前日の夜ブダペストで夜行列車に乗り込む前、ネットのつながるカフェで、ブカレストの情勢やら、駅からアパートまでの行き方やら、骨董店や古本屋の場所やらを調べている内に、興味深いブログ記事を1つ見つけたんだ。
それは世界一周旅行中の青年のブログで、06月28日(つまりボクが記事を見つける前の日)の記事には、ブカレスト・ノルド駅(北駅)近くの路地のATMで現金を引き出したとたんに、ナイフを付きつけられて奪われてしまったと、恐怖の体験が記されていた。
さらには「ブカレストは今、ヨーロッパで一番治安の悪い町」で「何週間か前にも、どこかの国の東洋人が駅で拉致されて殺された」とかもね。 ○ここ
わぉ! 驚いたよ。
ルーマニアに関してはガイドブックにも、にせ警官による金品詐取事件が多いだとか、正しいチケットを持っていても本物の乗務員から素性のわからない料金を請求されることがあるだとか、タクシーもバーもぼったくりに気をつけなくちゃならないだとか、そんなことは書いてあったけど、街中で強盗に会うとか、拉致されて殺されちゃうとか、そこまでは考えてなかった。
でも実際には、ボクはそんな怖い思いをすることはなかった。
ノルド駅に着いたのは昼ころだったし、駅のATMでごく当たり前に現金を引き出す事ができた。もちろんいつもより背後に気をつけていたんだけどね。問題なのは出発の時だよ。ブカレストを発ってソフィアに向かう夜行が、夜の23時22分発だってことだ。
この駅で夜中まで列車を待つのはちょっとイヤだな。そう思った。
そしてすこし憂鬱になる。
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ソフィアに向けて発つ晩、落ち着かない気持ちで夜行列車を待つ間に、一人のルーマニア青年と出会った。
列車の発着状況を示す掲示板の前の柱にボクはよりかかっていたのだけれど、彼も大きな荷物と一緒にそこに居た。ある時ボクに声をかけてきて、そこのキオスクでコーヒーを買って来る間だけ、自分の荷物を見ていてくれないだろうかって。思い出してみると、ノルド駅で声をかけて来た人間に返事をすることはそれまで全く無かったっけ。でも彼は自分の荷物をボクに託そうとしたんだから、返事をしてもかまわないだろうね、きっと。
そんなことがきっかけでお互いの列車を待つ間、ボクらは話をすることになった。彼はルーマニアの黒海沿岸の街トゥルチャ出身で、デンマークで働いていたらしい。
----- 休暇なの?
----- 不景気なんだ。ボスに呼ばれてもうお前の仕事は無いって言われたよ。だからルーマニアに帰って来たんだ。15歳からいろんな国で働いてもう31歳になっちゃったからね。故郷のトゥルチャの造船所で働くことに決めたんだ。
彼はそう言うとタバコを勧めて来た。ごめんボクはタバコ吸わないんだよと断ると、それはいいことだねと言いながら、ゆっくりと吸い、煙をゆっくりと吐き出していた。ため息をつくように。
----- ルーマニアはどう?
----- 興味深かったよ。たった5日間いただけだけどさ。そうそう、スープは美味しかった。ほら牛の胃の酸っぱいスープ。チョルバ・デ・ブルタって言ったっけ? あれはすごく美味しい。食事の度にたのんだ。
----- そうね。あれはルーマニアのオリジナルだもの。他の国から来た料理じゃないんだよ。それよりサルマーレは食べたかい? ほんと美味いんだ。なんて説明したらいいんだろ。特にね…… 母さんが作ってくれるサルマーレが、すっごく美味くって。
サルマーレは酢漬けのキャベツで作ったロールキャベツって言ったらいいのかな。ルーマニアのおふくろの味って位置づけの料理らしい。母の料理をほめるくったくない彼の言葉を聞いて、はたしてボクには母の料理が世界一だって自慢することができるんだろうかって考えていた。
----- ルーマニアはブカレストだけ? それは残念だよ。すごく美しい風景の場所がたくさんあるんだ。ボクはやっぱりルーマニアの風景が一番すきだ。日本はどんな風景なの?
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ポツリポツリと彼と話をしながら過ごしているある時、目つきの悪い男と腕を三角巾で吊った男の二人組が彼に近づいて来た。
彼はしばらくの間その目つきの悪い男と話しをすると、財布を取り出して1レウ札(30円弱)を男に渡した。その1レウ札を三角巾の男が受け取り、自動販売機に行ってコーヒーを一杯買った。
二人組が遠ざかると彼はボクに向かって小さな声で言った。
「Welcome to Romania」って。そして「この国に、ボクは時々うんざりするよ」って。
----- どうして、彼に1レウ渡したのさ。
----- それは…… 働いてなくて、お金がないからだよ。
----- ちがうよ。ボクが聞きたいのは、そういう人間になんでお金を渡したのかってことだよ。
彼ははっきりとは答えなかった。
そしてボクの質問に答える代わりに「この国には泥棒やら嘘つきやらがたくさん居るよ。いやになっちゃうよ」って。
----- ボクの列車まではあと2時間くらいだよ。いったいキミは何時の列車に乗るんだい?
----- 明け方の5時半の列車。さっきお母さんが電話でね、ブカレストの駅で一夜を明かすなんて注意しなさいよ。そう言っていたよ。
自分の国でありながら、この駅で一晩を過ごすのはストレスがたまることなんだろうな。そう思った。
その後も気の優しそうな彼には、一癖も二癖もありそうな男達がときどき話しかけてきた。彼は迷惑そうにしながらも、すこしだけ彼らの相手をしていたっけ。目つきの悪い男達を上手くあしらっていた。
そしてそういう時はボクのそばからすーっと離れていた。
きっとボクに迷惑がかからないようにしているんだろう。
ソフィア行きの列車がホームに入って来た時、ボクは彼におわかれの挨拶をした。
彼はボクに、デンマークで買ったものだからルーマニアのよりは甘くないんだけどって言いながら、2つの小さな桃を手渡してくれた。
その時、たまたま近くで彼に話しかけていた狡猾そうな表情の男が、ボクのことを値踏みするように眺めると「あぁ? お前らは知り合いなのか?」と言った感じで話しかけて来た。
ボクは男を無視し、彼はボクの良い旅を、ボクは彼の一晩の無事を願って、ボクと彼は握手をした。
*****
それからしばらくの間、ソフィアに向かう夜行列車の中で、自分の国に対する愛情と、落胆と、そんなものを同時に感じなくてはならないことの辛さについてボクは考えていた。
ちょっと憂鬱な街、ブカレストでの思い出の話。

そうしてボクは翌日ソフィアに無事着いたんだけど、彼はちゃんと朝の列車に乗れたのだろうか。
そして、お母さんの作ってくれたサルマーレをたくさん食べることができたんだろうかな。