こにの神社参詣記

こにの神社参詣記

小荷の参詣した神社の内から

公の情報
興味深い伝承
目を引く建築物や彫刻
歴史的石造物
指定文化財などを手掛かりに

各地に鎮まり給う八百万の神さまを
ご紹介していこうと考えています。
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小平潟天満宮(こびらがたてんまんぐう)

☆☆☆

御祭神 菅原道真公

鎮座地 福島県耶麻郡猪苗代町大字小松西浜1615

小平潟天満宮の歴史は古く天暦二年(948)に、小平潟集落の南旧社地に創建されました。

 

会津藩祖・保科正之は、天満宮の再興を願い、二代藩主正経によって、天和二年(1682)に会津鶴ヶ城を正面に見守る地に移し、「流造」という桃山様式の壮厳な社殿を築造しました。

 

鳥居横の狛犬さん

保科正之が天満宮を参拝された時に詠んだ歌があります。

「千早振 雪にもにほふみきの むめの葉をしらさりし 天津神がき」

(境内案内板より)

 

勧請の伝承

小平潟天満宮は「京都北野」「九州大宰府」とともに日本三大天満宮と称されています。

 

天暦元年(947)村上天皇は菅原道真公の御神像を彫らせましたが、小さかったため別に彫りなおして北野に奉納しました。

 

最初に彫った神像は彫刻家の家に安置していたのですが、須磨の浦の人が譲り受けて自宅に安置し、朝夕礼拝していました。

 

その後近江国(滋賀県)の比良神社の神主・神良種がこの家を訪れたとき、酒をたのんだところ濁酒を出され、

「スマデノムコソ ニゴリサケナレ」と詠んだところ、

「コノウラハ ナミタカケレバウチコシテ」という声が聞こえ、

辺りを見廻したのですが誰もいなく道真公の御神像があるばかりです。

 

これはまさしく神の声と信じ、御神像を譲り受けて、神の希望の地に神社を建てようと、御神像を背負って旅に出ました。

 

猪苗代湖畔

全国津々浦々を旅して、猪苗代湖畔の小平潟の浜に着いて風景にみとれて休んでいたのですが、よくみるとその地は須磨とよく似た景色でした。

 

出発しようと御神像を背負おうとしたところ重くて持ち上がりません。

 

これはこの地を神がお気に召したものと信じ、良種はこの地に神社を建立し、耶麻郡大領上毛野陸奥臣に申し出て天満宮を勧請し、自ら神官となり祭祀を司りました。

 

このとき、小出方村という地名だったこの地を摂津国平潟にちなんで小平潟に改めたといいます。

 

天暦二年(948)六月二十五日のことで、小平潟天満宮のおこりです。

(「境内案内板」及びWikより)

 

「磐梯山がつくった天神浜」

猪苗代湖北東岸に流れ込む長瀬川は、日本百名山である安達太良山と吾妻山を源とする川です。

 

磐梯山の北側にある桧原湖や小野川湖、秋元湖などからの支流と合流しながら、磐梯山の東側を回り込むように流れています。

更に酸川と合流して南側に流れ、猪苗代湖にそそいでいます。

 

道の駅猪苗代から見える磐梯山

猪苗代湖に突き出した三角州、長瀬川河口や天神浜は、明治二十一年(1888)の磐梯山噴火が大きく関係しています。

 

噴火により大量の土砂が岩なだれとなり、磐梯山の北側(裏磐梯)に広く堆積しました。

この一部分が長瀬川に入り、川底を上昇させ、大雨が降る度に何度となく洪水を発生させました。

 

猪苗代湖をパノラマ撮影

磐梯山の噴火で長瀬川に流れ込んだ土砂が、その後の移動で河口周辺まで流され堆積し、現在の三角州をつくりあげました。

(現地案内板より)

 

猪苗代町指定重要文化財(建造物)「小平潟天満宮本殿」

天満宮は正一位太政大臣菅原道真公をお祀りする神社です。

 

天暦二年(948)六月、大領毛野陸奥公に願い小平潟集落の南端にある旧社地に祀られ、後年天和二年(1682)保科正経によって現在地に造営されています。

 

本殿は種々の豪華な意匠を欅の材質に彫り込み、外側面の構造に美しさを表現しています。

 

小さな規模の神殿ながら建築と工芸の調和によって、江戸時代初期の手法を如実に顕現しています。

(境内案内板より)

 

「野口英世」が信仰していた神社

 

小平潟天満宮は、学問の神様・菅原道真公を祀り、日本三大天満宮と言われていたほど、天神様として近隣の信仰を集め、祭りの時には出店もたくさん出て賑わっていました。

 

野口英世の父の佐代助は小平潟が実家でしたので、祭礼の時などは清作(野口英世)を連れてよく参拝していました。

 

顔なじみとなっていた村人のあいだでも「天神さまの生まれ変わりではないか」と評判になるほど頭脳明晰な子供だったといわれています。

(境内案内板より)

 

「猪苗代兼載」句碑

「さみだれに 松遠ざかる すさきかな」

猪苗代兼載が小平潟天満宮で詠んだ発句で、碑は昭和三十四年(450回忌)に建立したものです。

 

猪苗代兼載は戦国時代の連歌師で、室町時代中期の天台宗の僧「心敬」に師事し、宗祇とも交流して、宗祇とともに連歌の最盛期を作り出した人物です。

 

かつてこの洲崎を前にした天神社は、広い湾景を一望して、社前の「幹の梅」のほとりには、湖の波がひたひた寄せていたといいます。

 

参道の様子

猪苗代兼載は、猪苗代地方に伝わる話によれば、兼載の母・加和里が小平潟天満宮に願かけをして兼載が生まれたといい、多くの神童伝説が伝わっています。

 

拝殿

野口英世の父である佐代助の生家は小平潟村の小桧山家ですが、この家が兼載の同族で、野口英世は兼載の血筋であるという説があります。

 

拝殿前の狛犬さん

小平潟村に、母のシカが奉公に来ていて、野口英世は小平潟村の生まれで、兼載の生まれ変わりであるとする話が伝えられています。

(「境内案内板」及び「Wik」より)

 

世界に蔓延する致死性の感染症に対して敢然と立ち向かった日本人「野口英世」

野口英世は、明治九年(1876)福島県猪苗代に生まれ、1歳半の時に左手に大やけどを負いましたが、恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服しました。

 

左手の手術により医学のすばらしさを実感し、自らも医学の道を志しました。

 

細菌学の研究に従事し、数々の論文を発表、ノーベル賞の候補にも挙がりました。

英世の研究に対する執念はすさまじく「ノグチはいつ眠るのか?」といわれるほどだったといいます。

 

昭和二年(1927)黄熱病のすべての疑問を解決するために周囲の反対を押し切ってアフリカ行きを決め、昭和三年(1928)黄熱病の予防法と治療法に目途がついたころ、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で感染し51歳で亡くなりました。

 

医学をとおして人類のために貢献した野口英世は、今も私たちの心に生き続けています。

(サイト「内閣府 野口英世の生涯」参照)

 

「菅原道真公」に至るまでの大陸との関係

日本がまだ倭国といわれていた第三十三代推古天皇(592~710)の時代、技術や制度を学ぶために遣隋使が派遣されました。

 

大陸側の認識としては朝貢国のひとつとみなされていましたが、それまでの倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない(臣下ではない)外交原則としました。

 

推古二十六年(618)隋が滅び、唐が建ち、遣隋使から遣唐使に名称は変わりましたが、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が大陸王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていません。

 

天平勝宝五年(753)には、日本の遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせています。

 

遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献しました。

 

寛平六年(894)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられました。

 

遣唐大使に菅原道真が任命されましたが、唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を既に凌駕したとする認識を背景に遣唐使派遣事業は消極化していました。

 

道真によって遣唐使派遣の必要性の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出され、その後遣唐使は再開されないまま延喜七年(907)に唐は滅亡しました。

