こにの神社参詣記 -2ページ目

こにの神社参詣記

小荷の参詣した神社の内から

公の情報
興味深い伝承
目を引く建築物や彫刻
歴史的石造物
指定文化財などを手掛かりに

各地に鎮まり給う八百万の神さまを
ご紹介していこうと考えています。
(Google マップにも投稿しています。)

下野國三之宮 村檜神社

☆☆☆

村檜神社(むらひじんじゃ)

主祭神 譽田別命

配祀神 熊野大神 大山咋命

境内社 住吉神社 浅間神社 西宮神社 織姫神社

鎮座地 栃木県栃木市岩舟町小野寺4697

 

岩舟町指定文化財(天然記念物)「村檜神社社叢」

 

由緒

創建は孝徳天皇の御宇大化二年(646)と伝えられ、熊野大神、日枝大神(大山咋命)の二柱を祀り、佐野庄小野寺十郷の総鎮守として崇敬されました。

 

神社入口の神橋と鳥居

神橋の手前に一基だけの狛犬さん

のち平城天皇の御宇、大同二年(807)に、皆川村小野口に鎮座せる八幡宮を合祀し、主祭神としました。

 

鳥居の先、社叢の中を昇る参道石段

参道や境内の巨木

参道両側の杉などの社叢は樹齢千年にも及ぶと言われています。

小道や石碑と比べると、杉巨木の太さがよく分かります。

 

参道石段の上の割拝殿を潜ると境内になります。

境内側から見た割拝殿

村檜神社は、醍醐天皇の御宇、延喜年間(901~923)に、勅命により国内神社を調査した際にその撰に入り、延喜式内社に列せられました。

下野國三之宮として今もなお崇敬されています。

 

村檜神社社殿

社殿前の狛犬さん

現在の社殿は室町後期、天文二十二年(1533)の建物です。

三間社春日造屋根は檜皮葦で、室町時代後期の傑作として国の重要文化財の指定を受けています。

(「栃木県神社庁HP」より)

 

本殿左方の柱には、飛騨の工匠左甚五郎の作と伝えられる瓜の彫刻があります。

 

その昔、藤原秀郷が唐沢山に築城の際、鬼門にあたる当神社を守護神として厚く信仰しました。

 

天慶二年(939)平将門を叛せし時も御神徳の賜物と弓矢を奉納したと伝えられています。

(サイト「栃木市観光協会」参照)

 

村檜神社は、栃木市南北の中央西端に位置し、県道282号中藤岡線を、北側の佐野市との境界線から一山超えて来た所にあります。

この辺り小野寺地区の東側には三杉川が流れ、川と並行するように東北自動車道が走っています。

 

村檜神社に隣接する「小野寺山大慈寺」

村檜神社参道入口に隣接する「小野寺山大慈寺」には、平安時代に生きた六歌仙の一人「小野小町」が、大慈寺御本尊の薬師如来に病気平癒の祈願をしたと伝えられています。

 

小野寺山大慈寺の「七佛薬師堂」

薬師堂の横に「小町の碑」があります。

十二単の小町のイメージ

(「かわいいフリー素材集いらすとや」より)

 

小野小町は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている女性です。

 

小町の出自は、系図集「尊卑分脈」によれば、小野一族である小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされています。

 

「小町」という名称は名前ではなくて、「町」という字が当てられる後宮に仕える女性だったのではないかと考えられています。

 

出羽国の郡司の小野一族の娘で、姉妹揃って宮仕えする際に、

姉は「小野町」と名付けられ、

妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説があります。

 

「古今和歌集」歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述から、

生誕地が現在の秋田県湯沢市小野と考えられ、

当時の日本の最果ての地の生まれという伝承が、「小野小町」という人物の神秘性を高めています。

(Wik参照)

 

σ(*^▽^*) アキタケンシュッシン♫

 

(。-`ω-)σ イマ、「ソレカンケーネー」ッテ、オモッタロー…

 

神社入口の通りを挟んだ向かいにある案内板

村檜神社参道入口の東には、村内の重要な場所である「村檜神社」の社前に丁重に葬られたという「小野小町の墓」があります。

(「大慈寺境内案内板」より)

 

案内板の先には、庭園の東屋のような建物があります。

それが、きれいに整備され、大切に保存されている「小野小町のお墓」です。

小町が晩年過ごした地の伝承や、小町のお墓は全国に点在していて、どの地の伝承も本物である説得力を持って伝えられています。

 

この地の伝承では、「小野寺山大慈寺」で修行した「慈覚大師円仁」と同じ遣唐船に、「小野篁」が乗船していたことが根拠となっています。

 

大慈寺御本尊の薬師如来に病気平癒を祈願した小野小町の黒髪が、やがて小野寺のイグサとなり、そのイグサを用いた畳の家では、必ず子宝に恵まれると云われています。

(「大慈寺境内案内板」より)

 

※写真は令和三年(2021)六月十七日に撮影したものです。

 

 

 

広馬場八幡宮(石祠)

☆☆

鎮座地 群馬県北群馬郡榛東村広馬場2533

 

榛東村広馬場の第十三区コミュニティセンター横に鎮座する八幡宮(石祠)です。

 

コミュニティーセンター敷地には、文化財「子育地蔵尊」のお堂があります。

敷地内には八幡宮は見当たりません。

 

群馬県指定重要無形民俗文化財「広馬場十三区の地蔵祭り」

毎年八月に広馬場十三区内において、地蔵祭りが行われています。

地蔵祭りは、その昔、先祖の供養、長寿祈願、子授けや安産祈願のために行われた「地蔵廻し」に由来しています。

 

