【ふ】藤原朝成(ふじわら の あさひら) | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

藤原朝成・・・

917年~974年、平安時代の公卿。

藤原北家勧修寺流、右大臣 定方(さだかた)の六男。

官位は従三位・中納言。

笙の名手であった。

 

 

 

 

少し前に、藤原北家嫡流の伊尹(これまさ/これただ)と蔵人頭への任官を巡った争いがあり、その争いに敗れた朝成は仕返しをされて、それを恨んで亡くなったというエピソードを紹介しました。

 

そのエピソードは、『大鏡』という書物に書かれていたことでしたが・・・

史実では、天暦9年(955年)8月に朝成・伊尹とも同時に蔵人頭に任ぜられているそうです。

 

 

でも、『古事談』という書物にも似たようなエピソードがあるそうで・・・

 

朝成と伊尹が参議 任官を巡り出世争いをしていた時に、朝成は伊尹が参議に値しない理由をいくつも述べて、伊尹の出世を妨害していたそうです。

 

のちに伊尹は出世して摂政になってしまい、大納言の欠員が生じた際に、朝成は自分を推薦する理由を伊尹に説明しなければならなくなり、伊尹邸に訪れるのですが・・・

かつての仕返しのためか数時間待たされた上で面会となり、伊尹は朝成の話には答えず・・・

「かつて私のことをあれこれ言い立てられていたようだが、このたびの大納言への任官は私の心持ち次第なのだ」と言われてしまったようです。

 

恥をかかされたと朝成は怒り、退出して牛車に乗る際に中心が避けた笏を投げつけたそうで・・・

その後に伊尹は病に倒れ、亡くなってしまい、人々は朝成の生霊のせいだと噂されるようになったそうです。

 

 

こちらのエピソードも怪しいですが・・・

嫡流の伊尹に対して、何らかの恨みを持っていたのかもしれません。

 

 

 

なお、朝成・・・

大食いの肥満体であることや、検非違使別当を務めていた時代に強盗100人の首を斬ったとのエピソードがあるそうで・・・

イメージ的には、武闘派のデブ・・・こんな感じでしょうか・・・。

 

 

 

 

この朝成自身は『光る君へ』に出てませんが・・・

 

朝成の兄弟に、朝頼(あさより)という人物がいて・・・

朝頼の孫に宣孝がいます。

 

朝成の祖父は高藤(たかふじ)で、この高藤の兄が利基(としもと)・・・

そして、利基の曾孫に為時がいます。

 

紫式部は利基の玄孫です。