
先日の記事で、富士吉田から大月まで歩いたことを話しましたよね。 ●ここ
今日の記事は、その前日の出来事です。
ボクが泊まったのは山中湖畔の寂れた宿でね、
通りから奥まった位置にひっそりと建っている上に、小さな看板が出ているだけだから、
なかなか見つけられなかったくらい。
素泊まりしか受け付けてない宿だったのだけれど、
見ると30人くらい入れそうな食堂と、立派な厨房もあるんだよ。
宿の主人は、客が少ないから食事の提供をしないようになったって言うんだけど、
そうやってだんだんと寂れ、そして客も少なくなり...
そんな経過をたどって来たんだろうな、そんな風な宿だったのね。
*****
まぁ、行き詰まった中年男性が物思いにふける旅には、ちょうど良い宿だとも思えた。ギシギシとなる廊下の奥のボクに与えられた部屋は12畳とやたらと広く、ぽつんと独り居ると、置いてけぼりにされた気分にふと安堵の気分が交錯した。不安と安心が同居するような心持ち。2つの世界の中間にあるような。
夕暮れ時になって、軽く飲みながら夕食にしようと、昼過ぎから降り続いている雨の中を宿の主人に教えてもらった食堂まで出かけた。その食堂は、お土産屋やレストランが並ぶ一角から少し離れた林の中にあって、その周囲の道には外灯もない。正直なところ、帰りにまたこの道を歩くのは少々不気味だって感じていたな。
「こりゃぁ、かなり酔わなくちゃ、薄気味悪くて帰れないよ」
宿の主人には5時に店が開くと教えられていたので、ちょうどその時間に店に着いたのだけれど、子供達が賑やかな家族連れが1組と、注文した品を待っている様子の女性1人の先客がいて、きっと人気の店なんだろうと安心した事を覚えている。
ボクはカウンターに座り、ビールを注文し、他に2品3品軽い料理を頼んだ。
不思議なことに前半の記憶はここまでで、ボクの次の記憶は、窓から見える外はかなりの大降りなのに店の中では雨音もせずに不思議と静かだったことだ。
さっきまで賑やかだった家族連れのテーブルは、カウンターからは死角にあって確認できない。そしてもう1人の女性客は、おや? ボクの隣でカウンターに片肘ついて目を閉じている。
「お客さん、ずいぶんと楽しそうにされてましたね」
そう店の主人に言われて気付いたのだけれど、この店に来てからもう2時間以上経過している。かなり酔っているような気もしたけど、普通に醒めてるような感じもある。
「たくさん、飲みましたかね...」
自分が記憶を無くしていることを感づかれないように、それとなく聞いてみると、
「お客さんも、お連れの女性も、かなりいける口ですね」
「いや、連れってわけじゃないよ。ボクが店に来た時、彼女はもうここに来てただろ?」
「おや? そうでしたっけ? ずいぶんと仲が良さそうにお話になってましたから。宿も同じだって話でしたし」
「そんな話をしてたんだ... いや、彼女とはボクはここで初めて出会った」
「初めてここで? そうですか。彼女は脈ありってことですかね。お客さん」
その言い方には、ちょっと茶化すような、皮肉るような響きがあったから、ボクは、隣の女性に聞こえていたら、気を悪くするだろうなと心配したことを覚えている。
ボクは2時間もの間、その女性と話をしながら飲んでいたということになるんだけど、でも全くその記憶は無い。今も断片すら思い出せない。
家族連れが会計をすまし、帰るところだった。彼らが店の玄関を開けると、突然大きな雨の音が聞こえ、その音で隣の女性も目を覚ましたようだった。
「いやだ。ウトウトしてたわ」
「お互い、たくさん飲んじゃったみたいですね。ボクはそろそろ宿に戻ります」
そう言って、主人に会計するようにと伝えると、それでは彼女も帰ると言う。
「じゃぁ、お勘定、彼女の分と一緒に」
釣りをもらい、「ごちそうさま」と主人に声をかけ、引き戸を開けて外を見ると、来た時より雨ははるかに激しさを増していた。
傘を広げ、彼女の方を振り向くと彼女は傘を持っていなくてね。
「同じ宿だそうですね」
「はい、同じです。なにもない旅館だったので、退屈していました。あなたとお店で出会えて、よかったわ」
「傘に一緒に入りませんか? 実はボクも道が暗くて一人じゃ怖いなって思ってました」
「まぁ、暗い道が怖いだなんてずいぶんと臆病なのね。私にはもう怖いものはないのよ」
そう言うとコロコロと笑い、そして小さくため息をついた。
激しい雨の中で一本だけの傘じゃあまり役に立たないものだから、二人ともかなり濡れてしまったし、それに水はけの悪い道に出来た水たまりに踏み込んでしまったりして、靴の中にもすっかり水が入ってしまった。
それでも2人で帰る夜道は、少しも怖いことはなくて、むしろ楽しかったように覚えているよ。それに、店の主人の「脈あり」の言葉を、ボクは心の奥で反芻していたりしてね。
15分ほど歩いて宿に着くと、玄関まで主人が出て来た。
「おかえりなさい。すっかり雨が強くなってしまいましたね。掛ヶ谷食堂は、ガラ空きだったでしょ?」
「いや、何人か客はいたよ」
「おや、そうですか。めずらしいですね。あのあたりは道も舗装されていないので、雨の日にはほとんど客なんて来やしないんですよ。味は良いんですけどね。ここまでの帰り道、お独りではちょっとばかり薄気味悪くはありませんでした?」
おや? 彼は、何を言っているんだろう。そう思って彼女の方を振り返ると、ちょうど雨に濡れたハーフブーツを脱ごうとしているところだった。
ブーツを脱ぎ終えた足が、ぼんやりと背景に溶け込んでいて、はっきりと見えない。はっきりと見えなかったってことは、今でもはっきりと覚えている。そして、思った。
この女、本当に「脈」があるのか?