(Wikより)

 

 

さて、現在流行している感染症は大陸由来の可能性があります。

そして、私たちの祖先には、世界的な感染症に立ち向かった「野口英世」がいます。

 

現在の世界を巻き込んでいる東アジアの情勢の中を、私たちはどのような気持ちで歩んでいくでしょう。

 

私たちの祖先には、事実上遣唐使を止めた「菅原道真公」がいます。

 

現代の私たちも、日本中に祀られている天神さまの社の前を、恥じることなく進みたいものです。

(個人的な感想です)


※写真は令和元年(2019)八月二十七日に撮影したものです。

 

 

 

小坂諏訪神社(長瀞町野上下郷)

☆☆☆

小坂諏訪神社

御祭神 健御名方神

鎮座地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷467

 

神社入口社号標と鳥居

由緒

正和元年(1312)阿仁和兵助橘基保が仲山城を築き当地を支配した時、基保が常に厚い信仰をささげていた信州一之宮の諏訪大明神の分霊を勧請して、ここに祀ったのが始まりと伝えられています。

 

狛犬さん

基保が没してから後は、鉢形城主北条氏邦が当社を厚く崇敬し、拝殿や神楽殿を造営、神域を拡張して当地方の総鎮守としましたが、北条氏の滅亡とともに社殿の修理等も行われないまま衰微しました。

 

豊かな森林を背景に建つ社殿

その後、弘化元年(1844)に、西光寺法印が広く浄財を募り、社殿を再建し、現在に至っています。

(境内案内板より)

 

長瀞町野上下郷は、荒川が北流して秩父盆地を抜ける手前の左岸に南面する扇状地で、地名を小坂と称し、諏訪神社はその坂上に鎮座しています。

 

国指定重要文化財「野上下郷石塔婆」

神社の南東、直線で約720mのT字路を、国道140号彩甲斐街道から町道に入ると、国指定重要文化財「野上下郷石塔婆」があります。

 

野上下郷板石塔婆は、台上高約5.37m、幅約1m、厚さ13cmあり、現存する青石板塔婆としては日本一の大きさです。

 

大和国阿仁和庄の住人阿仁和兵助橘基保は、観音のお告げによりその地を離れ当地の小坂に仲山城を構え上州金山新田氏に仕えたといいます。

 

基保は仲山城大手門筋に信州一之宮諏訪大明神を勧請しました。

基保の子兵衛直家は元弘元年(1331)府中六所宮の娘を娶るも、父基保が建武二年(1335)に歿し、直家が城主になりましたが、那賀郡秋山城(現本庄市)の腰元に懸想したため秋山氏と不仲となり、遂に延文二年(1357)二月二十一日討ち死にしました。

 

奥方は弥陀の御告げにて難を逃れ、縁ある能登の時国家へと落ちて行きました。

 

手水舎

直家十三回忌に当たる応安二年(1369)十月、比久尼となった奥方と諸衆三十五人がこの地を訪れ、「野上下郷石塔婆」となる供養塔を建立したと「信仰利生鏡」に伝わっています。

 

その後、鉢形北条氏が厚く信仰し、神域も拡張され小坂の鎮守となりました。

 

境内の様子

 

現社殿は弘化元年(1844)別当西光寺住僧が発願し広く浄財を勧化、再建された社殿です。

本殿はじめ拝殿には彫物がよく施され、拝殿の欄間彫刻には二十四孝のうち六面の彫刻が施されています。

(サイト「埼玉県の神社」参照)

 

「二十四孝(にじゅうしこう)」は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物二十四人を取り上げた書物で、元の時代(1271~1368)に編纂されたもので、日本では江戸時代に翻訳され、神社仏閣等の建築物に人物図などが描かれたり、寺子屋での教材として使用されたりしました。

 

小坂諏訪神社の拝殿欄間彫刻は右壁面から

一、楊香(ようこう)

十四歳の楊香が、父親と田を耕しに出かけた時、山道で虎が現れ二人を襲いました。

楊香は虎が去るようにと願いましたが叶わず、それならば「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助かりますように」と、虎の前に身を投じました。

すると、それまで猛り狂っていた虎が逃げ去り、父子共に命が助かったという物語です。

 

二、郭巨(かくきょ)

郭巨は貧しいながらも、母と妻を養っていました。

妻に子供が産まれ三歳になったとき、郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていました。

恐らく旱魃などの影響もあったでしょう、日々の食事も十分に摂れない状況下で母が孫に自分の食事を分け与えている姿を見て、郭巨は妻に「夫婦であれば子供はまた授かるだろう、母親は一人しか居ない。その母親に孝を尽くしたい。ここはこの子を埋めて母を養おう」と申し出ました。

妻は悲嘆に暮れましたが夫に同意しました。

郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と記されていました。

郭巨と妻は黄金の釜を見て喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くしたという物語です。

 

正面右側

三、郯子(たんし)

郯子には年老いた両親がいて、眼を患っていました。

鹿の乳が眼の薬になると聞いた両親は、郯子に欲しいと願いました。

郯子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入り、鹿の乳を得ようとしたとき、猟師が本物の鹿と間違えて郯子を射ようとしました。

気付いた郯子は「親の願いの眼病の薬である鹿の乳を集めるために鹿の格好をしているのです」と声を上げ、猟師も寸前で気付きました。

郯子の孝行の志が篤かったので射られる事なく帰ることができ、親孝行をすることが出来たという物語です。

 

正面左側

四、老莱子(ろうらいし)

老萊子は、両親に孝養を尽くし仕えた人です。

老萊子は七十歳になっても、身体に派手な着物を着て、子供の格好になって遊び、子供のように愚かな振る舞いをし、また親のために食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣くように泣いて見せました。

両親も老いたことを忘れ、笑顔を見せていました。

自分が年老いた姿を、更に老いている両親には見せないようにするという心掛けは、自分の親を見て、「衰えた、呆けた」と思って対応してしまう現代人に、一つの考えを示す物語です。

 

左壁面には

五、舜(しゅん)

舜は大変孝行な人でした。

父は頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った態度の者でしたが、舜は家族にひたすら孝行を続けました。

舜が田を耕しに行くと象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けました。

その時の天子である堯王は、舜の孝行な心に感心し、「孝行の深い心の者にこそ国を任せられる」と、娘を娶らせ天子の座を舜に譲ったという物語です。

 

六、孟宗(もうそう)

孟宗は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていました。

病気になった母は、ある冬に筍が食べたいと言いました。

孟宗は竹林に行きましたが、冬に筍があるはずもなく、孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘りました。

すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来ました。

孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて、そして天寿を全うしたという物語です。

 

右脇障子は「盧敖仙人」

盧敖仙人は三尺ほどの亀に乗っていました。

その亀は三千年に一度頭を出すのですが、ある人が「今までに何回出したか」と尋ねると、盧敖仙人は「五回出したよ」と答えました。

つまり盧敖仙人は一万年以上生きていたことになります。

 

左脇障子は「林和靖」

林和靖は中国宋の時代、隠遁して西湖の畔に住み、妻を娶らず梅を植え、子のかわりに鶴を飼い、船を湖に浮かべて清らかに風雅に暮らしたという人物です。

 

向拝柱頭貫上には「玉巵弾琴」

玉巵(ぎょくし)は西王母の末娘で、彼女が一弦琴を弾くと多くの鳥が集まり、また時には白龍に乗り四海を周遊したといわれています。

 

拝殿外壁の見事な木彫の彩色は、本庄第一高等学校(本庄市仁手)美術部の部員たちが、平成二十七年(2015)から約五年の歳月をかけて修復を行ったものです。

(「本庄経済新聞」記事より)

 