お堂の中にはお神輿が収納されています。

このお祭りは無病息災を願うもので、神輿を台車に乗せ、太鼓やかねを鳴らしながら、新盆の家を中心に村内を練り歩きます。

(コミュニティーセンター案内碑より)

 

この地域の周囲には比較的大きな社殿を持った中規模神社が三社あります。

 

西に直線で約1km離れて「相馬山黒髪神社里宮」

(群馬県北群馬郡榛東村広馬場3635)

 

北東に直線で約1km離れて「新井八幡神社」

(群馬県北群馬郡榛東村新井680)

 

南東に直線で約1.2km離れて「聖宮神社」

(群馬県北群馬郡榛東村広馬場1421)

 

この三社を結んだ三角形のほぼ中心に広馬場八幡宮があります。

 

広馬場八幡宮は国土地理院の地図にも神社マークが載っているのですが、隣接するコミュニティセンターから見ても見逃してしまうほど見えません。

 

歩道をスタスタと歩く黒にゃんこを目で追っていると、

ヒョイッと脇道に入ったので、見ると

Σ(゚Д゚ )! 道路の脇に石燈籠があるではないですか。

 

その先には鳥居。

黒にゃんこは鳥居を潜って先に進んで行きます。

 

鳥居の額は、まさしく「八幡宮」

 

私 (´ω`*) ニャンコモ オマイリニ キタノカナ?

黒にゃんこ ((((。-`ω-) イヤ マイニチノ ジュンカイコースダ キニスルナ

 

時々立ち止まっては振り返り、私を確認するとまた進んで行きます。

黒にゃんこ ((((。-`ω-)ノ コッチダヨ!

 

その先には小さな石祠がありました。

 

八幡宮石祠の周りには、愛宕大権現、秋葉大権現、庚申塔、庚申塔の横に削れて輪郭の分かりにくくなってしまっている双体道祖神、不動明王像か青面金剛像と思われる石像があります。

 

 

地域の行事としては子育地蔵尊の地蔵祭りが行われ、

小さな八幡宮石祠は目立たなくなっているのですが、

 

子育地蔵尊で先祖供養、長寿、安産子育て、無病息災を願い、

八幡宮では火災除けや厄除けを願った地域の方々の思いがあったことが、石碑群からよく解る気がします。

 

黒にゃんこ (((。-`ω-) チャント ツイテコイヨ‥

 

※写真は平成三十年(2018)五月七日に撮影したものです。

 

神域にゃんこシリーズ

 

 

 

境内の「にゃんこ」

 

境内で動物に出会うのは、その社の御祭神の神使として現れているので、神さまに歓迎されている徴として、とても縁起が良いといわれます。

 

神さまに歓迎されているかどうかは別として、私の記憶に鮮明に残っている動物さんは、

 

山間の静かな神社では、

 

☆鹿さん

境内に入った瞬間、僅か2m程の近距離で出会った鹿さん。

お互いに腰が抜けるほどビックリしましたが、鹿さんはものすごい急斜面を猛ダッシュで下って行きました。

鹿さんの白いお尻が強く印象に残っています。

 

☆お猿さん

擁壁の上の神社入口の鳥居横に5~6体横一列に並んだお猿さん。

お猿さんは怖いですね。

以前サファリパークで、車の天井のゴム材やワイパーをお猿さんに剥ぎ取られた事があるので、怖かったから、車の中でお猿さんが去るまで待ちました。

 

☆カラスさん

鎮守杜上空を、大集団で飛ぶカラスさん。

鳴き声はもう騒音に近い大音響で、社殿に近づくにつれて、上空から集団小枝落し爆撃に遭ったことがあります。

恐らく雛が居る巣が近くに有ったのだろうと思います。

 

☆山鳥さん

拝殿前で目を瞑ってお祈り中に、バサバサと羽音が接近してきたと思って、目を開けた瞬間に顔の前を山鳥(種類は分からず)がかすめて行ったこともあります。

自分の心臓が口から出てくるかと思ったほど驚いたのを覚えています。

 

☆子熊さん

神社に向かう車道横を走っている子熊さん。

ちょっと見は、動物園で笹の枝にじゃれて遊んでいるパンダのような、ちょっと楽し気な動きで走ったり止まったりしていましたが、絶対近くに親熊が居るでしょうから、怖いので、神社駐車場でしばらく周りの音に注意を払ってから参拝したことがあります。

 

町中の神社で出会う動物さんは、

 

圧倒的に「にゃんこ」が多いですね。

にゃんこたちのしぐさは、何か語りかけてくるような、そんな気持ちになります。

 

暖かい温泉の湯樋の窓で眠るにゃんこ

 

このページには、私が参詣中に「にゃんこ」が登場した神社の記事を集めてみようと思います。

 

☆金色の眼の‥

 

☆黒にゃんこの誘導で

 

☆境内で鉢合わせ

 

☆縁の上から監視する

 

☆裏側の参道に佇む

 

☆暖かい湯樋の窓で眠る

 

なかなか記事を更新できず、焦りを感じることもありますが、

少しずつ少しずつ、ブログを充実させていこうと考えています。

 

☆動物さん番外編「フクロウさん」

 

☆動物さん番外編「象さん」

 

 

 

三柱神社(前橋市富田町)

☆☆☆

群馬縣管下上野國南勢多郡冨田村字東原 村社三柱神社

御祭神 宇氣母智神 大穴牟遅神 天児屋命

 

境内末社

菅原神社 八坂神社 秋葉神社 阿夫利神社 琴平神社 八幡神社

 

鎮座地 群馬県前橋市富田町812-1

 

由緒

當社ノ儀ハ往古ヨリ稲荷神社、赤城神社、春日神社トテ三柱ナリ、然ルヲ去ル明治十年十月五日合併願濟上社号ヲ三柱ト御免許相成ル

(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 

三柱神社は県道76号前橋西久保線と県道40号藤岡大胡線の交差する富田町信号から南に3ブロック下った位置にあります。

富田町集落センターに隣接した、小規模な地域の神社です。

 

