フエからハノイまでの夜行列車をあまり楽しめなかったのは、そんな出来事があったから。
そんな出来事ってのは、ようするに左手の小指をしこたま車両に打ち付けて、なにやら正常じゃない状態になっちゃったってことね。 ●ここ
子供が泣き疲れて寝入っちゃうように、いや、大人が気分を害してふて寝をするように、ハノイまで心配して過ごすよりも寝てた方が得だって(無意識的にも)そう考えたんだと思う。
車内ではとにかく眠ってた。
ハノイ駅に着くとすぐにタクシーを捕まえて、前日に目を付けてあったホテルまで行った。
ホテルのエントランス扉は閉まっていたけれど、呼び鈴を何度か押すと眠たそうな表情の青年が出て来た。朝早いけど部屋を用意してよ。そう言いながらフロントに向かうと、ロビーに敷いたマットレスの上で別のボーイがまだ眠っていた。
部屋は空いていますが早朝チェックインなので半日分をチャージしますよ。オッケー、オッケー、とにかく部屋に入れてくれればいいよ。部屋には電話があるんでしょ。そりゃありますよ。ってな会話をして部屋に入った。
さてまずは電話だな。
こんな時のためにいつも旅行保険に入っているんだ。でも今まで、一度も使った事がない。
どこか適切な病院を紹介してもらわなくちゃ。
保険契約書に書いてある番号に電話をした。
事情を説明してどこの病院に行くのが一番いいのか尋ねると、お客様の方に特に希望が無い場合当社の提携病院をご紹介します。提携先なのでキャッシュレスで診察を受けることが可能です。と言う。
おぉ、それはいいじゃないか。
いったい治療にいくらかかるんだろうって心配していたけれど、そんな心配しなくていいんだ。
その上予約も取ってくれるらしい。ボクは予約時間の30分前に保険証書とパスポートを持って受付に行けばいいらしい。
至れり尽くせりだな。
最後に、「受付カウンターで、日本語通訳を呼んでもらって下さい」って言われた。
日本語通訳まで付くのか。
「脱臼」とか「突き指」とか英語でなんて言うんだったけ。そのくらいは調べて行ったほうがいいな。なんて考えていたんだけど、なぁーんだ日本語通訳まで付くんだ。
ほんと、至れり尽くせりだよ。
*****
こうしてボクは、ハノイ到着の日に医者に診察してもらえることになったのね。
病院の名前は L’Hôpital Français de Hanoï ハノイ・フレンチ・ホスピタル。おフランスの病院ざますな。
受付をしてしばらく待っていると日本人女性に名前を呼ばれた。
医学の知識があってベトナム語が操れるスタッフが居るんだ。頼もしいぞ!
彼女が付いていてくれれば大丈夫。こんなに曲がった指だって病院を出ることにはもうまっすぐピンピンだ。そんな気分になった。
整形外科の診察室に入ると「ボンジュー」って挨拶された。医師はフランス人だった。
ボクの指を見て、うなだれた小指の先を伸ばしたり曲げたりしながら、何時怪我をしたのか、痛みはあるのかなど英語で尋ねてきた。
見立ては早くてね。すぐに診断が下されたんだけど、これが何を言ってるのか分からない。
通訳の女性がベトナム語で聞いてみたけど、彼はどうもベトナム語があまり得意じゃないらしく、やっぱりよくわからない。そこで彼女はフランス語の通訳を連れてきた。
こうして医者とボクとは通訳2人を介して話をすることになったんだ。これが何とも不思議な気分だったんだな。
まずは先生が、フランス語で話す。
診断名はマレット・フィンガー。
小指を伸ばすための腱が、突き指時の衝撃で切れてしまって自力では指を伸ばす事ができない。
放っておけば治らず、ずっと曲がったままで固定されてしまう。
手術をすれば治る。この患者の場合は昨夜怪我したばかりだから、すぐに手術をすればほぼ元通りになるはずだ。
まぁこういうことなんだけど、おそらくそんなことなんだろうなってことは、ボクの知っているフランス語の単語と、医師のジェスチャーと、緊急時に発動するボクの特殊能力でなんとなく分かった。
でも先生は、ホントはもっとたくさんのことを話していたんだと思う。おそらく、術式なんかも説明してたんだと思うな。
先生は、フランス語通訳のベトナム女性の小指を使って、あれやこれや説明している。
つまりここが、この筋が、ブチンって切れちゃってるわけだな。
だからここをこう切開をして、ペンチで切れて縮こまってる腱を引っ張りだして、
ここんとこに縫い付けるわけだよ。
なんて感じでね。きっとね。
ベトナム人通訳の女性は、顔を歪めながらその説明を聞いている。うわっ!先生、そんなことするんですか?良かったわぁ、私じゃなくて、みたいな。
おい、おい。そんなスゴイ手術をするのか?