社殿左側境内に社日塔、恵比須像、境内社

二十四孝の物語は、現在の豊かな日本に住む私たちから見れば、そんな事はあり得ないと思えるお話しばかりですが、社殿に彫刻されたのが短く見ても江戸後期だったとして、その当時の社会情勢や、人々の未来に向けた夢が垣間見えるようです。

 

恵比須さま

神社境内が子どもたちの最も安全な遊び場だった時代、学校教育も無かったでしょうから、農作業の合間に子どもたちに、立派な彫刻を指さして物語を教える親の姿が、子どもたちの豊かな心を育んでいたのだと思います。

 

社殿右側の末社石祠にも側面に龍の彫刻が施されています。

 

現代になり、社殿の立派な彫刻の色彩修復を行なったのは、歴史専門家でもなく、彫刻専門家でもなく、歴史建造物修理業者でもなく、志ある教員に導かれた一般高校生たちです。

修復に携わった美術部員たちは、「この色彩はオレたちが修復したんだぜ」って、誇りにして一生自慢にしていいし、その誇りを次の世代にも伝えていけたら、とても素晴らしい事だと思います。

(個人的な感想です)

 

※写真は令和三年(2021)十一月二日に撮影したものです。

 

 

 

雷電神社(富岡市岡本)

☆☆☆

御祭神 火雷大神・大雷大神・別雷大神(推定)

鎮座地 群馬県富岡市岡本1群馬サファリパーク西側の雷電山山頂

 

雷電山の雷電神社

雷電山山頂に鎮座する雷電神社は、雨乞い、厄除けを願う神として雷神を祀っています。

雷神とは、雷と稲妻をつかさどる神のことで、鬼のような姿をして虎の皮の褌をまとい、太鼓を輪形に連ねて背負い手に桴を持つ雷神像が知られています。

 

山頂までの参道は、十分ほどのハイキングコースになっており、眼下を一望できるその景色は絶景。

毎年五月、地元の人達による例祭が行われます。

(サイト「JA甘楽富岡」より)

 

群馬サファリパークの入場ゲートを通り、直進するとパーク正面に行ってしまうので、右に曲がってサファリパークの第二駐車場に入ります。

パーク入場料はこの時300円。

とても広い第二駐車場の奥には、シマウマ柄のサファリバスやトラ柄のエサやり体験バスが停まっていて、林の奥に園内の観覧車が見えます。

 

岡の上にはレストランサバンナの看板が見えます。

 

第二駐車場から第四駐車場に向かう上りの左カーブの奥に鳥居があり、「雷電神社参道」の社号標標識が立っています。

 

鳥居を潜ってまずは草藪。

薮こぎして歩いてその先の土の斜面に丸太型の段を置いた参道を進み、ジグザグに斜面を登って行きます。

 

参道は雷電山のハイキングコースなので、所々に自然保護の看板が立っています。

 

見晴らしの良い所には、見通せる山々の名前とイラストの描かれた案内板も設置されています。

看板に励まされて参道を進みます。

しばらく登ると石段と石燈籠が見え、雷電神社到着です。

 

境内の様子

 

社殿にアフリカ象「タンゴ」命名の奉納額が掲げられていました。

昭和六十一年五月五日子供の日に、ここ群馬サファリ・ワールド内で日本で初めてアフリカ象の赤ちゃん(男の子)が誕生しました。

 

母親象サキューブの陣痛の始まった五月三日は産土神雷電神社の例祭日で、七十年ぶりに改築された新社殿落成式典の執り行われた日でもありました。

 

そのとき、安産のご祈願を捧げ、無事赤ちゃんが授かりましたので、ここに御礼の安産額を奉納し、併せて、この赤ちゃんの健やかな成長をお護り下さいますようお祈り申し上げます。

父親象 リチャード

母親象 サキューブ

(境内奉納額より)

 

この下の方にサファリパークが見えるはずです。

もちろん、父親象・母親象が自分で署名できるはずもなく、ましてや急な山道を登って奉納に来たわけでもないでしょう。

子ゾウの誕生が、もの凄くうれしかったサファリパークの職員さんが、父親象・母親象に成り代わって産土さまにご報告に昇殿したはずです。

 

境内の末社石祠

私たち日本人には、民間信仰が成立するほど昔から、ペットや家畜に名前を付けて、家族のように接する習慣があるように思います。

 

その後の「タンゴ」については「サファリパークHP」に記事がありました。

 

1986年5月5日に群馬サファリに1頭のゾウが誕生しました。

地上で最大の動物、ゾウは妊娠期間も長く649日、1年10ヶ月もあります。

人工の施設でのアフリカゾウの誕生は非常に珍しく日本では初めて、世界でも数例しかなく、非常に貴重なものです。

スタッフと、リチャード・サキューブとの、愛の結晶の子ゾウは、端午の節句にちなんで「タンゴ」と名づけられました。

 

(*‘ω‘ *) アカチャンゾウサンミタイー♪

 

1才のタンゴは、体重440kg、体高130cm にも成長しました。

 

(*‘∀‘)ノ オオキクナーレーオオキクナーレー

 

1999年5月5日で13才の誕生日を迎えました。

 

( ˘ω˘ ) ヨシヨシ

 

2009年3月4日、多摩動物公園からアフリカゾウの「アイ」が群馬サファリパークに移動しました。

繁殖適齢期のオス「タンゴ」にお嫁入りが決まったためです。

 

(´ω`*) ヨメイリヂャー♪

 

群馬サファリパークへの到着後、アイは緊張して眠れない夜を過ごしていたようですが、寝室にタンゴが戻ってくると落ち着くらしく、しばらくすると横になって寝るようになりました。

 

( ˘ω˘) スヤー

 

アイは持ち前の楽天家ぶりをすぐに発揮し、タンゴと同じ放飼場に初めて出た時も、最初はお互いモジモジしたものの、しばらくすると自分からタンゴに近づき、あいさつをしていました。

今では押しかけ女房状態です。

タンゴはとてもやさしい性格なのか、アイに餌を取られても怒らず、穏やかな表情でアイを見つめています。

 

(。´・ω・) シリニシカレテル?

 

タンゴは2010年になって足の具合が悪くなるなど体調を崩して投薬が続けられていました。

 

( ˘•ω•˘ ) スグニヨクナルヂャロ

 

タンゴは2010年6月13日に残念ながら永眠いたしました。

 

Σ(゚ Д゚ ; ) エッ

 

永い間皆様にご愛顧いただきましてありがとうございました。

 

(ノД`)・゜・。

 

(「群馬サファリパークHP」「多摩動物公園 東京ズーネット」参照)

 

私たち日本人には、民間信仰が成立するほど昔から、ペットや家畜に名前を付けて、家族のように接する習慣があるように思います。

 

昔から、都を離れて遠く旅してきた旅先で愛馬が亡くなった時、馬頭観音像を近くの神社に祀って馬の冥福を祈っていました。

 

近年であれば、飼っていた小鳥や金魚が亡くなった時、悲しむ子どもと一緒に、庭の隅に埋葬して、アイスクリームの棒に名前を書いて立ててあげたり‥。

 

それは、それまで一緒に時を過ごしてきたペットや家畜の魂を弔うと共に、子どもたちに命の大切さを教え伝えてきた、私たち日本人の伝統と言えるのかも知れません。

 

雷電山山頂に静かに佇む社殿

日本の動物園育ちの子ゾウにとって幸せといえるかどうか判らないけど、それでもアフリカの大自然サバンナを、一度見せてあげたかった‥‥、気がします。

 

(ノД`)・゜・。

 

※写真は令和元年(2019)九月十九日に撮影したものです。

 

☆神域動物さんシリーズ

 

 

 

上羽田八幡宮(かみはねだはちまんぐう)

☆☆☆

上羽田八幡宮

御祭神 譽田別命

鎮座地 栃木県佐野市上羽田町684

 

神社入口

 