水鉢

明治十一年(1878)十月、上区の稲荷神社と中区の赤城神社、下区・吹地区の春日神社を合併し「三柱神社」としました。

 

記念碑

社号を「三柱神社」としたのは明治になってからですが、合併以前からそれぞれの神社として存在していたでしょうから、歴史はもう少し遡ることができると思います。

 

堅牢地神

堅牢地神は、万物を生育し負載するはたらきを神格化したものです。

 

因みに、富田という地名は、「富田村」として江戸時代頃からある地名です。

 

末社石祠群

 

拝殿後方に接続した本殿覆屋

本殿覆屋内には右側に稲荷神社(伏見稲荷からの分社)、中央に春日神社(春日大社の分社)、左側に赤城神社(上毛野君の氏神)が祀られています。

 

富田という地名が示す通り、豊かな水田稲作と、地域の守護と繁栄、それに地域の祖神を併せ祀り、加えて末社の布陣と記念碑を見ると、地域の方々が大切にしてきたものが見えてくるような気がします。

(個人的な感想です)

 

境内を撮影していると、にゃんこと鉢合わせです。

私 Σ(・ω・ノ)ノ  アッ、ニャンコダ!

にゃんこ Σ(゚Д゚ ) アッ、ニンゲンダ!

 

そしてずっと観察されています。

|柱|ω・) ジ~‥ アタシノテリトリーデ、ナニシテルニャ‥

 

※写真は平成三十年(2018)二月二十二日に撮影したものです。

 

神域にゃんこシリーズ

 

 

 

白佐波神社(しらさわじんじゃ)

☆☆☆

主祭神 日本武尊

配祀神 大山祇命 外四十座(村誌より)

境内社 水神社

鎮座地 群馬県沼田市白沢町高平154

由緒

白佐波神社の創建は、慶安二年(1649)で、当時は武尊神社と称していました。

 

白佐波神社は白沢地域の産土神で、鎮守の杜は「うつぶしの森」といいます。

うつぶしの森は、新田義貞の三男新田義宗が最後をむかえた地と伝えられ、沼田市の史跡に指定されています。

 

白佐波神社の御神体は、市指定重要文化財の新田義宗公木像で、製作年代は不明ながら徳川時代以前のものと思われ、その面影を今に伝える衣冠束帯の彩色座像です。

 

沼田市指定重要文化財(彫刻)「新田義宗公木像」

(写真は「沼田市公式HP」より)

新田義宗公の木像は基本的に見学不可となっています。

 

八幡宮と末社石祠

明治四十年(1907)十二月に政府の神社合祀令を受けて、下古語父諏訪神社を除く五大字の神社十九社、御祭神百三十四座を合併・合祀し、「本社白佐波神社」と改称しました。

下古語父の諏訪神社が抜けたので、白沢神社とせず白佐波神社と称したといいます。

 

昭和二十四年(1949)に、合祀していた五大字(尾合・平出・岩室・生枝・上古語父)の御祭神を分祀して、それぞれ神社を創立させました。

 

「洗心舎(手水舎)」

社の下からきれいな清水がこんこんと湧き出でていて、以前はその下に大きな池があり柳が立っていました。

池のどじょうは「片目」だったといいます。

石燈籠の屋根に狛犬さんがへばりついています。

水神様

弁天様

清水は今も湧き出ていて、境内に水神様・弁天様が祀られ、村の水道ができるまでは此の湧水が学校役場を始め近所の二十世帯もの水を賄っていました。

 

洗心舎の先の鳥居には「武尊宮」と刻まれています。

旧十月一日の朝早く、うつぶしの森へ行って神様を出雲へ送ります。

これを神送りといいます。

旧十月三十日の朝早く、鎮守の森へ行き神様を迎えます。

これを神迎えといいます。

 

石段の上に社殿があります。

神送りと神迎え間、神様は留守になりますが、留守番を恵比寿様がしているので、そのために恵比寿講をするといいます。

神様のいない十月は縁組をしないで、十一月になると縁踏みをします。

(神社明細書及び白沢村誌より)

 

旧白沢村指定史跡「うつぶしの森」

「うつぶしの森」は、新田義貞の三男新田義宗が最後をむかえた地と伝えられ、沼田市の史跡に指定されています。

 

「白沢小学校」の校庭との境目辺りに小さな像が見えます。

新田義宗は、父新田義貞、兄義顕、義興亡きあと、従弟の脇屋義治らと共に、越後・関東の南朝方を指揮していました。

 

正平二十三年(1368)、足利尊氏の嫡男足利義詮、足利基氏が死去したことを機に武蔵で起こった河越直重ら武蔵平一揆に呼応し、再起をかけて脇屋義治とともに越後で挙兵し、この周辺で足利方の大軍を迎撃ちました。

 

この銅像は新田義貞公挙兵のときを表しています。

サイズは小さいですが、生品神社(群馬県太田市)の新田義貞像や、太田歴史公園の新田義貞公の銅像とスタイルがよく似ています。

新田義宗が鎌倉方足利の大軍を迎え撃ったとき、

しんがりをつとめていた義宗の右目を敵の流れ矢がつらぬき、

義宗はうつ伏せに落馬し、壮絶な最期を遂げたといいます。

 

それ以来この森は「うつぶしの森」と呼ばれる様になったといいます。

 

沼田市指定重要文化財「新田義宗の墓(五輪塔)」

(写真はサイト「WEB GUNMA」より)

白佐波神社から北方の「雲谷寺」にある「五輪塔」が、新田義宗の墓とされています。

 

