【く】百済王氏(くだらのこにきしうじ、くだらのこにきしし) :北河内の旅⑦ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

百済王氏・・・

百済からの渡来系氏族。

百済最後の王である義慈王の子であり、日本へ人質として出された善光を始祖とする。

持統天皇7年(693年)、百済王のの氏姓を賜与された。

百済王氏の本拠地は当初は難波にあったが、その後 北河内交野郡中宮郷(現・枚方市中宮)に本拠を移す。

 

 

 

 

 

 

 

7月22日(土)~24日(月)に北河内と呼ばれるエリアを旅してきました。

北河内は、現在の大坂府北東部・・・淀川左岸にあたるエリアです。

 

 

二日目の23日・・・

枚方市内広範囲に回り、スポーツクラブへ行くため一旦 寝屋川へ・・・

その後、再び枚方観光に戻りました。

(寝屋川市内の観光先へのアクセスがよく分からなったので・・・)

 

 

京阪交野線の宮之阪駅から歩いて10分程度のところ・・・

百済王神社」と「史蹟 百済寺址」との碑・・・

百済王氏縁のスポットです。

 

 

冒頭にも書きましたが、百済王氏についてです。

百済最後の王である義慈王は子である豊璋・善光 兄弟を人質として日本の宮家へ出します。

義慈王の代で百済の滅亡しますが、復興を目指す百済遺臣・遺民より豊璋擁立の要望があり、中大兄皇子はこれを承諾して豊璋を帰国させ・・・これが白村江の戦いと繫がり、敗戦のため百済復興はなりませんでした。

善光は帰国せず日本に留まり、持統朝になると百済王の氏を与えられ、百済王氏は日本の廷臣となっていきます。

 

百済王善光の曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、その地の黄金を朝廷に献じ、その功によって河内守となり、河内に本拠を移します。

百済王氏が氏寺として建てたのが百済寺で、百済王の祀廟して建てたのが百済王神社の始まりのようです。

正確な創建の時代は分からないようですが、百済寺の創建者として敬福が有力視されているようです。

 

 

 

説明は、さて置きまして・・・

まずは百済王神社へ。

上の画像は現在の拝殿ですが、下の画像は旧拝殿で現拝殿の脇にあります。

静かな感じの神社でした。

境内の建物から神社の関係者と思われる女性が出てきて、一礼を頂きましたが、吉田羊さん似の綺麗な方でした。

 

 

 

その後、旧拝殿の裏へ・・・百済寺跡です。

国分寺などに比べると小さいですが、それなりに広い敷地にあったようです。

 

西塔跡ですが、礎石なども見られました。

 

東塔跡は基壇を再現してました。

 

跡地には、塔の描かれた透明なプラスチック板がありまして・・・

上手く撮れば、東西の塔の基壇の上に塔が出現!・・・となるはずですが、イマイチ・・・。

 

寺域は結構広く、いろいろあったようです。