一日の花を摘め(エピソード編) | /// H A I H A I S M ///

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あわてない、あわてない。赤ちゃんが「はいはい」するように、のんびりゆっくり進みましょう。

 ボクには好みのタイプの女ってのがあるんだな。

 そう思ったのはその女の容姿について今でも細かく覚えているからだ。好き嫌いがあるなんて当たり前のようにも感じるが、では好みについてはっきりと言葉にして説明したことがあるかと問われれば、なかったのかも知れない。


 ティルソ・デ・モリーナという名前の広場から、だらだらと長い坂道がラバピエスまで続いている。その坂の途中に、3週間のマドリッド滞在のために借りたアパートがあった。毎晩、広場からアパートまで坂を下っている内に、1軒の風変わりなバルがあるのに気が付いた。近所の他のバルが人であふれて陽気な笑い声に包まれる時分になっても、そこだけはひっそりとしている。中を覗きこんでみると壁の一面が本棚になっていて、まるでバルではなくどこかの邸宅の書斎かのようなたたずまいであった。

 そのバルに気付いた夜、バルの入り口の扉の外で一人の女が所在なげにタバコを吸っていた。今年に入ってからバルの中では禁煙になったというニュースをボクは思い出し、バルには黒タバコとオリーブ漬けの臭いが似合っていたのに、この国もずいぶんと変わったものだなと思った。マドリッド3日目の夜だったと思う。

 次の日もその次の日も、ボクがその坂を下りる頃、いつも彼女はそのバルの前でタバコをふかしていた。つまらなそうにただぼんやりと通りに目をやりながら、つま先で飛び出した舗石の角をつついていた。そしてその次の日も、おそらくその次の日も。

 ある夜、ボクが前を通り過ぎようとすると、彼女は声を掛けてきた。

「あんた、いつもビールを買って帰るのね」

 これがないと寂しいんですよ。シャワーを浴びて歯を磨いてから、一日を振り返りながらゆっくりと飲んで寝るんですよと答えると、「一日を振り返りながらねぇ」と不満げにつぶやいてからこう聞いてきた。

「歯磨きの後に飲んだら、味が変になるんじゃない」

 だからビールの味が変わらないように歯磨き粉を付けないで歯を磨くんですと説明すると、彼女は初めて笑顔を見せた。

 次の日もその次の日も、ボクは坂道を下りてアパートに帰り、彼女はいつもバルの前でタバコを吸っていた。静かな店からは外に灯りがもれてくるだけで、彼女の影があばれた舗石の坂道に浮かび上がっていた。


 帰国が数日後に迫ったある夜、坂道に彼女の姿はなかった。彼女が店の前でいつもの様にタバコをふかしているのを、ボクは期待してたのだろうか。その時初めてその店の前に長い間立ち止まり、その店の名前を読んだ。

「キミは今日のことを覚えているだろうか」

 とてもバルの名前とは思えない、そんな名前だった。変な名前のバルを見つけた日としてきっと思い出すだろうな、そう思って一度は店の前を通り過ぎ、ふと気が変わって扉を開けてバルの中に入った。

「いらっしゃい。ビールの日本人だね」

 店の主人はそう言うと目でカウンターの方を示し、ボクはその通りカウンターの端の椅子に腰掛け、生ビールを一杯注文した。彼は自分はホアキンであると名のり握手を求めて来た。ホアキンは、スペイン人には、ましてやバルの主人には珍しく、物静かで生活感を感じさせないタイプの男だった。

 2杯目のビールを注文するとき、ボクは聞いてみた。

「ねぇホアキンさん。この店の名前、随分と風変わりじゃないですか? 何か、謂われでもあるんですか」

「店の名前かい?」

「ほら。入り口の扉の上に『キミは今日のことを覚えているだろうか』って書いてあるでしょ」

「あぁ、あれは店の名前じゃないよ。店の名前は『Carpe diem』って言うのさ。ホラティウスの詩の中の言葉だよ。文字通りには『一日の花を摘め』という意味でね」

「一日の花を?」

「死はいつ訪れるか分からないからね。未来に何かを期待するのは得策じゃないってことだな。その日その日、一日一日をしっかりと楽しめということだ。日本じゃ学校でラテン語は習わないのかい?」

「ラテン語の授業はないですね。その代わり中国語の古典の授業はありますが……」

「そうか」

「じゃぁ『キミは今日のことを覚えているだろうか』って書いてあるのは、どうしてです?」

「簡単に言い換えてあるだけだ。キミ、名前は…… そう、なつむぎ君だよね。アクセントはどこにある?」

「発音しやすいように発音してくれればいいですよ」

「なつむぎ君ね。店の前でいつもタバコを吸いながらキミの事を眺めてた彼女、一度キミに話しかけただろ?」

「えぇ一度。歯磨きとビールについて、ちょっと話しました」

「それが、いつのことか何曜日のことか、覚えているかい?」

「えっと…… いつのことでしょう」

「やっぱり、覚えてないんだね。一日の花を摘んでないんだね」

「そうですか」

「そうさ。あの子は親戚の子でね。カセレスからマドリッドに遊びに来てたんだ。彼女は言ってたよ。『アタシには好みのタイプの男ってのがあるんだって、そう気付いた』ってね」


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