由緒

承平六年(936)田原藤太秀郷が、朝敵將門討伐の命を承け、當郷まで出馬しました。

将門は名高い強敵でしたので、秀郷は宇佐八幡宮を奉じて戦勝を祈りました。

 

其の擁護により、遂に賊を平げて、唐澤城を築きました。

 

鳥居を潜って左手に、手水舎と、恐らく神楽衣装庫

右手には御神木の欅巨木の根元

欅巨木の後方に神楽殿があります。

社殿前の狛犬さん

 

天慶五年(942)現在の社殿の後方に兵器を埋めて塚を造り、所道塲塚と呼んで宮殿を建て、以て裏鬼門鎭護としました。

 

遊具のある境内の後方のこんもりとした塚

塚の上り口

塚の頂

その后元録八年(1965)宮殿再建の際に今の慮へ遷座しました。

その際、「刀劍の類朽ち錆ひて寸断となれるもの地底より發見せし」とあり、又再建は本殿の棟札に明記された正しい記録と判りました。

 

塚の頂から見える社殿

其頃は、和氣の王子という人物が神子として宮仕しましたが、和氣氏歸京の後は奉仕するものが暫く無く、永和年間(1375~1379)に到って佐野家にて代々修繕を加え崇敬の社となりました。

 

塚の上り口付近から見る社殿

遊具側から見る社殿

 

佐野家廢絶后は近村七郷の鎭守と崇められ、永禄十年(1567)八月下羽田村にも分祀しました。

 

明治五年(1872)郷社に列せられました。

 

社殿前の様子

昭和六十三年(1988)三月火災により焼失しましたが、再建のため平成元年(1989)十月起工し、平成二年(1990)十月三殿及び参道、神楽衣装庫が完成し、遷座式を斎行しました。

(「下野神社沿革誌」及び「境内記念碑」より)

 

ふるさと佐野100選「上羽田八幡宮の欅」

上羽田八幡宮の御神木である欅は樹齢600年を超えると推定されます。

 

御神木の欅の幹の洞には、アオバズクが巣を作っていました。

 

現在は、台風で傷んだ部分から倒れる危険があったため、数メートルの高さで幹を切断し、切断された幹の野鳥アオバズクが巣にしていた洞の部分を切り取って、別の欅に設置しました。

 

翌年には飛来したアオバズクが、その洞を再び巣にしています。

 

「アオバズク」

アオバズクはフクロウ科の渡り鳥です。

アオバズクの飛来は、平成二十三年(2011)から毎年続いています。

四月下旬頃飛来し、五月下旬には卵を温め始めます。

※写真は下野新聞SOONより

 

雄は近くの木の枝にとまり、天敵のカラスなどを警戒する姿を見ることが出来ます。

 

三羽の雛と、右下が親鳥さん

七月下旬には雛の姿が見られ、八月上旬には東南アジア方面に飛び立ちます。

(オンラインニュース「下野新聞SOON」より)

 

(*’ω’*) アカチャンフクロウサン ミタイナー

 

情報満載の神社掲示板

残念ながら、令和三年(2021)は、アオバズクは来ませんでした。

神社の掲示板には「営巣せず」とありましたので、巣は作らなかったけど、もしかしたら近くまでは来ていたのかも知れません。

 

( ˘ω˘ ).。oO コトシハ コナカッタカ…

 

野鳥は人の姿や動き、音に警戒します。

普段もそうですが、アオバズクの飛来する季節は特に静かに参詣を心掛けたいものです。

 

子育てに良い環境を選びたいのは、人も野鳥も一緒ですね。

 

(*'▽')ノ フクロウサン ライネン マッテルカラネー

 

※写真は令和三年(2021)九月十日に撮影したものです。

 

☆他にも境内で動物さんシリーズ

 

 

 

住居野丹生神社(すまいのたんしょうじんじゃ)

☆☆☆

住居野丹生神社

御祭神 丹生都比売命

鎮座地 埼玉県児玉郡神川町大字上阿久原1377

住居野の丹生神社は、群馬県と埼玉県の境にある神流湖の、下久保ダムから少しずつ放流される神流川が、山際に当たって大きく北方向にU字に流れを変えるその東側、山際の奥の山中の僅かな集落にあります。

 

斜面上に舞殿が見えます。

斜面上には一塊の集落があり、その西端に境内があります。

社殿前の鳥居は朱を塗りなおし、

台石の上のコンクリート製の根巻は左右アンバランスな高さですが、木製の鳥居を修復した際に、絶対に倒れないようにしようと考えた地域の方たちの気持ちが表されているようです。

 

神泉村指定民俗資料(神川町指定無形民俗文化財)

「住居野の獅子舞」

※写真は神川町HPより

 

丹生神社の獅子舞(ささら)は、流名を「天下一角平流」と称し、五穀豊穣、厄除けのため、住居野鎮守丹生大明神境内において行われ、続けられています。

 

現在の舞殿

グリーンのシートで閉じられています。

白い漆喰の部分に白いパネルが張られ、修復の跡が見られます。

境内は獅子舞のための十分な広さがあります。

 

この行事は江戸時代以前から行われていましたが、文化二年(1805)火災のため獅子並びに記録その他を焼失し、定かではありません。

しかし、獅子頭を再彫刻し、獅子舞はその後も続けられました。

明治十四年(1881)再び火災に遭い、現在使用されている獅子頭は明治十九年(1886)再々彫刻したものです。

(境内案内板より)

 

「丹生都比売命」とは

丹生大明神は高野山四社明神のひとつで、天照大神の妹であり、天下万物の母、生長と養育の恵みの神といわれています。

 

姉の大日女姫は後に天照大神と呼ばれる女神の原型となり、妹姫の稚日女姫はミズガネの女神と讃えられ、丹生都比売神の原型となりました。

 

境内神域と道路の境にある石祠や石像

当時、露出した水銀鉱脈を見つけては採掘していた丹生都比売命を奉ずる人々は、九州から鉱脈を求めて三重、岐阜、長野、静岡、千葉、群馬へと鉱脈を求めて移動して来ました。

 

その移動ライン以外では、天孫族の勢力、物部氏の勢力、出雲の勢力が大きく、丹生都比売神は祀られていません。

恐らく別の金属採掘の一族がいたことが予測されます。

 

社殿前の、一基だけの石燈籠と巨樹

その後、新しい鍛冶技術の伝播や、水銀鉱床の枯渇から、丹生神を奉ずる多くの人々は農民として民草の中に吸収されて行き、丹生都比売命から罔象女神さらに雨師(おかみ)へと変遷して祀られるようになっていきました。

(サイト「神奈備にようこそ」参照)

 

社殿前の御嶽山大神石碑

 

丹生都比売命は記紀には出ていない神であるため、詳細は分からないというのが本当なのですが、諸説ある中で、丹生都比売が稚日女姫だとすれば、古事記の「天照大神の天岩戸隠れ」に登場する服織女だとされています。

 

境内から見える東側の集落の様子。

雲間の朝陽と、霧の向こうの山と鉄塔。

丹生神社に限らず、自分たちの住んでいる地域の小さな神社が、地域限定の産土神さまかと思って調べてみると、記録に残っている歴史から、神話の時代まで遡ることができたりするので驚きます。

(個人的な感想です)

 

※写真は令和二年(2020)九月七日に撮影したものです。

 

 

 

神明宮(前橋市堀越町)

☆☆☆

群馬縣管下上野國南勢多郡堀越村字勝山 無格社 神明宮

御祭神 大日孁尊

境内末社 古峯神社(日本武命) 三峯神社(大山祇命) 八坂神社(素盞嗚尊) 大山祇神社(大山祇命) 諏訪神社(建御名方命) 稲荷神社(保食命)

(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 

堀越町神明宮は、群馬県前橋市堀越町299付近の「足軽町公民館」右手に隣接している小さな神社です。

県道3号前橋大間々桐生線に面して、公民館と墓地の間に簡素な木製の鳥居がありますが、車でゆっくり流していても見逃すほど目立たないです。

道路向かいの自動販売機コーナーを目印にすると見つけられると思います。

 

