寛永寺・・・
東京都台東区上野にある天台宗の寺。
東叡山寛永寺円頓院と号す。
寛永2年(1625年)に、江戸城の鬼門(北東)にあたる上野の台地に、天海(慈眼大師)を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院。
徳川将軍家の祈祷所・菩提寺。
最盛期の寛永寺は寺域は上野公園の2倍の面積の寺地を有しており、上野公園自体もほぼ旧境内であった。
「東叡山」は「東の比叡山」の意・・・
比叡山が京都の鬼門にあるのに対して、江戸城の鬼門に位置し・・・
比叡山延暦寺が創建時の年号「延暦」を取ったの同様に、寛永寺も創建時の年号「寛永」が使用されている。
先週の日曜日に東京国立博物館にて、特別展「最澄と天台宗のすべて」を見てきましたが・・・
そこから足を延ばして、寛永寺の根本中堂へ行ってみました。
実は、「最澄と天台宗のすべて」では寛永寺の秘仏・薬師如来および両脇侍(日光菩薩、月光菩薩)立像が展示されてましたので、思い立って行って見た次第です。
こちらが根本中堂です。
根本中堂は元禄11年(1698年)に建立されましたが、戊辰戦争時の上野戦争で消失。
現在のものは明治12年(1879年)に川越の喜多院の本地堂を旧寛永寺の子院・大慈院跡に移築し、本堂として発足したものです。
なお、先ほど述べた秘仏は、通常はここに安置されています。
なお、境内には尾形乾山(光琳の実弟)の墓や・・・
上野戦争の碑・・・
了翁禅師(黄檗宗の僧で、寛永寺境内に勧学寮を建造)坐像とその碑・・・
蟲塚などがあります。
蟲塚は、伊勢長島藩領主・増山正賢(雅号・雪斎)が写生に使った虫の死骸を寛永寺子院の勧善院に埋葬・供養したのが始まりで、雪斎の死後に蟲塚が建てられたそうです。
根本中堂の裏手に事務所がありますが、この奥に「葵の間」と呼ばれる部屋があるそうですが・・・
大政奉還後に徳川慶喜が謹慎した部屋らしいです。
公開はされてませんが、申込制で特別参拝ができたようです。
ただ現在は休止中のようです。
根本中堂の東側には、徳川将軍廟があるそうです。
ここも公開はされてませんが、申込制で特別参拝が可、でも現在は休止中です。
ここには、第4代・家綱、第5代・綱吉、第8代・吉宗、第10代・家治、第11代・家斉、第12代・家定が眠っているそうです。
公開はされていませんが、常憲院霊廟勅額門(常憲院は綱吉)と・・・
厳有院霊廟勅額門(厳有院は家綱)は柵外から見ることができます。
特別参拝はできずとも、これだけ見れれば、それなりに十分です。