小平潟天満宮(こびらがたてんまんぐう)
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御祭神 菅原道真公
鎮座地 福島県耶麻郡猪苗代町大字小松西浜1615
小平潟天満宮の歴史は古く天暦二年(948)に、小平潟集落の南旧社地に創建されました。
会津藩祖・保科正之は、天満宮の再興を願い、二代藩主正経によって、天和二年(1682)に会津鶴ヶ城を正面に見守る地に移し、「流造」という桃山様式の壮厳な社殿を築造しました。
鳥居横の狛犬さん
保科正之が天満宮を参拝された時に詠んだ歌があります。
「千早振 雪にもにほふみきの むめの葉をしらさりし 天津神がき」
(境内案内板より)
勧請の伝承
小平潟天満宮は「京都北野」「九州大宰府」とともに日本三大天満宮と称されています。
天暦元年(947)村上天皇は菅原道真公の御神像を彫らせましたが、小さかったため別に彫りなおして北野に奉納しました。
最初に彫った神像は彫刻家の家に安置していたのですが、須磨の浦の人が譲り受けて自宅に安置し、朝夕礼拝していました。
その後近江国(滋賀県)の比良神社の神主・神良種がこの家を訪れたとき、酒をたのんだところ濁酒を出され、
「スマデノムコソ ニゴリサケナレ」と詠んだところ、
「コノウラハ ナミタカケレバウチコシテ」という声が聞こえ、
辺りを見廻したのですが誰もいなく道真公の御神像があるばかりです。
これはまさしく神の声と信じ、御神像を譲り受けて、神の希望の地に神社を建てようと、御神像を背負って旅に出ました。
猪苗代湖畔
全国津々浦々を旅して、猪苗代湖畔の小平潟の浜に着いて風景にみとれて休んでいたのですが、よくみるとその地は須磨とよく似た景色でした。
出発しようと御神像を背負おうとしたところ重くて持ち上がりません。
これはこの地を神がお気に召したものと信じ、良種はこの地に神社を建立し、耶麻郡大領上毛野陸奥臣に申し出て天満宮を勧請し、自ら神官となり祭祀を司りました。
このとき、小出方村という地名だったこの地を摂津国平潟にちなんで小平潟に改めたといいます。
天暦二年(948)六月二十五日のことで、小平潟天満宮のおこりです。
(「境内案内板」及びWikより)
「磐梯山がつくった天神浜」
猪苗代湖北東岸に流れ込む長瀬川は、日本百名山である安達太良山と吾妻山を源とする川です。
磐梯山の北側にある桧原湖や小野川湖、秋元湖などからの支流と合流しながら、磐梯山の東側を回り込むように流れています。
更に酸川と合流して南側に流れ、猪苗代湖にそそいでいます。
道の駅猪苗代から見える磐梯山
猪苗代湖に突き出した三角州、長瀬川河口や天神浜は、明治二十一年(1888)の磐梯山噴火が大きく関係しています。
噴火により大量の土砂が岩なだれとなり、磐梯山の北側(裏磐梯)に広く堆積しました。
この一部分が長瀬川に入り、川底を上昇させ、大雨が降る度に何度となく洪水を発生させました。
猪苗代湖をパノラマ撮影
磐梯山の噴火で長瀬川に流れ込んだ土砂が、その後の移動で河口周辺まで流され堆積し、現在の三角州をつくりあげました。
(現地案内板より)
猪苗代町指定重要文化財(建造物)「小平潟天満宮本殿」
天満宮は正一位太政大臣菅原道真公をお祀りする神社です。
天暦二年(948)六月、大領毛野陸奥公に願い小平潟集落の南端にある旧社地に祀られ、後年天和二年(1682)保科正経によって現在地に造営されています。
本殿は種々の豪華な意匠を欅の材質に彫り込み、外側面の構造に美しさを表現しています。
小さな規模の神殿ながら建築と工芸の調和によって、江戸時代初期の手法を如実に顕現しています。
(境内案内板より)
「野口英世」が信仰していた神社
小平潟天満宮は、学問の神様・菅原道真公を祀り、日本三大天満宮と言われていたほど、天神様として近隣の信仰を集め、祭りの時には出店もたくさん出て賑わっていました。
野口英世の父の佐代助は小平潟が実家でしたので、祭礼の時などは清作(野口英世)を連れてよく参拝していました。
顔なじみとなっていた村人のあいだでも「天神さまの生まれ変わりではないか」と評判になるほど頭脳明晰な子供だったといわれています。
(境内案内板より)
「猪苗代兼載」句碑
「さみだれに 松遠ざかる すさきかな」
猪苗代兼載が小平潟天満宮で詠んだ発句で、碑は昭和三十四年(450回忌)に建立したものです。