境内の三峯神社・古峯神社石祠

「足軽町」について

領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ、いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく、足軽町などは郭外に置かれることが多かった。

(「コトバンク」参照)

 

足軽は戦闘の主役ではなかったが、戦国時代を迎え集団戦が本格化・大規模化していくと、訓練された長槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され備えの主要な部隊として活躍するようになり、足軽の兵力が戦を大きく分けると言われるまでとなった。

(Wikより)

 

上記は一般的な説明なのですが、地名として残っていますので、普段は城下に仕えていて、いざという時には出陣する、そんな方たちがこの辺りに居住していたのかも知れません。

 

一列に並んだ石祠群

神明宮は勝山に鎮座している。この神社はもとは養林寺の境内に祀られていたものという。

祭日はオクンチ(十月十九日)。以前は祭日には灯籠っ子が灯籠を点けた。

このときには子どもたちは神社に泊った。村の人たちは赤飯をたいて早朝に神社へお参りに行った。一番参りをすれば蚕が当るといわれた。

子どもたちは供えた赤飯を食べた。

神明様の境内には上野十二社(石宮が十二社)が祀られているが、この祭日は一月十二日。

(「大胡町誌」より抜粋)

 

「おくんち」は、収穫を感謝して奉納されるお祭りです。

語源は「(御)九日」、「(御)供日」「(御)宮日」と幾つかの説があります。

 

石段の上の神明宮本殿「大神宮」石祠

神明宮拝殿の後方に石段があり、石垣より一段高い位置にあるのが本殿で、額には「大神宮」と刻まれています。覆屋はありません。

本殿右には石垣の上にずらりと石祠が並んでいて、そこに「疱瘡神」の石祠もあります。

 

「疱瘡神」石祠

神明様の境内に疱瘡神様が祀ってある。

子どもに疱瘡をうえさして、一週間目にウツギの木で疱瘡棚をつくって、それから毎日赤飯をあげたり、お賽銭をあげたりしてお祀りをして、十二日たってから疱瘡神さまのところへ疱瘡棚を持って行って疱瘡送りをした。

(「大胡町誌」より抜粋)

 

疱瘡神石祠と石碑

疱瘡(天然痘・痘瘡:1980年にWHOが撲滅宣言)は、明治九年(1876)に強制種痘が行われるまで生涯に一度は罹らなければならない病気でした。

命が助かっても顔に痣を残したりするので、当時致死率の高かった麻疹とともに「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」と言われていました。

当時の人たちはウィルスや伝染病の知識が無かったので「疱瘡は他郷からやってくる」と考えられ、丁重な祭りを行って速やかに村から立ち去ってほしいとの思いからお祭りが行われていました。

 

「猿田彦大神」石碑

疱瘡神を祀った石祠は、探すと日本中どの地域でも比較的よく見られます。

疱瘡神は、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種です。

平安時代の「続日本紀」によれば、疱瘡は天平七年(735)に朝鮮半島の新羅から伝わったとあります。

(天平の疫病大流行)

 

当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられました。

近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていました。

(Wikより)

 

八坂神社「天王様」石祠

医療が高度に進んだ現代でも、未知の感染症が到来すると、当時と何が違うでしょう。

 

当時の対応としては、子どもたちに集団感染させて、普段はそうそう出せないような食事を与えて体力抵抗力を付けさせて免疫を獲得させることだったようです。

個々の家では財力的にできなかったでしょうから、地域単位で行われていて、そこには罹った人を個人攻撃するような社会風潮は無かったような気がします。

 

勿論、現在において、子どもたちを集めて集団感染させるということも、疱瘡神を祀って地域中でお祈りすることも出来ませんが、病気に対する情報も知識もなかった私たちの祖先には、何はなくとも知恵はあったのだと思わされます。

(個人的な感想です)

 

※写真は平成三十年(2018)八月二十四日に撮影したものです。

 

 

 

白瀧神社(しらたきじんじゃ)

☆☆☆

川内町白瀧神社

御祭神 天八千々姫神 白滝姫

配祀神 大穴牟遅神 素盞鳴命 大産霊命 宇気母智神 大山祇命 木花開那姫命 倉稲魂命 菅原道真公 大雷命 建御名方神 伊邪那岐尊 大物主神

鎮座地 群馬県桐生市川内町五丁目3288

 

末社石祠

明治四十年(1907)に合併を許可された諸社

白瀧神社境内末社 菅原社 大平社 産泰社

字柏倉在無格社柏蔵神社(稲荷) 同末社八坂社 菅原社

字宮皆戸在無格社赤城神社 同末社琴平社 八坂社 愛宕社 雷神社 産泰社 稲荷社 熊野社 菅原社

字十二在無格社諏訪社 同末社大山祇社 熊野社

 

駐車場は境内北側のグラウンドでしたが、その日は多くの方がゲートボールに集まっていたので、駐車場誘導標式をそちらに向けていて、普段は違うかも知れません。

こんな感じ。

 

白瀧神社社伝

「永久年間女白滝という、故ありて土人仁田山の舎人に嫁し、常に絹布を織ることを好み、その業の精巧ならんことを欲し、八千々姫に祈りて遂に客殿を造営せり、女世を去って後村人配祀して白滝社と称すという」

 

参道入口「一の鳥居」は駐車した所と反対の、社殿から南西側にあります。

 

「白瀧姫伝説」

白瀧神社は、鳴神山を源流とし桐生市川内町の中央を南北に流れる山田川左岸、桐生市川内町五丁目(旧仁田山)に鎮座しています。

 

起源は奈良時代頃とされ、千二百年近い歴史を持つ古社です。

御祭神は、天八千々姫命(織物、紡績の神)に、白瀧姫の御霊を合祀したものです。

 

参道を進むと右手の石段の上が境内になります。

 

白瀧姫は、横萩右大臣豊成公の二女として、天平宝字年間(757~765)に京都にお生まれになりました。

 

長じて、御所に白瀧の前(きさき)と称し、官女として奉仕していた折に、上野国山田郡仁田山郷の住人、山田舎人(とねり)が郡役として、一年の間御所に奉仕する為に来ていました。

 

正面に「二の鳥居」

 

山田舎人は、低い身分でありながらも和歌の素養がありました。

当時は文学が盛んで、しばしば御歌の会が催されました。

 

数々の詠進の中に、白瀧の前と山田舎人の詠進に、相互の思慕の念が誰の目にも明らかに見られるようになりました。

 

このことが帝の耳に達し、御前での歌合せで山田舎人が勝てば結婚を許される事となりました。

 

鳥居手前右手に「手水舎」

 

白瀧姫の歌

「照り続き 山田の稲の枯はてて 何を種とて命つくらん」

 

山田舎人の返歌

「照り続き 山田の稲のこかれなば 落ちてたすけよ白瀧の水」

 

二の鳥居

 

帝は見事な山田舎人の返歌をお聞きになり、御感のあまり、白瀧姫を山田舎人に、二人の結婚を許され、二人は相伴って仁田山の里に帰って来たと云います。

 

社殿前の狛犬さん

 

白瀧姫は宮中で覚えた養蚕、製糸、機織りの業を里人に教え、村は栄え、土地の産業としての礎となり、後に時の朝廷に絹織物を献上するほどになりました。

(ブログ「古今東西 御朱印と散策」参照)

 

「かかあ天下」のいわれ案内板

 

白瀧姫については、天明二年(1782)の「沢入道能記」にも記録されています。

 

「上古此郡より山田部とて都へ夫をのぼせし事ありとぞ、ある御歌合の御時、官女を賜うて(故郷へ)下る。後に官女絹を織りて都へ奉る。是より絹織ることをつたえ国中にひろまる。桐生の奥仁田山に機神天神と号し、官女をまつりあるとかや承る。云々」