※写真は平成三十年(2018)九月二十七日に撮影したものです。

 

関連する神社

 

 

 

生品神社(いくしなじんじゃ)

☆☆☆

御祭神 大穴牟遅神 品陀和気命 建御名方神 他二十二柱

鎮座地 群馬県太田市新田市野井町645

由緒

平安時代の上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」として記載される古社です。

天喜年中(1053~1058)、源義家が奥羽征討の際、戦勝祈願をしたと伝えられています。

 

元弘三年(1333)五月、新田義貞が鎌倉に攻にあたり、当社前に義旗を挙げたことは太平記に記され知られています。

 

古くは生階と称し、新田郡内には当社を本宮とした同名の神社が多く、古来産土神として崇敬が篤い社です。

 

昭和九年(1934)三月新田義貞挙兵地として史跡に指定されました。

明治以後県社に列しました。

(全国神社名鑑)

 

国指定史跡「新田荘遺跡(生品神社境内)」

「二の鳥居」とその後ろに「三の鳥居」。

その先の境内の突き当りに社殿が見えます。

生品神社は、元弘三年(1333)五月八日、新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすための兵を挙げたところです。

 

「太平記」には「五月八日ノ卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、」(巻第十)と記載されています。

 

神社に参集した軍勢は百五十騎に過ぎませんでしたが、兵を進めるに従い数を増やしていきました。

旗挙げを行った時はわずか百五十騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。

 

生品神社境内は、昭和九年(1934)に「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として国史跡に指定され、平成十二年(2000)に「新田荘遺跡生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。

 

二の鳥居の南側に「新田義貞公銅像」と、神社入口の「一の鳥居」があります。

一の鳥居を潜って左手に「社務所」

 

社殿前に「神代木」

境内には義貞が旗を挙げたと伝えられる「旗挙塚」や、陣を構えたと伝えられる「床几塚」があり、神社拝殿の前には義貞が軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの古木が保存されています。

 

義貞が旗挙げの際に鎌倉に向かって矢を放ったという故事にならい毎年五月八日に「鏑矢祭」が行われています。

(太田市公式HPより)

 

太田市指定重要文化財「生品神社の古木」

生品神社社殿の南に祀られているクヌギの古木です。

 

神社所蔵の元禄十二年(1699)の古文書には、「神代木と記される大樹に新田義貞が元弘三年五月八日当社前にて挙兵の際、大中黒の新田旗をこのクヌギに掲げ、戦勝を祈願した」と記載されていることから、義貞が旗を掲げた木と伝えられています。

 

木はかつて幹の太さが6mを越し、高さは30m以上に達しましたが、明治三十七年(1904)六月九日の白昼、静かでおだやかな時に大音響とともに倒れてしまったといい、この幹の一部だけが本殿の前に遺されています。

 

倒れてから百年近く経ち表面が風化により朽ちてきたため、平成十一年(1999)に表面に樹脂加工による保存処理を行い、同時に覆屋も新築して、後世に伝え残せるようにしてあります。

(太田市公式HPより)

 

太田市指定重要文化財「生品神社の刀剣」

(写真は太田市公式HPより)

生品神社に奉納された二振の刀剣です。

一振は刀で、長さ79.4cm、反りは3.1cmあります。

茎には「兼善」という銘があります。

もう一振は太刀で、長さ84.5cm、反りは3cmあります。

銘はありません。

神社に奉納された時期や経緯は分からないのですが、いずれの刀剣も室町時代の製作と考えられています。

また、指定した以外に江戸時代と推定される刀が一振奉納されています。

(太田市公式HPより)

 

新田義貞公銅像(新)

義貞公銅像は昭和五十八年(1983)、挙兵六百五十年を記念して生品神社境内に安置されました。

しかし平成二十二年(2010)二月に銅像が足元から折られるようにして盗難にあうという事件が起きました。

旧銅像は写真左手の三角形の「挙兵六百五十年記念碑」の左側にありました。

 

この銅像は昭和十六年(1941)に義貞公を慕う地元小学校の教師と生徒が勤労活動によって集めたお金を元として建立され、それを境内に移し安置したもので、思いのこもった大切な銅像であったそうです。

 

銅像の行方は分からなかったのですが、再建を求める声は高まり、平成二十三年(2011)に「新田義貞公銅像再建委員会」が発足しました。

新しい銅像は彫刻家の脇谷幸正(義貞の弟の脇谷義助の子孫)が制作を任され、平成二十四年(2012)五月八日に除幕式が盛大に行われました。

(Wik参照)

 

「新田義貞公挙兵六百五十年記念」碑

「挙兵六百五十年記念碑」の横の「神橋」を渡って通りを越すと「二の鳥居」があります。

「二の鳥居」

「太平記」において、前半の主人公の一人である義貞は、この地での旗揚げ後、見事に鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となりました。

 

二の鳥居を潜って左手に「手水舎」

「三の鳥居」手前右手にも挙兵記念碑が複数あります。

「三の鳥居」

三の鳥居を潜って左手に「神楽殿」

境内に並ぶ末社群

社殿左後方に「冨士嶽浅間大神」

 

拝殿前の様子

 

拝殿前から境内地を見渡すと、集まった最初の百五十騎が勇んで並ぶ様子が見えるようです。

義貞はその後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、尊氏に対抗して転戦しましたが、最期は越前藤島(福井県福井市藤島町)で戦死しました。

 

拝殿に接続された本殿

藤島の戦いは、南北朝時代の延元三年・暦応元年閏七月二日(1338年8月17日)、現在の福井県福井市藤島町付近にあたる越前国藤島において、越前平定と上洛を目指していた新田義貞率いる南朝方の軍勢(新田勢)と、足利高経(斯波高経)ら北朝方の軍勢(足利勢)のとの間で行われた合戦です。

