという姿勢だと思います。
1970年代から 宮田光雄・小林直樹などの方々によって「非武装防衛」という方向が提議されているのに これが 具体かして来ないのは、この「お上依存の姿勢」「自己責任感覚の欠如」という 日本の 或る時代から現在まで続いている奴隷的根性とでも云いたくなる精神的風土によるものではないかと思うようになりました。
(悲しいことに これが こう言っている私にもある!)
「非暴力防衛」は 「自分は 非暴力で 抵抗しよう」という気持ちを ほとんどの人が持つようにならなければ 有効になりません。
そのためには この日本の精神的風土を変えて行かなければなりますまい。
とても困難に思える課題ですが これを可能に変えてゆくためには 「非暴力防衛」に直接関係がないような問題についてでも 少数~一人ででも メディアに報じられなくても 非暴力で行動しておられる方が居られることを知り 知らせ これに学び 勇気を戴くことが ぜひ必要でなのはないでしょうか。
これからも このような出来事については 精一杯学び このブログに記録として残して行きたいと思います。 合掌 くらた
「平和憲法と共棲六十年 憲法第九条の総合的研究に向けて」(小林 直樹)を読む
平和憲法と共棲六十年 憲法第九条の総合的研究に向けて 小林 直樹
慈学社出版 2006年3月
全710ページの大冊で 定価も1万円 いわき市の図書館にリクエストして購入していただきました。
憲法9条についての論文集で、テーマ別に 3部にわけてあります
第一部 総論ー平和憲法の理念と現実
第二部 平和憲法の変動過程
第三部 憲法九条の政策論
私は 第三部だけを読ませていただきましたが、次のような四つの論文からなっています。
第一章 平和憲法下の安全と防衛(1975年)
第二章 冷戦下の平和安全保障政策(1987年)
第三章 平和憲法に基づく積極的平和政策の構想
ー「国際貢献」論の考察を中心に(1993年)
第四章 東アジア共同体の構想と問題(2005年)
『第一章 平和憲法下の安全と防衛(1975年)』は 他の方の論文に引用されており 読みたかったものです。
その『第3節 平和憲法下の防衛構想』には
1 憲法の予定する安全保障方式 「f 万一の際の非武装抵抗の準備」
3 非武装による防衛
(イ)非暴力防衛の諸形 態とその有効性
(ロ)市民的・非暴力防衛の難点と問題
について問題提起がされています。
また『第2章 冷戦下の平和安全保障政策(1987年)』には
『第3節 日本の平和=安全保障策
一 平和的安全保障策
5 平和教育と平和研究「自由や正義に反する侵略があった場合、毅然として非暴力の抵
抗を続ける国民がいるところに、侵略軍が武力だけで長期の支配を続けることは不可能
である。」
二 非武装の対侵略方策
2 非暴力抵抗の多面的な展開
などと論じられています。
引用文献には 宮田光雄「非武装国民抵抗の構想」も挙げてあります。
私自身の無関心・不勉強を棚に上げてのことですが 『平和憲法下の安全と防衛』が発表された1975年から既に30年以上、その間に この問題提起が深められず 実践的な課題として認識されず 具体的に取り組まれて来なかったのは 何故だったのでしょうか?
おれからのためには この理由についても考える必要がありそうです。 くらた
「非」暴力を「無」抵抗と思い込んでいる方のために 「ガンディー聖書 エルベール編 岩波文庫」より
「非」暴力を「無」抵抗と思い込んでいる方のために
「ガンディー聖書 エルベール編 岩波文庫」 より
「完全な暴力否定は生命あるすべてのものに対し、全然悪意を持たないことである。
積極的にいえばすべての物に対する善意であり、完全愛である。」(p、76)
「暴力否定は悪に対するあらゆる現実の闘争を止めるだけでは成立しない。
予の考えでは、悪に対抗して結局これを拡大させるような復讐よりも、一層積極且つ現実なる闘争が必要である。不道徳と闘うため、精神的即ち道徳的抵抗を考える。
先鋭なる刀剣で暴者と衝突するのではなく、相手が物理的抵抗を見るだろうとの期待を裏切らせて、暴者の剣を完全に鈍らせるのである。」(p、77)
(コメント:「闘争が必要」「抵抗を考える」)
「暴力否定の心境に到達するには、困難な鍛錬が必要である。日常の生活で、好まなくともどれほどか軍人のように、規律に服従せねばならない。
精神の伴わざる暴力否定は仮想に過ぎないから、本人にも亦他人にも不幸を持ち来すであろう。精神、肉体、言葉が程よく調和したとき、初めて暴力否定の完全状態に到達したのである。それまではいつも煩悩が伴うのである。」(p、79)
(コメント:『精神の伴わざる暴力否定』、言葉は 厳しいが「これが ある時期 ある範囲で 実際に行われたこと」には 勇気が与えられる)
「事故の財産、名誉及び宗教を刀剣で保護するのは気高いことである。悪人に害を加えずして、これらを保護するのは一層高尚である。
悪人の意のままに、自己の地位を放棄し、身を惜しんで財産、名誉及び宗教を放置することは無価値で、不自然で且つ不名誉である。」(p、80)
(コメント:先ず 悪への毅然とした姿勢が)
「暴は常に暴であるり、又罪悪である。但し避くべからざる暴は罪悪とは見做されない。」(p、81)
(コメント:このように考えざるを得ない情況を踏まえての非暴力!)
「怯と暴とのいずれかを選ぶべき場合には、予は暴を勧めるであろう。
暴力否定は暴よりも非常に優良であり、寛恕は懲戒よりも一層気高いのである。」(p、81)
(コメント:「怯と暴とのいずれかを選ぶべき場合には」、そのうえでの「暴力否定は暴よりも」)