【ほ】北条義時(ほうじょうよしとき) ;鎌倉日帰り旅行⑧ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

北条義時(1163~1224)・・・

鎌倉幕府第2代執権。

江間小四郎と称す。

源頼朝挙兵のときから父・時政と共に各地で戦功を挙げ、頼朝の信任を得る。

時政失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。

承久の乱で朝廷方を制圧し、幕府権力を確立。

「鎌倉殿の13人」の主人公。

 

 

 

 

11月末の平日鎌倉日帰り旅・・・まだまだ続きます。

 

 

前回の記事・・・

 

法華堂跡を紹介しました。

 

源頼朝のお墓であった法華堂のことでしたが・・・

 

国の史跡として指定されている法華堂・・・

見ての通り、法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)として指定されています。

 

今回は、北条義時のお墓の方を紹介します。

地図を見ていただきますと・・・近いのですが、ちょっと離れた場所にあります。

 

 

 

頼朝のお墓の参道(石段)の東側に別な石段があります。

 

ここからも法華堂の遺構が見つかっており、こちらは北条義時の葬られた法華堂跡と考えられているそうです。

 

法華堂の遺構はもっと地下にあるようですが、その規模などが分かるように杭が打たれています。

ちなみに関連アプリを使用すると、バーチャルの法華堂が見れるようです。

 

 

 

ちなみに法華堂跡の奥に・・・

二列の石段、その手前に説明看板と洞ぽいものが・・・

 

 

まず、看板を見ますと、三浦一族が供養されている やぐら とのこと。

 

洞と思われたものは、やぐら(鎌倉特有の横穴墓)です。

宝治合戦で北条時頼に攻められた三浦泰村(義村の次男)と一族は頼朝の法華堂に立て籠り、自害して果てたそうです。

それを弔ったやぐらになります。

 

 

石段の方ですが、並行して2列になってます。

途中の中間地点で、移れる場所がありますが、基本的に並行して走っています。

 

上がりますと、石柵に囲まれたエリアが出現。

 

 

右側は島津忠久のお墓に行きつきます。

島津忠久は島津家の祖で、頼朝の落胤との伝承のある人物です。

安永8年(1779年)に薩摩藩主・島津重豪が頼朝の墓の整備と同時に、忠久の墓を造営したそうで・・・

もとからあったお墓ではありません。

 

 

もう一方の左の石段を上がると、こちらもお墓になています。

左が毛利家の祖・毛利季光のお墓、右が季光の父・大江広元のお墓です。

こちらも文政6年(1823年)には萩藩主・毛利斉煕が造営したもので、もともとのお墓ではありません。

 

ちなみに、大江広元のお墓には、多くのお花やお供え物が置いてあり、「鎌倉殿の13人」の人気を実感した次第です。

 

 

 

まぁ、最後はお墓巡りになっちゃいましたが・・・

今回の鎌倉史跡巡りは、これで終了です。