 

清々とした雰囲気の境内鎮守杜

 

福井県福井市藤島町の越前国藤島の地には現在、義貞を祀る藤島神社があります。

 

※写真は平成三十年(2018)九月十三日に撮影したものです。

 

関連する神社

 

 

 

水使神社(みずしじんじゃ)

☆☆☆

御祭神 水波能売命(イソ女水使権現)

境内社 機神神社(天羽槌雄神)

鎮座地 栃木県足利市五十部町1235

 

神社入口一の鳥居

由来

永徳年間(1381~1384)、出流原弁財天の申し子イソが成人し、子供が生まれましたが、不幸にして子供は近くの渕で溺れ、泳げないのに助けようとしたイソは渕に飛び込み、親子共に亡くなってしまいました。

 

其の後、この渕で度々異変が起きて困っていると、土地の豪族五十部小太郎の夢枕に、「イソを水使権現として祀れ」とのお告げがあり、社を建て供養しました。

 

水使神社は田の神としても祀られ、又花柳界でも厚く信仰されています。

(境内案内板より)

 

栃木県神社誌の由来

南北朝時代の北朝、観応二年(1351)の創建で、水の神「水波能売命」を祀ります。

 

昔、地元の豪族・五十部小太郎の下女で、影取の淵で入水自殺した五十部小太郎の使用人イソの霊を祀ったと伝わります。

 

みずっさまと呼ばれ、花柳界の女性らから、婦人病に霊験があると信仰を集めました。

 

また、平地より上部の田に水を上げる水あげの神といわれ、維新に際し水使神社と改称しました。

(「栃木県神社誌」参照)

 

由来は他にも、五十部小太郎に仕えていたイソが、水底に沈んでいる小太郎の子を見つけて助けようとして、そのまま溺れて死んでしまい、それ以後この淵のそばを通ると水中に呼び込まれるという怪異が起こった為、神として祀る事でイソの無念を鎮めたという伝説があります。

 

足利の伝説

昔、五十部村に、余戸小太郎という郷士が住んでいました。

四つぐらいのかわいい男の子がいて、いつも召使のイソと遊んでいました。

 

ある日のこと、イソがふと気がつくと、そばにいたはずの子供の姿が見あたりません。

はじめは、どこかに隠れているのだろうと軽く考えていましたが、屋敷中くまなく探しても見つかりません。

 

まるで神かくしにでもあったように。

 

屋敷の外に出て、子供の名を呼びながら、淵のそばまできたイソの目に、水底にゆらゆら揺れる子供の影が見えるではありませんか。

 

半狂乱のようになっていたイソは、自分が泳げないことも忘れ、子供を救おうとして飛びこみましたが、水中深く沈んで、ついにおぼれ死んでしまいました。

 

どうして子供が急にいなくなってしまったのでしょう。

 

実は大きな鷲が飛んできて、アッという間にさらっていき、淵のそばにある大松の枝の上で、無残にも殺してしまったのです。

 

水の底に見えたのは、松の枝で死んでいた子供の影でしたが、それを見わけるだけの余裕がイソにはありませんでした。

 

それからこの淵のそばを通ると、水の中に呼びこまれるなどの異変がおこり、いつしか「影取の淵」といわれるようになりました。

 

そのため村人は、御厨子さまという神社を建て、イソの霊を祀ってから騒ぎもおさまったと言われています。

 

現在は、影取の淵は枯れて埋め立てられているので、跡形もありません。

 

この神社は、近くの田んぼが水あげに困っていたので「田を祭る神」とされましたが、明治維新の際、水使神社と改称しました。

 

水使さまは山の田へ水を上げる神様・水あげということから、花柳界の信仰をあつめ、また、婦人の諸病に効験があるともいわれて、今でもお参りの人が絶えず訪れています。

 

石段の上に二の鳥居が見えます。

一の鳥居を潜り権現橋を渡り、参道石段を登ると二の鳥居に至り、右手に手水舎と社務所があります。

 

社務所

社務所の前に手水舎

更に数段石段を登ると社殿があります。

拝殿前には赤ちゃんが使う「お掛け」がたくさん奉納され、現在でも子宝、子育て、母乳にご利益がある証となっています。

 

拝殿内の様子

拝殿前に立つと拝殿内のライトが点灯して、拝殿内の水使権現の絵(奉納額)が覗き見れるようになっています。

 

社殿の右手には寶物堂があり、金精様が安置されています。

寶物堂内部の様子

 

更にその右手の石段上り口には、見事な垂れのイチョウの御神木があります。

石段を登ると境内社の機神神社があります。

機神神社

水使神社は、子宝や婦人病、夜尿症などにご利益のある神社で、全国からたくさんの女性がお詣りに見えられます。

 

機神神社から見渡す境内

水使神社から、山沿いを直線で約1.4km程北に進むと「ウインザーゴルフ足利」があり、その西側に隣接している森林の中にある「厳島神社」は、イソの出生に関連しています。

 

 

五十部町厳島神社

☆☆☆

御祭神 市杵島姫命

鎮座地 栃木県足利市五十部町1441

 

由緒

南朝の建武元年(1334)創建です。

 

内藤兵馬の妻が出流原の弁財天に子授け祈願したところ、娘を授かったので、当地に勧請したものです。

 

この娘イソは後に入水して、水使神社に祀られています。

(サイト「栃木県の神社 kyonsight」より)

 

ゴルフ練習場「ウインザーゴルフ足利」駐車場西側の林を挟んだ南西側に、神社入口の鳥居があります。

 

鳥居の先は、ご近所の方の畑地の横を通って竹林の中へと繋がっています。

 

