ずっと憧れていたハバナに来て音楽を聴いている内に、ふと寂しい気持ちの自分を見つけたりした。
今、自分は楽しんでいる。とっても楽しんでいる筈なのに、ふと寂しい。
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10年くらい前のことだったかな。
以前勤めていた会社の先輩に誘われて花見に行ったことがある。
ボクは桜の花は大好きで、その上酒も人一倍好きだけど、桜の花の下で宴会をするのはどうも性に合わない。だから最初はその花見の誘いを断ったんだけどね。
「なつむぎ君さぁ。あと何回、桜の花を見ることが出来ると思う?ボクの場合は…… そうだな20回はムリだろうな。そう思えばさ、桜の花を眺めながらシミジミと酒を飲みたくもなるんだよ」
桜の下で大騒ぎするんじゃなくて、シミジミと飲むなら良いですよ。
でも、そんな風に桜の花を見るのは、すこし寂しくはないですか?
時間が一方向にしか進まないのは当然でしょ?だから、楽しみのために残されている時間が日に日に短くなるのは当たり前のことじゃないですか。
それを憂いていていたら何も楽しくなくなってしまいますよ。
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今なら、彼の気持ちが少しは分かる。
今のこの喜びはこれからどれだけ続くのだろう。今後、何回味合うことができるのだろう。
そう考えた時の寂しさだな。若いころは思い付きもしなかったな。
シミジミするというのは、そういうことさ。
楽しいのに、その楽しさ故にふと寂しい。
ボクはチャチャチャを聴きながら、グアラーチャを聴きながら、サルサを聴きながら、
ハバナの街をもうあと少しで去るという夜、シミジミしたんだ。
楽しさには必ず寂しさが付いてくる。きっとこれは、出来事の自然の姿なのかもしれない。
もちろん、寂しさの中に楽しさを見つける事だってあるだろうけど。
ちょうど、ニュートラルな白色の透明な光が、赤からの紫までのたくさんの色が重なってできているように、何気なく過ごしている日常には、喜びから悲しみまでが等しく含まれているってことだよ。
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ボクがまだ、シミジミが似合わないくらい若くハツラツとしていた頃、
ある展示のある作品のために虹をテーマにした文章を書いたことがあった。
当時は若かったな。同じ事に感づいていながら、それをポジティブに捉えていたんだもの。
無色だった日常が、ふとしたきっかけで虹を生成することがあるのだ。
それはあたかも無数の豊饒が、重なり合って存在することで自らの豊饒を隠しているかのようだ。
ある日ある時、見なれた日常が虹に分解するのを知り、人は豊かな世界を垣間見る。
