北条義時(1163~1224)・・・
鎌倉幕府第2代執権。
江間小四郎と称す。
源頼朝挙兵のときから父・時政と共に各地で戦功を挙げ、頼朝の信任を得る。
時政失脚後、執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。
承久の乱で朝廷方を制圧し、幕府権力を確立。
「鎌倉殿の13人」の主人公。
11月末の平日鎌倉日帰り旅・・・まだまだ続きます。
前回の記事・・・
法華堂跡を紹介しました。
源頼朝のお墓であった法華堂のことでしたが・・・
国の史跡として指定されている法華堂・・・
見ての通り、法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)として指定されています。
今回は、北条義時のお墓の方を紹介します。
地図を見ていただきますと・・・近いのですが、ちょっと離れた場所にあります。
頼朝のお墓の参道(石段)の東側に別な石段があります。
ここからも法華堂の遺構が見つかっており、こちらは北条義時の葬られた法華堂跡と考えられているそうです。
法華堂の遺構はもっと地下にあるようですが、その規模などが分かるように杭が打たれています。
ちなみに関連アプリを使用すると、バーチャルの法華堂が見れるようです。
ちなみに法華堂跡の奥に・・・
二列の石段、その手前に説明看板と洞ぽいものが・・・
まず、看板を見ますと、三浦一族が供養されている やぐら とのこと。
洞と思われたものは、やぐら(鎌倉特有の横穴墓)です。
宝治合戦で北条時頼に攻められた三浦泰村(義村の次男)と一族は頼朝の法華堂に立て籠り、自害して果てたそうです。
それを弔ったやぐらになります。
石段の方ですが、並行して2列になってます。
途中の中間地点で、移れる場所がありますが、基本的に並行して走っています。
上がりますと、石柵に囲まれたエリアが出現。
右側は島津忠久のお墓に行きつきます。
島津忠久は島津家の祖で、頼朝の落胤との伝承のある人物です。
安永8年(1779年)に薩摩藩主・島津重豪が頼朝の墓の整備と同時に、忠久の墓を造営したそうで・・・
もとからあったお墓ではありません。
もう一方の左の石段を上がると、こちらもお墓になています。
左が毛利家の祖・毛利季光のお墓、右が季光の父・大江広元のお墓です。
こちらも文政6年(1823年)には萩藩主・毛利斉煕が造営したもので、もともとのお墓ではありません。
ちなみに、大江広元のお墓には、多くのお花やお供え物が置いてあり、「鎌倉殿の13人」の人気を実感した次第です。
まぁ、最後はお墓巡りになっちゃいましたが・・・
今回の鎌倉史跡巡りは、これで終了です。