竹林の中は竹藪状態ですが、参道は下草が刈られていますので、神社まで竹藪のトンネルを通って行くような感じです。

ジブリ「となりのトトロ」で、メイちゃんを追ってさつきちゃんとお父さんが藪の中に入り、藪のトンネルを通りながら、お父さんが「すごいね、まるで秘密基地だ」と言ったシーンを思い出させます。

 

竹藪の先に社殿が見えてきます。

 

到達した「厳島神社」のすぐ後ろに、ゴルフ練習場の打席の建物があります。

ナイスショットの打席の音が、気持ちを現実世界に引き戻します。

(個人的な感想です)

 

※写真は令和二年(2020)十一月十二日に撮影したものです。

 

 

 

宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)

☆☆☆☆☆

主祭神 豊城入彦命

配祀神 大物主命 事代主命

鎮座地 栃木県宇都宮市馬場通り一丁目1-1

 

境内末社

初辰稲荷神社(豊穣・商業の神) 女体宮(安産の神) 十社(県内延喜式内社の合祀) 東照宮(徳川家康公) 荒神社(疫病鎮め神) 松尾神社(醸造の神) 剣宮(武徳の神) 十二社(肇国の神) 菅原神社(学問の神) 須賀神社(お天王さん) 市神社(市・商業の神) 水神社(水の守神)

 

二荒山神社名称

日光の二荒山神社は「ふたらさん」と称し、宇都宮の二荒山神社は「ふたあらやま」が正式です。

 

神社の起源

二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代に遡ることができる神社です。

 

第十六代仁徳天皇の御代(四世紀末から五世紀前半)に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野國の国造に任ぜられました。

 

この時祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に御祭神として祀ったのが始まりで、その後承和五年(838)に現在の地臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。

 

代々城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」と称し、郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け下野國一之宮といわれていました。

 

宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。

(宇都宮二荒山神社公式HPより)

 

境内地西側の駐車場より境内に向かうと、最初に「宮の細道 おたりや堂 三番」の案内板があります。

その石段の上にあるのが、末社「東照宮」です。

神紋が徳川の紋なので、東照宮と判ります。

東照宮前の狛犬さん

 

その先に、「日露戦没碑」「蒲生君平顕彰碑」があります。

 

その先には「初辰稲荷神社」があります。

正面から

初辰稲荷社殿前の稲荷狐さん

 

初辰稲荷の横には「明神の井」があります。

明神の井の手水龍さん

 

もしかして、裏手から入ってしまったかと思い、正面の大鳥居へ向かいます。

 

石段を途中まで下りて、大鳥居の後方から。

参道石段の中間辺りに境内末社が並んでいます。

 

一番左側に「針霊碑」と「筆塚」

 

梅鉢紋の付いた「菅原神社」(菅原道真公)

 

「十二社」

十二社には「肇国の神」十二柱が祀られています。

 

「剣宮」(武道の神として素戔嗚尊)

 

参道石段を挟んで右側には「松尾神社」(お酒の神様)

 

「荒神社」(疫病鎮めの神として素戔嗚尊)

 

「水神社」(罔象女大神)

 

95段の石段を登りきると、東西に回廊が付いた「神門」があります。

 

神門を潜ると「手水舎」があります。

手水龍さん

 

神門を潜って右手奥に「神楽殿」があります。

宇都宮市指定無形文化財「二荒山神社の神楽」

二荒山神社の神楽の起源は江戸時代の中頃と伝えられ、「宮比流太々神楽」と称しています。

 

境内の右手中間辺りに「神馬像」があります。

神馬像は、文治五年(1189)源頼朝奥州征伐の折に、宇都宮大明神に戦勝を祈願し、凱陣の時に御神徳報賽ために神馬を献納されたという由来に基づいて、昭和五十五年(1980)に奉納されたものです。

 

社殿右手奥には「須賀神社・市神社」があります。

ちょっと不思議顔な「須賀神社・市神社」前の狛犬さん

 

社殿左手奥には「十社」

十社には、「栃木県内式内社の神」十柱が祀られています。

 

社殿左手奥の垣に「女体宮」(安産の神様)があります。

 

参拝者が自然にちょうど良い間隔で訪れる「拝殿」の様子

 

御祭神の「豊城入彦命」は第十代崇神天皇の第一皇子です。

 

豊城入彦命は慈愛深く非常に優れた皇子でしたが、もう一人の皇子、活目尊も優れた人物でしたので、崇神天皇はどちらを皇太子にするか迷いました。

 

そこで、占いで決めようということになり、二人の皇子に斎戒沐浴をさせて、どのような夢を見るか占いました。

 

兄の豊城入彦命は「御諸山(三輪山)に登り、東に向かって槍を八回振った夢を見た」と答えました。

 

弟の活目尊は「御諸山に登って四方に縄をはり、栗を食べにくる雀を追い払った夢を見た」と答えました。

 

これを聞いた崇神天皇は、「弟は四方の領土を見渡し、農業の振興に対する思慮がある」として弟を皇太子に据え、

兄の豊城入彦は東だけを向いていたため、東国を治めるべく派遣されたといいます。

 

そのようなこともあって、豊城入彦命が上毛野朝臣・下毛野朝臣の始祖になったといわれています。

 

 

※写真は平成三十年(2018)八月二十七日に撮影したものです。

 

小荷の参詣した一之宮神社

 

 

 

相生町賀茂神社

☆☆☆

御祭神 別雷神 拷機千千姫命 大山祇命 大日孁命 大雷命 高龗命 猿田彦命 素盞嗚命 火産霊命 大物主命

鎮座地 群馬県桐生市相生町一丁目37

 

境内地西側に神社入口の鳥居があります。

境内地の北東側に、一ブロック挟んだ土手の奥に渡良瀬川が流れています。

 

