安土宗論・・・
安土問答とも。
天正7年(1579年)5月、織田信長が安土城下の浄土宗浄厳院で行なわせた、浄土宗と法華宗(日蓮宗)の論争。
浄土宗の勝となり、法華宗側は侘証文を書かされるなど厳しく処罰された。
法華宗や学会などでは、法華宗の勢力増大を嫌った信長のの意図的な弾圧によるものとしている。
(石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』より)
4月18日(土)~21日(月)、滋賀県に旅行に行ってきました。
初日は、午後より安土を観光・・・
レンタサイクルで安土城跡を訪問しましたが、まだ少々時間がありましたので安土観光を継続です。
まずは安土セミナリヨ跡へ・・・
安土セミナリヨは、安土城下にあった日本最初のキリスト教神学校です。
現在は公園となっていますが、純和風の3階建ての豪壮な建物が建っていたようです。
レンタサイクルを返却後、安土駅から徒歩10分程度のところにあるお寺へ向かいましたが・・・
その途中に、ちはし地蔵との小さなお地蔵さまがありました。
気になって撮影しましたが、後で調べても詳しい情報は分かりませんでしたが・・・
地元のレポートでは隠れキリシタンのマリア像伝承があるようです。
そして目的のお寺・・・浄厳院に着きました。
近江守護 六角(佐々木)氏頼が母の菩提を弔うために建てた天台宗の慈恩寺威徳院を前身とするそうです。
慈恩寺は兵火で焼失したそうですが、織田信長が近江国栗太郡金勝山の浄土宗の僧 浄厳坊明感を安土に招き、慈恩寺の旧地に浄土宗寺院 浄厳院を建立したそうです。
楼門や本堂は国の重要文化財にしていされているそうです。
なお、ここのお寺は信長 斡旋のもとで浄土宗の僧らと法華宗(日蓮宗)の僧らの間で宗教論争が行われた場所・・・安土宗論の場としても有名です。
安土宗論ですが・・・
『信長公記』の内容では・・・
浄土宗の長老霊誉玉念が城下で説法をしていたところ、法華宗の信者 大脇伝介と建部紹智が問答をしかけたので、玉念は法華宗の僧を連れて来れば返答すると回答し、法華宗の方へ使者を出し・・・
法華宗の方でも、それなら宗論をやろうということになり、京都から
日珖、日諦、日淵、大蔵坊、普伝という歴々の僧たちが安土へ・・・
このことについて信長も耳にし、大げさな騒動にならないように収めるように勧告するも、法華宗が承知せずに宗論することに・・・
信長は、審判者を派遣するので経過を書類で提出せよと申しつけ・・・
安土の町外れにある浄土宗の浄厳院の仏殿において宗論を行うことになったようです。
『信長公記』に、問答の内容が掲載されていますが・・・
浄土宗、法華宗 それぞれ応酬してますが、最終的に法華宗側が浄土宗側の問いに答えられず・・・
法華宗側は満座の中で笑わられ、聴衆に袈裟を剝ぎ取られ、打擲され、逃げてしまったそうです。
その後、逃げた法華宗側は織田信澄らの奉行に捕らえられ、今後は他宗誹謗しない旨の侘証文を書かされる羽目になり、その侘証文に宗論に負けた旨も書かれたそうです。
安土宗論では、法華宗が負けたと判定されたわけですが・・・
浄土宗側が卑怯な手を使った、審判が公平ではなかった・・・と法華宗側は主張しているそうです。
信長はこの宗論に介入し、これを利用して法華宗を意図的に弾圧したと言っているようです。
当時、安土では折伏(他宗批判の説法)を通じて法華宗が猛烈に伸長しており、統治に腐心した京都や堺でも町衆社会に法華宗が大きな勢力をもっていたそうで、学会などでも信長の意図的弾圧と考えている学者が多いようです。
問答内容は仏教に関する内容なので、私には完全に理解することができませんでしたが・・・
これらの法華宗側の主張は、『信長公記』には掲載されていませんので、宗論の最中のリアルタイムの主張ではないように思われます。
法華宗側の記録として『安土宗論実録』というものがあるようで、日付を見るとリアルタイムに近い月となっており、そこには審判が公平ではなかったように描かれているそうですが・・・
本気で意図的に弾圧するようであれば、そういった記録も没収・破棄してしまうと思うんですよね・・・
そうすると、この実録はリアルタイムではないように思われ・・・負けた側の悔し紛れの創作の可能性もあるかと思います。
なお、『信長公記』には、侘証文を書かせた理由として・・・
法華宗徒は口が達者だから 後日に宗論に負けたとは言わないであろう、だから侘証文を提出せよと命じたようです。
まさに、その通りのような感じで、負けを認めないために『安土宗論実録』を書いたのではないでしょうか。
ちなみに、信長は京都に宿泊する際、妙覚寺や本能寺といったお寺を使用してましたが、これらは法華宗寺院であり、そこまで法華宗を敵視したわけでもないようです。
横道にそれましたが・・・
滋賀の旅の初日の安土巡りは、ここで終えました。