(「高山彦九郎全集」参照)

 

境内には「降臨石」と呼ばれる巨石や、桐生市指定天然記念物となっている大ケヤキがあります。

 

「降臨石」

「降臨石」は、その昔、岩に耳をあてると機音が聞こえましたが、不心得者が雪駄を履いて岩に上がってから機音が止まってしまったとの言い伝えがあります。

 

桐生市指定天然記念物「白瀧神社のケヤキ」

御神木の大ケヤキは、白瀧神社の社殿の背後に立っています。

社殿で幹は隠れ、背後の山の木々と枝葉は同化して見えるので、社殿の後ろ側に回って接近するまでは、その姿は分かり難い位置にあります。

根元は中々に逞しく、岩を抱えて込んで急斜面に立っています。

中心にある幹の一部は欠損していますが、樹勢は良い様子で、木々に囲まれて佇むその姿には神秘的なものを感じます。

(サイト「少しだけ遠くの風景」より)

 

桐生市指定重要無形民俗文化財「白瀧神社太々神楽」

白瀧神社には古くから神楽が伝承されていますがその起源は定かではありません。

 

神楽殿の奥に「天宇豆女之命」

現存の記録では明治二十一年(1888)の「太々神楽施行願」があり、明治三十一年(1898)八月の「神正流大和太々神楽座記録」に、十二座の舞の記録が、舞人の姓名とともに記載されています。

舞人の議定書もあり第一條から第十條までに舞人の心得が細かに記され署名捺印されています。

第一座「翁之舞」、第弐座「猿田彦之舞」、第参座「天宇豆女之舞」、 第四座「剣玉之舞」、第五座「岩戸開伎之舞」、第六座「巨蛇退治」、第七座「鬼人退治」、第八座「種蒔之舞」、第九座「恵比寿之舞」、第拾座「稲山之舞」、第拾壱座「釜湯之舞」、第拾弐座「上棟式」、その他に糸枠を持って舞う「機神舞」があります。

 

拝殿の扁額

 

白瀧姫命の伝承は、

桓武天皇(737~806)の時代、上野国山田郡の男が京都に宮仕えに出ました。

その際、白瀧姫に恋をして、天皇の前で見事な和歌を披露することによって、白瀧姫を連れて帰ることを認めてもらった、と伝わっています。

 

その姫は、桐生に移り住んだのちに、絹織物の技術を地域に伝承し、現在の桐生織は白瀧姫より受け継がれたといいます。

 

神社周囲の風景

白瀧姫は、没後に桐生市川内町の白瀧神社に埋葬され機織神として祀られたといいます。

(サイト「神まうでⅡ」より)

 

※写真は平成三十年(2018)四月二十九日に撮影したものです。

 

※心の中に浮かび上がった、

(≧◇≦)ノ ヤッタネ ヤマダノトネリ!とか、

(´・ω・`)ゞ ミヤコカラ トツイデキタケド ヤマダ‥

といったセリフは控えました。

(*´▽`*).。oO

 

 

 

鹿島神社(根小屋町第二区)

☆☆☆

根小屋の鹿嶋宮

御祭神 建御雷之男神

境内末社 天神社

鎮座地 群馬県高崎市根小屋町847

 

 

「宝性寺と花火で名高い鹿島さま」

鹿島神社は境内から平安時代の古瓦が出土しているかなり古い神社です。

昔、農民手作りの花火を打ち上げ、真夏の夜を楽しんだ「鹿島の七日火」が、現在に伝わっています。

(「南八幡 ちびっこかるた」より)

 

この神社の境内には、古い塔の礎石と思われるものが、北東隅と南西隅、本殿東側の大きな欅の根元とに三個あり、古くからの神社であったと考えられています。

社殿右後方の大欅

 

「鹿島の七日火」

高崎市根小屋町(二区)に鎮座する鹿島宮は、毎年八月に行われる祭礼「鹿島の七日火」の花火大会が有名です。

 

祭礼日の大灯籠と小さな灯籠

※写真は「養蚕日記(おかいこの飼育)」より

 

昔、農民手作りの花火を打ち上げ真夏の夜を楽しんだ「鹿島の七日火」が今に伝わっているもので、村人の「家内安全」「五穀豊穣」「天下泰平」を願う祭礼です。

 

特色は、花火が大好きな神様で、祭りの当日の夜は、「万灯(まんどう)」と呼ばれる仕掛け花火を神社境内に建て、各組単位で打ち上げます。

昔は自家花火を作って神社に奉納していました。

 

万灯

※写真は「宝性寺と花火で名高い鹿島さま」より

 

万灯は6m程の竹の先端部に数発の打ち上げ花火を仕掛けたもので、当日の夜、19時半頃に四地区(宮本組・下組・反目西・反目東)から担がれて来て鹿島宮境内で打ち上げられ夜空を彩ります。

(ブログ「南八幡の案内人」より)

 

「鹿島神社と防人」

飛鳥時代この国の若者は、碓氷の嶺を越え、遠く筑紫国(福岡県)の防人として召されて行きました。

 

神社入口

県道30号寺尾藤岡線の根小屋町T字路信号のすぐ西の「鹿嶋宮」社号標から、南西の山際まで進むと石段があります。

 

「日の暮れに 碓氷の山を 越ゆる日は 夫なのが袖も さやに振らしつ」

(万葉集 巻14)

 

日の暮れ方に碓氷峠を越える日は、私の夫が袖をはっきりとお振りになるのがわかりました。

 

上代、東国の防人は、国を立つとき、鹿島の神を祀ったといいます。

「鹿島立ち」といわれます。

 

石段の上には開けた空間があるように見えます。

 

その昔この地から筑紫へ召された若者がいました。

 

残された人たちで、鹿島立ちを祝った場所に鹿島明神の祠を建て、若者の無事を祈りました。

 

その若者は再び故郷の土を踏むことができたのか‥

 

その址に鹿島神社が残りました。

 

いつの頃からか神社では毎年八月に「七日火」という万燈花火を打ち上げて、祖霊を慰めるようになりました。

(高崎自然歩道「石碑の路」案内板より)

 

石段の上には上信電鉄の路線があります。

なんとこの踏切には遮断機がありません。

その向こうに神社境内が見えます。

 

常陸国一之宮「鹿島神宮」は、武芸の神とされる武甕槌命を御祭神とし、当時、蝦夷に対する大和王権の前線基地でした。

 

そして、全国にある「鹿島」という地名や神社名は、「防人」を出したところに多いと言われています。

 

踏切を渡って鳥居を潜り境内に入ります。

 

「防人」は、天智二年(663)に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が、白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵です。

 

諸国の軍団から派遣され、任期は三年でしたが延長される事がよくあり、食糧・武器は自弁でした。

 

大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備されました。

 

境内左手には天神社

天神さまの神像が祀られています。

 

「防人」は、天平宝字元年(757)以降は九州からの徴用となりましたが、当初は遠江以東の東国から徴兵されました。

 

村の若い力が「防人」として徴兵され、その任期中も税は免除される事がないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられています。

 

社殿右後方の大欅の前にも祠があります。

お稲荷さんかな

 

徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行きました。

 

任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかったといいます。

 

「防人歌」

万葉集には、東国の防人の歌87首、父の歌1首、妻の歌10首、合計98首が残されています。

 

「我ろ旅は 旅と思ほど 家にして 子持ち痩すらむ 我が妻かなしも」

(万葉集 巻20)

 

私の旅は、旅と思ってがまんの仕様もあるが、家にいて子どもを抱えて痩せているだろう妻が、かなしい。

 

「防人に 行くは誰が夫と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず」

(万葉集 巻20)

 

防人に行くのは誰の夫なのかしら、と尋ねる人を見て、なんと羨ましいことか。何も思い悩むこともしないで。

 

並んで小さな石祠

 