由緒

相生町賀茂神社の創建は天明年間(1781~1788)如来堂村の名主で、邸宅が賀茂神社の北西約100mのところにあった津久井儀右衛門が、渡良瀬川の洪水の憂いを除くため京都賀茂神社を分霊勧請したと伝承されています。

また広沢村賀茂神社寛政十一年(1799)社例書上によると、賀茂神社分霊社近村七社の中に当賀茂神社が記録されています。

 

鳥居を潜ってすぐ左手に「水神宮」と「大黒天」の石碑

小さいけれど「御神橋」があります。

御神橋を渡ってすぐ左に「水盤」が置かれています。

神社庁の神社明細書には、宝暦元年(1751)に式内社賀茂社より分祀とあるので、さらに創建は遡ります。

 

参道の中間右手に「手水舎」があります。

手水舎と正対するように、境内地側面から入る鳥居があります。

当賀茂神社は明治から大正初期にかけて、特に家内安全ならびに養蚕の神として崇敬されました。

 

「社殿」

新社殿は昭和四十三年(1968)に、旧社殿の損傷が著しいために改築されたものです。

(境内由緒書より)

 

誰もが新社殿に何か違和感を感じるのは、コンクリート製の建物に瓦屋根、白と朱の塗装が鮮やかすぎるためではないかと思います。

私の田舎には「異人館」というレンガ造りの建物があり、レンガにはレンガの時代歴史背景を感じますが、コンクリートだと、「かむやしろ」という古ぼけた木造建築の表す歴史観を表現できないのだろうと思います。

(個人的な感想です)

 

境内の様子

社殿右側の建物には「世良田八坂神社」の黒塗りの御神輿が安置されています。

 

八坂神社の御神輿がこの地にある由来には、「如来堂村」の誇らしい伝承があります。

 

「怪力で得た神輿」(八坂神社の神輿の由来)

世良田(新田郡)の八坂神社の祭典の日は、世に知られた世良田八坂神社の祭典だけに、人出が殊の外多く、参道はたくさんの参詣人で朝早くから大混雑をしていました。

社の前には、八坂神社ご自慢の大神輿がすでに飾られていて、夏の強い日差しに光り輝いていました。

 

大勢の参詣人の中には、お祭りは二の次で、大神輿をひと目見ようとわざわざ世良田までやって来た、という人もたくさんいました。

当時、大神輿はそれほどに立派で、大きなものでもあり、また有名なものだったのです。

 

御神輿の前では、人々がしばし足を止めて語り合い、見とれてしまうほどでした。

「聞いたところでは、二百五十貫(およそ940kg)はあると言う話ですよ」

「あんな神輿が私らの村にもあれば、村のお祭りもさぞかし盛り上がることでしょうに」

 

そんなとき、正装の神主さんが姿を見せました。

そして厳かな口調でこう言いました。

 

「ご参詣の方々。皆さんは、当社の神輿のあまりの大きさに、驚かれておられるご様子ですが…。

力自慢の村の衆を募って、この神輿を担いでご覧になられてはいかがでしょう。

力自慢の村の衆四人だけで担いで、そこの御神木を回り、そちらの鳥居を潜り抜けて戻られたなら、その方々の村に、この神輿を無条件で進呈しましょう。」

 

神主さんのこの言葉に、参詣の人々は一瞬どよめきました。

そして、「これは凄い。ぜひ、儂らの村へ」と、村々の力自慢同士が四人ずつ組んでは、次々に神輿かつぎに挑戦をし始めました。

 

神輿は見た目以上に体に食い込んでくるような重さがあり、テコでも動かんぞといった重量感がありました。

 

挑戦する村々の四人組は、大神輿を肩の上に乗せるどころか、腰の位置までさえ持ち上げることもできませんでした。

 

社殿後方の境内社群

この日、如来堂村(現在の相生町一丁目)からも、大勢の村の衆が、参詣がてら神輿見物に来ていました。

そして、社前に一塊になって、先程からこの様子を眺めていました。

 

初めのうちは、挑戦する他の村の四人組を励ましたり、ひやかしていましたが、次々に失敗する光景を目のあたりにしているうちに、誰言うともなく、「俺らも一丁やってみようじゃないか」と、お互いに挑戦する気構えを盛り上がらせ、そして「あの大神輿を持ち帰って、村の衆をびっくりさせてやろうじゃないか」という事になりました。

 

すぐさまその場にいた村の衆の中から、剛力の四人の若者が選び出されました。

そして、他の村の衆に元気付けられ励まされて、大神輿に近寄って行きました。

 

四人は、捻り鉢巻きをして手にツバすると、腰をグッと落とすやいなや、渾身の力を込めて、グイッと大神輿を担ぎ上げました。

とたんに観衆の間からドッと感嘆の声が挙がりました。

 

初めて神輿が四人の肩の上に乗ったからでした。

 

四人は心を一つにして、慎重に一歩また一歩と歩き始めました。

その慎重な歩みは、ついに御神木をひと回りし、鳥居をも潜って、神輿を元の場所に戻してしまったのです。

観衆からは、前にも増して大きな歓声と、どよめきと拍手が沸き上がりました。

 

世良田八坂神社での力くらべで、如来堂村の若者が獲得してきた大神輿…。

 

現在は相生町一丁目賀茂神社の境内「八坂神社」にしっかりと安置されています。

そして、年に一度の夏祭りに出座しては、その雄姿と昔からの伝えとを町の人々に披露してくれています。

 

この神輿獲得の力くらべは、江戸末期の安政の頃(1854~1859)と伝えられ、社殿内には、当時の由来を記した扁額が、今も誇らしげに掲げられています。

(桐生の民話サイトより)

 