その後、ベトナム人通訳は日本人通訳にベトナム語で伝える。
なんか腱が切れてるから縫い付けるらしいわ。あんな細かいところ作業できるのかしら。痛そうでやあね。
この患者ニコニコしてるけど、怖くないのかしら。鈍感なのかしらね。
なんて感じでね。まぁ、たぶん。
日本人通訳がボクに伝えてくれる。
手術をした方がいいらしいです。しますか?
だんだんと短くなってる。情報量がどんどん減って来てる。どうもそんな気がしてしかたがない。
もっとたくさん話していただろ!おい!って気持ちがちょっとあったのは確かなんだけどさ。ボクは彼女にすっかり頼る気分になっちゃってるから「手術します!」って即答しちゃったよ。
手術をするに当たっては、契約書を結んでいただきます。
3000万ドン強の契約書にサインをした。
レントゲンを撮ります。
撮った。
全身麻酔になりますから、麻酔医の診察を受けてもらいます。
身長体重を申告したら、少しやせなさいとベトナム人女医に注意され、ビールを飲む量を伝えたら、オヤオヤという顔をされた。
手術ですから、HIVの検査も含めて血液検査をしていただきます。
赤いのを見るのが大嫌いなんだけど、何サンプルか血を採られた。血を抜かれるところを見るのがイヤで、窓の外の景色を眺めていたからナースの顔を覚えてない。
これで終わりです。630万ドンです。これが予約票です。
現金を払う代わりに、サインをした。
3000万ドンだろうが、3億ドンだろうが、どんと来い! この時のために保険に入っていたんだ。
ベトナムとフランスの最新の技術で指を治してくれ。
そんな気分だった。
凹んでいるんだか、ハイになっているんだか、わからん気分だった。
こうしてほぼ半日を病院で過ごし、ホテルに戻るタクシーに乗り込んだ頃にはもう辺りが暗くなり始めていた。
統一鉄道が到着したハノイ駅から旧市街のホテルに向かうタクシーの中から見た風景は、凛とした早朝の空気の公園で太極拳をする人たちだった。今見る風景は、街に灯りが灯り始め、行き交う自動車とバイクのクラクションで満ちていて、ザワザワとしたアジアの都市だった。
本当だったら、ハノイで流行っていると言う回転一人鍋屋さんに行こうと思っていたんだ。そこが満員だったら、地元客ばかりのステーキ屋に行ってみようかと思っていた。そして腹ごしらえの後は、仕事帰りの男達で賑わうベトナム風のビアホール「ビアホイ」に行こうかと思っていた。
でも、全部やめちゃったよ。
ハイな気分が徐々におさまって来ると、まがった指に凹んだ気持ちの方が勝って来て、どこでもいいや、なんかおとなしく食べられるところで軽く食べて、ビールでも飲んで早くホテルで寝ちゃおう。
そんな気分になって来た。
宿の近くのレストランでバゲットサンドを食べて、近くのカフェドパリでビールを飲んだ。
カフェドパリの内装はフランス風だった。ウエイトレスはボクに背を向けてカウンターに肘をついたままで、1本目のビールが空になってもまったく気がつかなかった。
今日はもうおしまいさ。ボクはビール1本分の代金をテーブルにおいて、そのままホテルに戻る事にした。
フランスの病院にパリのカフェ…… ちょっとだけ、旅が進んだってことかな。
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