猪苗代兼載は戦国時代の連歌師で、室町時代中期の天台宗の僧「心敬」に師事し、宗祇とも交流して、宗祇とともに連歌の最盛期を作り出した人物です。
かつてこの洲崎を前にした天神社は、広い湾景を一望して、社前の「幹の梅」のほとりには、湖の波がひたひた寄せていたといいます。
参道の様子
猪苗代兼載は、猪苗代地方に伝わる話によれば、兼載の母・加和里が小平潟天満宮に願かけをして兼載が生まれたといい、多くの神童伝説が伝わっています。
拝殿
野口英世の父である佐代助の生家は小平潟村の小桧山家ですが、この家が兼載の同族で、野口英世は兼載の血筋であるという説があります。
拝殿前の狛犬さん
小平潟村に、母のシカが奉公に来ていて、野口英世は小平潟村の生まれで、兼載の生まれ変わりであるとする話が伝えられています。
(「境内案内板」及び「Wik」より)
世界に蔓延する致死性の感染症に対して敢然と立ち向かった日本人「野口英世」
野口英世は、明治九年(1876)福島県猪苗代に生まれ、1歳半の時に左手に大やけどを負いましたが、恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服しました。
左手の手術により医学のすばらしさを実感し、自らも医学の道を志しました。
細菌学の研究に従事し、数々の論文を発表、ノーベル賞の候補にも挙がりました。
英世の研究に対する執念はすさまじく「ノグチはいつ眠るのか?」といわれるほどだったといいます。
昭和二年(1927)黄熱病のすべての疑問を解決するために周囲の反対を押し切ってアフリカ行きを決め、昭和三年(1928)黄熱病の予防法と治療法に目途がついたころ、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で感染し51歳で亡くなりました。
医学をとおして人類のために貢献した野口英世は、今も私たちの心に生き続けています。
(サイト「内閣府 野口英世の生涯」参照)
「菅原道真公」に至るまでの大陸との関係
日本がまだ倭国といわれていた第三十三代推古天皇(592~710)の時代、技術や制度を学ぶために遣隋使が派遣されました。
大陸側の認識としては朝貢国のひとつとみなされていましたが、それまでの倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない(臣下ではない)外交原則としました。
推古二十六年(618)隋が滅び、唐が建ち、遣隋使から遣唐使に名称は変わりましたが、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が大陸王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていません。
天平勝宝五年(753)には、日本の遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせています。
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献しました。
寛平六年(894)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられました。
遣唐大使に菅原道真が任命されましたが、唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を既に凌駕したとする認識を背景に遣唐使派遣事業は消極化していました。
道真によって遣唐使派遣の必要性の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出され、その後遣唐使は再開されないまま延喜七年(907)に唐は滅亡しました。
(Wikより)
さて、現在流行している感染症は大陸由来の可能性があります。
そして、私たちの祖先には、世界的な感染症に立ち向かった「野口英世」がいます。
現在の世界を巻き込んでいる東アジアの情勢の中を、私たちはどのような気持ちで歩んでいくでしょう。
私たちの祖先には、事実上遣唐使を止めた「菅原道真公」がいます。
現代の私たちも、日本中に祀られている天神さまの社の前を、恥じることなく進みたいものです。
(個人的な感想です)
※写真は令和元年(2019)八月二十七日に撮影したものです。