【せ】清少納言(せいしょうなごん) | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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清少納言・・・

966頃~1025頃、平安中期の女流文学者、歌人、女房。

随筆『枕草子』が有名。

正確な生没年や本名は不明、下級貴族 清原元輔の娘である。

「清少納言」は宮中での女房名であり、「清」は清原姓に由来するとされ、「少納言」は官職の少納言に由来するものと見られるが、清原氏の近い親族で少納言職を務めたものはおらず、実際の「少納言」の由来は不明。

 

 

 

 

 

 

前回は、まひろさん(紫式部)の その後のトンデモ話でしたが・・・

今回は、ききょうさん(清少納言)の その後のトンデモ話です。

 

 

徳島県鳴門市に「あま塚」というものがあり、清少納言の墓であるとの伝説があるそうです。

 

清少納言は何らかの罪を犯して、流罪となってしまったようです。

その流罪となった清少納言は地元の漁師に辱めを受け、それを苦に海へ身を投げたと伝わっているそうです。

別な伝説では、辱めを受けた清少納言は自らの陰部を刃物で抉り、それを海に投げ捨てて死んだとも言われているそうです。

 

その後、清少納言の亡霊がこの地をさまよい、疫病を流行らせたため、それを鎮めるために「あま塚」が造られたとされているようです。

 

 

 

 

中宮定子に仕えた清少納言ですが・・・

定子の死後、清少納言は宮仕えを辞めてしまい、その後の消息が明らかでないため、いろいろな伝説が作られてしまったようです。

 

 

 

 

なお、「あま塚」には・・・

『日本書紀』に出てくる阿波出身の海人・男狭磯の墓という説や・・・

承久の乱のため自ら四国へ配流となった土御門上皇の火葬塚という説があるそうです。