赤門・・・
朱塗りの門。
江戸時代では、将軍家から奥方を迎えた大名が建てた御守殿門のことを丹塗りにしたところから俗に「赤門」と呼んだ。
(東京大学の赤門)
前回の記事で、ちょっと話題にした徳川家斉についてです。
徳川家斉・・・
江戸幕府11代将軍。
将軍になった当初は田沼意次を排して松平定信を起用し、寛政の改革を行なったが、定信失脚後は家斉の親政となり、幕政はゆるむ。
将軍職を次男の家慶に譲っても実権は握り、大御所政治を実施したが幕政のゆるみは甚だしかった。
家斉の側妾は40人といわれ、このうち家斉の子を生んだのは16人、御台所と合わせ17人の腹から55人の子が生まれた。
こう見ますと・・・
好き勝手な人で・・・荒淫って感じがしますよね。
子供たちは、他の大名家へ養子に出したり、嫁に出したりしたようです。
この家斉の二十一女が溶姫と言い、加賀藩前田家の12代藩主・前田斉泰に嫁いでます。
その溶姫を迎えるために造った御守殿門(赤門)・・・
それを明治期に東京大学に移管されたのが、東京大学の赤門のようです。
あの東大のシンボルとも言える赤門は・・・
ヤリチン将軍が、加賀藩に押し付けた(?)娘のための門・・・
そんなもののようです。
高校の時の日本史の先生が、上記のような理由で「(東大の)赤門なんて憧れるものではない」ってよく言ってたのを思い出します。