防人の歌は、生きて帰れる保証もないまま家郷から切り離された防人本人の不安や恐怖だけでなく、

残された家族への思いや、夫を送り出さざるをえない妻の、深く重い苦しみが、生々しく歌われています。

(日本大百科全書「防人歌」参照)

 

 

私の先祖のおじいちゃんは、太平洋戦争の時に徴兵されて、ルソン島で通信士をしていた時に、終戦間際に爆撃されて亡くなったと聞かされています。

 

「戦争なんてしたくないよ」という気持ちはみんな一緒ですが、他人事のように「防人に行くのは誰の夫なのかしらと尋ねる人」の側になってはいけない、とも思います。

 

集落の端に残された小さな神社と、現在も続けられている祭礼行事は、

防人となった本人とその家族の気持ちを繋げているだけでなく、

祖先の人たちと現在の私たちをも繋いでいるような気がして、

神社の佇まいや花火の光景も、違って見えてくるような、そんな感じがします。

(個人的な見解です)

 

※写真は平成三十年(2018)十二月七日に撮影したものです。

 

 

 

御沼龗神社

☆☆☆

御沼龗神社(みぬまおかみじんじゃ)

御祭神 高龗神(龍神)

鎮座地 群馬県高崎市榛名湖町 榛名湖南西岸

 

御祭神の高龗神は水を掌る龍神で、「龗」とは龍の古語です。

一般的に龍神として崇められ、龍は水や雨全般を司り、祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されています。

 

神社側の岸から見た榛名湖

満々と水を湛える榛名湖は、永い年月榛名神社の「御手洗沼」として殺生禁断の地でした。

 

旱の折には、各地から湖水の水を受けて帰る「雨乞い」の神事が鎌倉時代より行われていました。

五月の例祭では豊な水の恵に感謝し、五穀豊穣と氏子・観光客の安全を願う神事が執り行われています。

 

供養塔

榛名湖には女人入水説話が諸説あり、境内には箕輪城落城に際し、木部駿河守範虎夫人長野姫と腰元九屋のものとされる供養塔があります。

(境内案内板より)

 

氷る榛名湖と榛名山

 

高龗(たかおかみ)とは

「高」は山峰を意味し、「龗」は水をつかさどる蛇体の神のことを表します。

高龗は「日本書紀」一書に見える神です。

 

「其の一段は是れ、雷の神と為る。一段は是れ、大山祇の神と為る。一段は是れ、高龗と為る」

(書紀 神代上)

 

伊邪那岐命が、その子軻遇突智を斬った時に、雷神・山神とともに出生した神で、水を司る神として、闇龗と共に、祈雨・止雨の信仰を受けました。

(「精選版 日本国語大辞典」参照)

 

雨の日の榛名山

晴れた日の榛名山

 

榛名湖伝説

古代の榛名湖は「伊香保沼(いかほのぬま)」と呼称されていました。

 

「上毛野 伊香保の沼に 植ゑ子水葱 かく恋ひむとや 種求めけむ」

( 詠み人知らず「万葉集 3415」)

 

「万葉集」に収録されている東歌には九首に「伊香保(榛名山一帯を指す広域名)」が詠まれています。

順徳天皇(在位 1210~1221)による「八雲御抄」の解説によれば、この「伊香保の沼」は「在山上池」であり、榛名湖をさすとしています。

 

文永六年(1269)天台宗の僧仙覚の「萬葉集註釈」によれば、「イカホノヌマ」は「請雨之使」であり、雨乞いの信仰の対象だったと示唆されています。

 

榛名公園ビジターセンターから見た榛名山

冬の榛名山

 

「神道集」の記載

室町時代(1333~1573)に成立したと考えられている「神道集」には、赤城山と榛名山の湖をめぐる伝説が収録されています。

 

上野国へ配流された公卿「高野辺家成」(高野辺大将)に三人の美しい娘がおり、「淵名姫」「赤城姫」「伊香保姫」といいました。

 

境内の様子(雨の日)

 

娘たちの継母が彼女らの命を狙い、「淵名姫」は利根川に沈められて殺され、逃げた「赤城姫」は赤城山の沼に棲む龍神によって赤城大明神となりました。

 

末妹の「伊香保姫」は伊香保(榛名山)に逃れ、のちに上野国の国司(高光中将)と結婚しました。

 

境内の様子(晴天の日)

 

その後、後任の国司が伊香保姫に横恋慕し、姫の夫を殺してしまいます。

 

伊香保姫は、夫の後を追って榛名湖(伊香保沼)に入水し、姫は沼の龍神によって伊香保大明神とされました。

 

伊香保姫は、夫(高光中将)が生前に建立した水澤寺に弔われたとされています。

 

神社の対岸に見える榛名山

 

戦国時代の伝承

高崎市南部の木部町には、戦国時代に当地の姫が榛名湖に入水して水神になったという伝承があります。

 

「姫の入水と腰元蟹」

榛名湖の湖畔にある「御沼龗神社(木部神社)」には、戦国武将の妻(姫)が榛名湖に入水して転生した龍神(蛇神)を祀っているとされています。

湖畔では、姫を祀るため、命日に赤飯を榛名湖に流す風習があるとされています。

 

神社前の通りにはレストランやお土産屋さんが並んでいます。

 

江戸時代の榛名湖

江戸時代の中頃から、榛名湖の南山中にある榛名神社に参詣して、境内の湧水(神泉)を竹筒に詰めて持ち帰り、田畑に注ぐと雨に恵まれるという信仰が盛んになりました。

 

関東一円の農村では「榛名講」と称し、毎年村の代表者を送り込んだといいます。

 

江戸時代に中川久盛の妻が伊香保温泉や榛名湖を巡って書いた紀行文「伊香保記」では、

「此沼の辺にて民とも雨こひすればあめふるといふ」

と伝えています。

 

姫の入水の経緯や出自については諸説あります。

 

湖を見物に訪れた姫が突如理由もなく入水してしまったという伝えや、武将の妻が夫の戦死の報に接して身を投げたという伝えです。

 

このとき、姫の従者(腰元)も姫の後を追って入水し、蟹に転生したといいます。

 

これを「腰元蟹」といい、腰元蟹は神使として湖水の落ち葉や藻を除き、姫の棲む榛名湖の水を清めているとされています。

 

また腰元蟹は、落ち葉を掻き分け下を覗き、姫を探しているとも言われています。

 

江戸時代の紀行文「伊香保記」では、榛名湖のカニは湖水を清める神聖な存在であり、湖畔を歩く際にはカニを踏んではならないと記されています。

 

木部氏の地元である木部町(高崎市)などでは、「カニを食すると榛名湖に行くことができない」と、カニに対する禁忌が伝わっています。

 

榛名湖南東岸には榛名公園があります。

自然の豊かさを讃えた湖面

Σ(゚Д゚) アッ!

(((=゚ω゚)ノ オトウサン、アレニ ノリタイー!

って、言ったよね~ (´ω`*).。oO オモイデ♫

お洒落なデザインの外灯

Σ(・ω・ノ)ノ アッ ! オウマサンガ オル !

(◎_◎;) シカモ ハナシガイダ !