拝殿内を覗くと、御祭神を丁寧にお祀りしていることが解ります。

 

※写真は平成三十年(2018)十月十一日に撮影したものです。

 

 

 

八柱神社(前橋市滝窪町)

☆☆☆

群馬縣管下上野國南勢多郡瀧久保村字宮久保 村社 八柱神社

 

御祭神

多紀理毘賣命 狭依毘賣命 多岐都毘賣命 天之忍穂耳之命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 天之穂日命

 

境内末社

冨士神社 稲荷神社 神明宮 秋葉神社 社日神社 八坂神社 大山祇神社 八幡宮 赤城神社 琴平宮 愛宕神社 絹笠神社 木花咲耶姫神社 疱瘡神社

 

鎮座地 群馬県前橋市滝窪町

(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 

八柱神社は、県道101号四ツ塚原之郷前橋線沿いにある滝窪公民館(前橋市滝窪町265)から北に少し入った、なだらかな傾斜の水田地帯の脇にあります。

 

擁壁の上に鳥居が見えます。

八柱神社では、天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神を御祭神としています。

 

社殿の左手に見える広い敷地はゲートボールコートになっていて、地域の方の交流の場となっています。

 

拝殿と、拝殿後方に接続された本殿

本殿の頭貫には龍の彫刻が施されています。

社殿と並んで右側に境内社の鳥居があり、開姫様が祀られています。

 

開姫神社鳥居

開姫神社「開姫様」

明治七年(1874)村の若い衆が赤城山の大洞へ行くとき、荒山から登りました。

 

荒山のタナウエというところに珍しい形の石があったので、若い衆は「下に転がり落として欠けていなかったら、帰りに村へもって行こう」と相談しました。

 

転がり落とした石は帰りに見てみると、あまり傷がついていなかったので、村の若い衆が大勢集まって、村へ持って帰って神様にしました。

 

始めは寺沢川の畔の高橋に祀りましたが、後に現在地に祀っています。

 

いろいろ御利益があったので、村の人たちがお祀りを続けてきました。

 

ところが戦時中になると、淫祠邪教撲滅の運動のために、警察官立合いの下で穴を掘って埋めてしまいました。

 

すると、関わった人が馬に蹴られ、入院後に亡くなり、石は、いつ誰が出したということなく、外に出ていたと言います。

 

村の人はお宮を造ってお参りするようになりました。

 

開姫様のお宮

女の人の下の病にご利益があるといい、病気が治れば五色の旗を掲げますといってお願生をかけました。

 

そして、治ると旗を掲げました。

かなり遠くからお参りに来る人もいました。

 

開姫様のことは、田植唄にも唄われています。

 

「荒山の ただ石こそは イヤハーノ 里に出て 里に出て 開姫様に 祀られる」

(「大胡町誌」より抜粋)

 

境内の末社石祠

 

「ヤーハノ型田植唄」

元々明るく乾燥していて雨天や曇天の少ない上州(群馬県)の気候風土と、陽気で淡白で古い伝統に固執せず、新しい流行を取り入れることに積極的な県民性からか、群馬県は民謡の遺っている数が他県に比べて極めて少ないと言われています。

 

神社入口の鳥居横にある庚申塔

 

そんな群馬県でも探してみれば、前橋市区域を中心として赤城南麓一帯に「ヤーハノ型田植唄」と言われる労作唄が見つかります。

 

ヤーハノ型田植唄は、歌詞の節と節との繋ぎ目に「ヤーハノ」または「イヤーノ」という囃子詞が入る唄で、元来は古代の神楽歌のように、歌の上句を「五・七・五」と歌い、一節戻って「五」を反復してから下句「七・七」と歌う詞型が、謡い易いように「五・七・五 五・七・五」型に変化していったと考えられています。

 

例えば「朝の唄」

「朝露に 髪 (ホーイ) 結い上げて

(ハーマダマダー)

ヤーハノ 花摘めば

花摘めば 小褄が濡れて

(ハーマダマダー)

ヤーハノ 花摘めぬ」

(前橋市公田町)

 

この唄は、元々は「朝露に 髪結い上げて 花摘めば 男が招く 花はたまらぬ」と歌っていたものが、歌い易いように「小褄が濡れて 花摘めぬ」に変化したものです。

 

境内の「猿田彦命」と「道祖神」

この「朝の唄」のように、昼の唄、夕方の唄もあり、「昼の唄」が出ると仕事を止めて昼食にしたと言われています。

(論文「上州民謡の特質」参照)

 

体に辛い農作業を、一族で田植唄を歌いながら行っていた時代、

男女の出会いが、薄暗い提灯下で行われる収穫祭や盆踊り、人の集まる神社の御神事(神楽など)の時だった頃、

 

男性は、女性の盆踊りでの、田植えなどの農作業の所作を美しく踊る姿に惹かれ、

 

女性は、男性の献身的に神事に携わる誠実さや、力石を持ち上げる力強さに惹かれていたのだろうと思います。

 

「十二山神」と末社石祠

その頃、狭いコミュニティーから出られない時代の女性たちは、婦人病に罹ると、もはや男性たちの交配相手の候補には上がることができず、

結婚して子どもを授かる機会は失われていたのではないかと思います。

 

そんな時代に、開姫様にお参りして病が治り、旗を掲げて、子孫繁栄のチャンスをまた掴むことが出来たとすれば‥

 

大切に祀られている「開姫様」

「荒山の ただ石こそは」と田植唄で唄われる「開姫様」は、確かに神様なのだと言えるのではないかと思います。

(個人的な想像です)

 

「荒山の ただ石こそは イヤハーノ 里に出て 里に出て 開姫様に 祀られる」

 

※写真は平成三十年(2018)一月十六日に撮影したものです。