恐らく、榛名湖湖畔観光馬車のお馬さんだと思います。

駐車場のすぐ脇の草むらで、柵もないし、どこにも繋がれていないのに、どこかに行っちゃったりせず、静かに草を食べていました。

 

姫の出自については、

 

渋川氏の一族で蕨城(埼玉県蕨市)城主の渋川義基の妻「北の方」とする説、

 

箕輪城主長野業正の妻「長野姫」とする説、

 

長野業正の娘で、家臣の木部氏(木部城主木部範虎)に嫁いだ姫(「長野姫」または「木部姫」)とする説、

 

木部氏の娘(木部姫)とする説、

 

長者の娘だった「藤波姫」とする説などがあります。

 

他県にも伝わっている伝承

蕨城(埼玉県蕨市)城主の渋川義基とその妻(龍體院)の伝承

 

御沼龗神社の境内には、夫妻を祀るため、昭和四十六年(1971)に建立された石碑があります。

 

渋川義基は、元々は足利氏一門でしたが、戦国時代に足利系の扇谷上杉氏と小田原北条氏との勢力争いに巻き込まれ、北条氏の軍門に降りました。

 

妻の「北の方(龍體院)」は、榛名湖に近い渋川の出身だったとされています。

 

渋川義基は、永禄十年(1567)に下総国(千葉県)で起きた三船山合戦に北条方で参戦し、討ち死にしました。

 

妻はその報せを受けて故郷の榛名湖に身を投げたといいます。

 

龍體院は龍神へと化身し、雨乞いに霊験があると信仰されるようになりました。

 

榛名湖北東岸の森林地帯は風致探勝林として管理されています。

ホテルや温泉のある北東岸の周囲一帯が風致探勝林です。

 

蕨市に隣接する埼玉県戸田市美女木の伝承

 

仁政を敷き、美女木で「わらびさま」と呼ばれて敬愛されていた城主が敗死したとき、その妻が侍女とともに榛名湖へ身を投げました。

 

死に際して妻は、死後は龍神となって村に恵みの雨をもたらし、作物を害する雹を防ごうと誓ったといいます。

 

その言葉通り、妻は龍神に、侍女は蟹となりました。

 

ある年に美女木で厳しい日照りがあり、八幡神社で神託を得たところ、榛名湖の湖水を撒くとよいと出て以来、村では「お水もらい」と称して榛名講がはじまったといいます。

 

これは蕨城主の妻が榛名湖に祀られていることに由来するとされています。

 

御沼龗神社の境内に、箕輪城(高崎市箕郷町)の城主長野業正の妻「長野姫」とその腰元の供養塔があります。

 

異伝では、入水した姫は長野業正の四女で、家臣木部氏(木部城主木部範虎とも)の妻であるといい、「長野姫」または「木部姫」と伝わっています。

 

永禄年間(1558~1570)に、武田信玄が長野氏の領内に侵攻すると、これを事前に察知した木部氏は戦の前にあらかじめ夜闇に乗じて妻を城から出し、榛名山の山中に隠れさせたといいます。

 

しかし、山に登った妻が城の方角を見ると空が赤く染まっており、城が焼け落ちていました。

夫が戦死したと悟った妻は榛名湖に入水したといわれています。

 

云い伝えの内容の、妻が龍神になり、腰元が蟹になる部分は共通しています。

 

また、入水した木部姫は、その母(長野氏の妻)が榛名湖へ参詣した際に懐妊した娘で、龍神の血をひいていたとする伝えもあります。

 

細部にはさまざまな異伝があり、落城したのが木部城とするものや、箕輪城とするもの、夫の木部氏が木部城で戦死したとするもの、箕輪城に詰めていて戦死していなかったとするもの、落城の年を永禄六年(1563)とするものや、永禄九年(1566)とするものなどがあります。

 

これら一連の伝承は細部で異なるものの、ルーツは同じものと考えられています。

(サイト「weblio辞書」参照)

 

激しい日照りの続くような合戦で、敗れた夫を想い入水した、姫さまの気持ちを思うとき、それは涙雨となってこの大地に降り注ぐのかも知れません。

(個人的な感想です)

 

※写真は、以下の日に撮影したものです。

氷った湖面 : 平成二十九年(2017)三月十八日

雨の日 : 平成三十年(2018)三月二十日

冬の榛名山 : 令和二年(2020)二月三日

晴天の日 : 令和三年(2021)七月十九日

 

 

 

小坂子八幡神社(こざかしはちまんじんじゃ)

☆☆☆

群馬縣管下上野國南勢多郡小阪子村字西新井 村社八幡神社

 

御祭神

譽田別尊 素盞嗚命 大山祇命 伊弉冊命 速玉男命 事解男命 建御名方命 菅原道真公 大國主命 火産靈命 大物主命 大日孁命

 

境内末社三社

厳島神社(市杵嶋姫命)

猿田彦神社(猿田彦命)

大雷神社(大雷命)

(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 

鎮座地 群馬県前橋市小坂子町598-1

 

群馬県前橋市小坂子町は赤城山南麓の傾斜地に位置しています。

小坂子村として江戸時代頃からある地名で、前橋藩領でした。

小坂子の地名の由来は、緩急・大小の坂がいくつも続く地形から生じたものと考えられています。

 

近年は昭和四十七年(1972)に畜産団地が造成され、その後南端には芳賀東部工業団地が造成されました。

 

小坂子八幡神社は、「芳賀団地」「高花台団地」と呼ばれる、よく整備された住宅地の北東角の位置にあります。

周辺の神社の中でも広い境内地を持つ中規模の社です。

 

由緒沿革

小坂子八幡神社は小坂子町字西新井に鎮座する村の氏神様です。

この地は戦国の西新井(小坂子)城跡で、御祭神の誉田別尊は八幡神で武運の神です。

拝殿前の狛犬さん

明治四十年(1907)六月、村内の字岩ノ下「熊野神社」、字諏訪前「諏訪神社」、字下中川「菅原神社」、字霞皆戸「愛宕神社」、字向原「神明宮」を、この地に遷して合併し、村社八幡神社としました。

 

手水舎

手水龍さん (; ・`д・´) ワシノ メノ クロイウチハ ミナヲ アライキヨメテ ヤルゾ!

私 (`・ω・´) リュウサマ デモ ソノメハ クロ デハナクテ キンイロニ ミエマス

手水龍さん ( ˘ω˘ ) アア コノ メノイロナ、 キニイッテルンジャ !

 

境内の本殿の裏側に、厳島神社・八坂神社・大山祇神社・猿田彦神・若宮八幡宮・大雷神社・八千矛神社・琴平宮の末社石宮が移築されています。

小坂子八幡神社は、大正二年(1913)に改築されました。

戦後、スポーツ広場に利用するため、社前東南にあった神楽殿を社務所の隣に移動しました。

 

神社の創立・由緒などは、村に伝わる古文書類の戦災による焼失のため不詳ですが、宝物の太刀二振と神鏡三面は残され別保管されています。

 

社殿側面から

境内には樹齢三百年の赤松の外、黒松の大樹が多く繁茂していましたが、台風や松食い虫によってここ十年ほどの間に消滅し、今は根株を残すのみとなっています。

 

社殿改築記念碑・屋根修復記念碑

平成二十二年(2010)に社殿屋根の修復が行われました。

 

お祭りには八幡大菩薩と大書された幟旗二本が鳥居前に掲げられます。

近年は初詣が大々的に行われ、多くの参詣者が訪れています。

(「芳賀村誌・芳賀の町誌」及び「境内案内板」より)

 

御本殿

神社を参詣する人たちは、皆それぞれ願い事を持って訪れ、神域に入って、古い社殿や石碑・石祠の前に立ち、頬を撫でる穏やかな風や鎮守杜のざわめき、時にはたまたまそこに居た動物たちの様子を見て、神さまの声として感じているのだと思います。

 

拝殿前の階段で、にゃんこが寛いでます。

にゃんこ ( ˘ω˘) スヤ-

にゃんこ ( ˘ω˘ ) キイテアゲルカラ ニャンデモ ネガイゴトヲ イイニャ

にゃんこ ( ˘ω˘ ) ワタシノ メノ クロイウチハ カミサマニ ツタエテ アゲルニャ

 

私 (`・ω・´) デモ ニャンコサマ ソノメハ クロ デハナクテ キンイロニ ミエマス !

にゃんこ ( ˘ω˘ ) アア コノ メノイロニャ、 キニイッテルニャ ♫

 

(*´ω`* ) .。oO

 

※写真は令和元年(2019)五月二十四日に撮影したものです。

 

神域にゃんこシリーズ